2012年1月17日火曜日

台湾総統選挙、日台関係


台湾総統選挙で国民党の馬候補が勝利した。これで、誰もが予想しているように、中国との経済的な関係はいっそう深まるだろう。
また、この結果は、1996年以降の台湾の民主主義が一段と定着していることも示した。
同時に、中国の関係が深まる事への危惧、台湾国内での貧富の格差が拡大しているとの批判が非常に根強いことも明らかになった。

ところで、台湾と日本との関係は急速に強まっている。台湾における日本ブームは広がっている。東日本大地震への台湾の支援は、交流協会に依ると、以下の通りである。(紹介箇所は一部)
「3.資金援助
(1)台湾当局からの資金援助、3月12日、外交部、1億台湾ドルの資金供与を表明。
(2)台湾官民の義捐金
(イ)交流協会在外事務所での義捐金受付
    3月21日より、交流協会台北・高雄事務所において義捐金を受付開始。9月9日現在、約11億円(詳細は台北、高雄事務所ホームページ参照)
(ロ)台湾官民からの義捐金
外交部によると、外交 部等の機関と 民間団体を合わせた義捐金は、9月16日現在、66億6,553万台湾ドル(上記(1)及び(2)(イ)の額を含む、1台湾ドルを2.7円で換算すると約180億円)」

これに対する、日本の人々の感謝は、以下のような形でも行われている。
支援に感謝、台湾まで泳いで横断 福島出身の大学生スイマーら、2011/9/3 13:27日本経済新聞 電子版
「東日本大震災後、台湾から日本に寄せられた支援への謝意を伝えようと、福島県相馬市出身の大学生スイマーらが17日から2日かけて日台間を泳いで横断する。岩手・宮城両県知事の感謝メッセージを台湾側に渡す計画で、台湾側もサポートする。メンバーは「みんなで挑戦する姿勢、あきらめない気持ちも伝えたい」と話している。」

ところで、私は台湾企業と日本企業の連携の動きについて、Business Alliances between Japanese and Taiwanese Companiesと言う英文論文を作成し、Annual Research Bulletin of Osaka Sangyo Universityに投稿し、これからいくつかの学会に報告したいと思っている。近く刊行される予定なので、上記のサイトでご参照ください。

一部を日本語原文で紹介したい。
「このような情勢で、Hon Hai Precision IndustryのTerry Gou氏は、日台企業連合の可能性について、次のように述べている。「1)それぞれの長所を活かせること。日本企業の長所は培った技術と真面目さ、台湾企業のそれは高いフレキシビリティである。(2)知的財産権を尊重すること。我々は決してコピーしないし、ロイヤリティも必ず払う。鴻海もたくさんの知財を保有している。(3)正直で信用を重んじるなど、双方の文化が近いこと。(4)日本企業はブランドを持ち、我々は持たないこと。」(http://techon.nikkeibp.co.jp/article/NEWS/20110614/192553/)
この発言をふまえて、日台企業連合の可能性をまとめてみよう。1) 日本企業は長い歴史の中で世界的なブランドを確立している。一方、台湾企業はファウンドリーやファブレス、EMSなど、日本の企業とは異なるビジネスモデルを確立し発展したが、その中には、ブランドを持たない場合も少なくない。その意味で、相互補完関係を築くことができる、2) 日台にとって中国がともに大きな役割を果たしているが、台湾企業はすでに中国に強固な基盤を築いている。日本企業にとって社会主義中国への進出は、大きなリスク、いわゆるチャイナリスクを伴う。その点で、台湾は日本が中国に進出する橋頭堡になりうる。3) 日本と台湾とは歴史的に見て良好で緊密な関係、また、それを土台にして、双方で深く根付いた市場経済と企業活動を築いている。」

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2012年1月11日水曜日

『昭和天皇独白録』、The Emperor Showa's Monograph


新たな年の休みに偶然、日本の歴史を理解する上で、あまりにも重要で興味深い本に出会った。『昭和天皇独白録』である。
「「独白録」は、昭和二十一年の三月から四月にかけて、松平慶民宮内大臣、松平康昌宗秩寮総裁、木下道雄侍従次長、稲田周一内記部長、寺崎英成御用掛の五人の側近が、張作霖爆死事件から終戦に至るまでの経緯を四日間計五回にわたって昭和天皇から直々に聞き、まとめたものである。」(p.3)

まず、いくつか重要な内容を紹介しておきたい。
・「大東亜戦争の遠因、この原因を尋ねれば、遠く第一次世界大戦后の平和条約の内容に伏在してゐる。日本の主張した人種平等案は列国の容認する処とならず、黄白の差別感は依然残存し加州移民拒否の如きは日本国民を憤慨させるに充分なものである。又青島還附を強いられたこと亦然りである。」(p.24-5)
・「張作霖爆死の件、・・・この事件あって以来、私は内閣の上奏する所のものは仮令自分が反対の意見を持ってゐても裁可を与へる事に決心した。・・・
田中に対しては、辞表を出さぬかといったのは、「ベトー」を行ったのではなく、忠告をしたのであるけれ共、この時以来、閣議決定に対し、意見は云ふが、「ベトー」は云はぬ事にした。(注:なお「ベ卜ー」とはvetoで、君主が大権をもって拒否または拒絶することをいう。)」(p.28, 30-1)
・「開戦の決定、・・・私は立憲国の君主としては、政府と統帥部との一致した意見は認めなければならぬ、若し認めなければ、東条は辞職し、大きな「クーデタ」が起り、却て滅茶苦茶な戦争論が支配的になるであらうと恩ひ、戦争を止める事に付ては、返事をしなかった。
十二月一日に、閣僚と統帥部との合同の御前会議が開かれ、戦争に決定した、その時は反対しても無駄だと思ったから、一言も云はなかった。」(p.89-90)
・「敗戦の原因は四つあると思ふ。第一、兵法の研究が不充分であった事・・・。第二、余りに精神に重きを置き過ぎて科学の力を軽視した事。第三、陸海軍の不一致。第四、常識ある主脳者の存在しなかった事。」(p.99)
・「結論、開戦の際東条内閣の決定を私が裁可したのは立憲政治下に於る立憲君主として巳むを得ぬ事である。若し己が好む所は裁可し、好まざる所は裁可しないとすれば、之は専制君主と何等異る所はない。
終戦の際は、然し乍ら、之とは事情を異にし、廟議がまとまらず、鈴木総理は議論分裂のまゝその裁断を私に求めたのである。
そこで私は、国家、民族の為に私が是なりと信んずる所に依て、事を裁いたのである。」(p.159-160)

これらの記述から、当時の天皇と政府・軍部、そしてそれぞれの中に、また、日本と諸外国の間に、どのような相違と対立があったかがよくわかる。当時の日本が一体となって戦争への道に突き進んだわけではないし、天皇が、決して現人神としての役割を果たしたわけでもない。また、日本の側に一方的な戦争責任があるわけでもない。
この著作を含む当時のさまざまな文献と資料の研究が進み、多くの人々がこの著作を読み、改めて当時の日本の位置と第2次世界大戦について考える機会が増えて欲しいと思う。
また、私自身も、これを契機に、戦前のコーポレート・ガバナンス・直接投資の研究からより包括的な当時の研究に進みたいと思った。

<関連する私のブログ>
2.26事件を含む『昭和天皇実録 第七』が刊行される、An Official Record of the Emperor Showa Vol. 7 (2016.4.7)
DVD「東京裁判」を改めて見直す (2012.8.16)

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