2020年4月28日火曜日

速水融『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』(2)

Pandemic Influenza: The Inside Storyから
速水融『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』(1)で取り上げられなかったいくつかの点について紹介したい。

まず、スペイン・インフルエンザの世界的な影響である。このテーマを明らかにすることで、日本の位置がわかる。速水氏は冒頭で以下の様に述べておられる。
「スペイン・インフルエンザによる死亡者は、世界全体で二〇〇〇万から四五〇〇万、日本では内地だけでも筆者の計算では五〇万人近くに達する。当時の世界の人口は二〇億たらず、日本内地が五五〇〇万人であったことを思うと、約一~二パーセントである。」(13)ただ、なぜかここではこの数値の出所が示されていない。


そこで、速水氏の著作が刊行される前に発表されたNiall P. A. S. Johnson, Juergen Mueller (2002)がまとめたデータを一覧にして検討したい。
論文は5つの表を作成しているが、右の表では、主要国のデータを中心にまとめた。インフルエンザの影響を最も深刻に受けたのは、インドである。死者が1850万人で人口1000人に対する死者比率が60.5(原表では6.1)に達する。中国は多くの文献で不正確で、この論文も人数を幅広く推測している。
(なお、世界合計の人口1000人に対する死者比率は~25-50(原表では~2.5-5.0))
上記論文は、日本については『流行性感冒』の数値を採用している。右の表では、主に英米をはじめとする主要先進国のデータを掲載したが、日本の死亡率はドイツを除く先進各国と、ほぼ同じ水準である。後発資本主義国日本が、先進資本主義各国の水準にインフルエンザを何とかおさえ込んだと言えるだろう。

Wikipediaから
次に、もうひとつの論点であるスペイン・インフルエンザに対する各国の対応である。日本については『流行性感冒』がまとめた対応策を同書を取り上げたブログで詳しく紹介した。
ここでは、アメリカの各都市の対応を比較した興味深い論文があるので紹介しよう。
Howard Markel, MD, PhD他6名の、Nonpharmaceutical Interventions Implemented by US Cities During the 1918-1919 Influenza Pandemicである。論文では、主にセントルイス、ニューヨーク、デンバー、ピッツバーグが比較され、セントルイスが早くから実施した学校閉鎖や公共の集会の中止などの非医学的な介入が、インフルエンザの抑え込みに対して効果があったことが示されている。
日本について、速水氏が指摘するように、「こういった事態に、東京府、東京市は何もしなかったのか。何をすべきか分からなかった、というのが実相であろう。」(163)しかし、このセントルイスの対応と、『流行性感冒』に示された日本の対応策にはそれほど大きな違いは無かった。日本においても非医学的な介入が一定の効果を示したと推測される。

「人々はインフルエンザにどう対したか?」
上の問いについて速水氏は、「未曾有の大量の死者をもたらしたスペイン・インフルエンザに対し、政府や医学界は何も対策を講じなかったのか。
答えはイエスでもあり、ノーでもある。・・・何とかやりくりして、最悪の事態を回避した。何の準備もなかった当時のことを考慮すれば、これには「天晴れ」印を付したいくらいである。スペイン・インフルエンザによる死亡者数が、人口の〇・八パーセントでとどまったのも、いく分かはこういった対策が効いたのかもしれない。」(432-3)と述べている。

「教訓」
速水氏は続ける。「以上のように、スペイン・インフルエンザの病原体は、当時の専門研究者にとっても想定し得る範囲外のものであり、そうである以上、流行を食い止める方法を見つけることは不可能であった。・・・しかし、この過程に、日本の研究者はなんら関与していない。」
「結論的にいえば、日本はスペイン・インフルエンザの災禍からほとんど何も学ばず、あたら四五万人の生命を無駄にした。」(435-6)
速水氏のこの箇所での結論は、前段の評価とは異なって大変厳しい。しかし、日本の当時の実情についての包括的な調査の実施、それによる死亡率を含む影響の解明、低い死亡率に抑えようとした日本の様々な対応策を、当時の先進資本主義国と比較してみると、後発資本主義国日本が大きく遅れているとは言えない。
ただし、日本でスペイン・インフルエンザが長く忘れられ、研究も遅れてしまったのは事実である。その主な理由としては、直後に日本を襲った関東大震災や、急速な経済発展を達成し海外進出を加速した日本で、先進各国との競争と対抗が大きな課題となったことなどが挙げられるだろう。

ともあれ、速水氏の『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』は、戦後日本での初めてのスペイン・インフルエンザの包括的な研究であり、豊富な実情の資料の発掘とともに、「超過死亡(excess death)」という方法による、その影響の見直しを提示された。コロナウイルスの終わりがなかなか見えにくい今こそ、多くの方に読んでいただきたい基本的な文献である。

なお、次回のブログでは、クロスビー『史上最悪のインフルエンザ』を取り上げたい。

さらに詳しくは、書評論文「スペイン・インフルエンザに関する3つの基本文献の紹介論文】(クリックしてください)をご参照ください。


2020年4月27日月曜日

速水融『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』(1)

速水 融『日本を襲ったスペイン・インフルエンザー人類とウイルスの第一次世界戦争』(藤原書店、2006年) は、戦後日本で最初のスペイン・インフルエンザについての本格的な研究である。速水氏は、当時の広範囲な新聞を収集し、状況を再現しようとされている。以下に掲載した新聞は一例で、多数の新聞記事が掲載されている。

それとともに、速水氏は『日本帝国死因統計』等の文献と、超過死亡概念を用いて、前回のブログで紹介した『流行性感冒 「スペイン風邪」大流行の記録』の死亡者数を、見直そうとされている。

目次は以下の通りである。
序章 “忘れられた”史上最悪のインフルエンザ
第1章 スペイン・インフルエンザとウイルス、第2章 インフルエンザ発⽣―⼀九⼀⼋(⼤正七)年春―夏、第3章 変異した新型ウイルスの襲来―⼀九⼀⼋(⼤正七)年⼋⽉末以後、
第4章 前流⾏―⼤正七(⼀九⼀⼋)年秋―⼤正⼋(⼀九⼀九)年春、第5章 後流⾏――⼤正⼋(⼀九⼀九)年暮―⼤正九(⼀九⼆〇)年春
本文中に掲載された新聞の一例、p.103
第6章 統計の語るインフルエンザの猖獗(しょうけつ、(好ましくないものが)はびこって勢いが盛んであること) 第7章 インフルエンザと軍隊、第8章 国内における流⾏の諸相、第9章 外地における流⾏
終章 総括・対策・教訓
あとがき、資料 1 五味淵伊次郎の⾒聞記、資料 2 軍艦「⽮矧」の⽇誌、新聞⼀覧、図表⼀覧

まず、このブログでは、速水氏の理論を詳細に展開している第6章を紹介しよう。速水氏が採用した方法は次の通りである。「有効な方法とは、「超過死亡(excess death)」概念の適用である。ここでいう超過死亡とは、ある感染症が流行した年の死亡者数を求めるに際し、その病気やそれに関連すると思われる病因による平常年の死亡水準を求め、流行年との差をもってその感染症の死亡者数とする考え方である。」(237、以下数字は本書ページ数)この方法を用いた統計は、『日本帝国死因統計』で、そこでの流行性感冒、肺結核等8項目が病因の範囲とされた。

図6-1 月別インフルエンザ死亡者数
この方法によって算出された大正7(1918)年10月に始まる「前流行」のインフルエンザ死亡者は260,647人、翌大正8(1919)年12月に始まる「後流行」では186,673人、合計で453,152人となり、『流行性感冒』の388,000人を上回る。この超過死亡数に依拠した月別のグラフが、左の図6-1 月別インフルエンザ死亡者数(全国)〔1918年一1920年〕である。前流行は大正7年10月に始まり、翌11月に14万人近くまで急激に増加してピークに達し、その後減少に転じる。後流行では、大正8年12月に始まって翌年1月に8万人近くに急増し、その後しだいに減少する。

図6-3 年齢別インフルエンザ死亡率
速水氏は次に男女別を考察されているが、大きな差は見られない。これに対して、図6-3 年齢別インフルエンザ死亡率(全国・男女別)〔1918年一1920年〕では、顕著な特徴を見出せる。なお、分母は国勢調査の年齢別人口である。
この図によれば、死亡率が高い山は2つある。ひとつは5歳までの乳幼児で、もうひとつは25歳から34歳までの生産の担い手である。現在流行しているコロナ・ウイルスでの高齢者に死亡者が多いという特徴とは異なっている。

図6-7-3 府県別インフルエンザ死亡率
府県別インフルエンザ死亡率も重要な特徴を明らかにしている。「前流行」期の死亡率上位五県を取り出すと、香川県・福井県・岩手県・青森県・岐阜県となる。同様に「後流行」期の死亡率上位五府県をみると、兵庫県・大阪府・徳島県・山梨県・沖縄県となる。
以上を、全期間としてまとめたのが、図6-7-3 府県別インフルエンザ死亡率(全期間)である。図で9%以上となっているのが、青森県、兵庫県、大阪府、香川県、徳島県である。大阪府・兵庫県と四国2県が大きな中心地となっている。

以上の分析を詳しく行った上で、速水氏は、「「前流行」の猖獗した県では住民の多くが免疫抗体を持ったので、「後流行」では比較的被害を受けずに済んだこと、逆に、「前流行」では、多くの死亡者を出すほど猖獗しなかった県では、抗体を持った者が少なく、「後流行」で多くの死亡者を出したことを物語っている。そうすると、「前流行」と「後流行」は同一のウイルスによってもたらされた可能性が強いと言えるのではなかろうか。」(260-1)という、もうひとつの重要な結論を導き出されている。

以上で、主に第6章を紹介したが、次回のブログでは、スペイン・インフルエンザの世界的な影響、各国の対応策と日本に関する速水氏の見解などについて検討したい。

さらに詳しくは、書評論文「スペイン・インフルエンザに関する3つの基本文献の紹介論文】(クリックしてください)をご参照ください。


2020年4月18日土曜日

『流行性感冒 「スペイン風邪」大流行の記録』(1922年)

流行性感冒 「スペイン風邪」大流行の記録』(内務省衛生局編、東洋文庫  778、2008年)を、4月30日までダウンロードして読むことができる。図書館から借りられず、高額な中古品のみが出回っている今、このような試みを決断された平凡社に心から敬意を表したいと思います。
上掲書は1922(大正11)年に刊行された。原書の第7章が省略されているが、454ページにも及ぶ大著である。

解説者西村秀一氏(ウイルス学)は、この著作の意義を次の様にまとめておられる。
「『流行性感冒』は、報告書の形をとってはいるが、単に本邦での流行の拡がりの疫学的資料、流行被害の羅列ではない。背景となるそれ以前の流行や各国での経過、そして当時の世界の科学者の考え方をも包含しつつ、たとえば病原体論争へのかかわり方で見られるように、すべての局面で偏りのない判断を試みようとする真摯な科学的姿勢が随所に見られる、また引用文献のしっかりした学術書でもある。その一方で、これといった有効な武器をほとんど持たず、それでもこの流行の拡がりを少しでも食い止めようと、その持てる資源と英知でこの流行に立ち向かった当時の人びとの軌跡を具体的に知ることができる好書でもある。」

目次は、以下の通り。
第一章 海外諸国に於ける既往の流行概況、第二章 我邦に於ける既往の流行概況、第三章 海外諸国に於ける今次の流行状況並予防措置、第四章 我邦に於ける今次の流行状況、第五章 我邦に於ける予防並救療施設、第六章 流行性感冒の病原、病理、症候、治療、予防、第七章 英吉利及北米合衆国に於ける流行状況並予防方法の概要(加藤防疫官復命書)[省略、後日改めて紹介したい]、第八章 我邦に於ける流行性感冒に関する諸表。

以下では、2つの章を中心に紹介したい。
p.159に掲載された当時のポスター
第四章
冒頭で流行の概況がまとめられている。(Tは大正)
流行期が3回あり、患者数が2380万人と膨大で、第一回で全人口の約4割に達し、当時の日本社会を大きく揺るがした。3期合計の患者に対する死者数比率は1.63%、人口1000人に対する死者は6.75人とされる。この死者数については、速水氏の調査で過少と評価されているので
私のブログ速水融『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ-人類とウイルスの第一次世界戦争』(2)」で検討する。
また、この比率の、当時の世界各国の比率との比較は、これも同ブログで考察したい。なお、『流行性感冒』は、日本の統治下にある朝鮮と台湾についても調査しているので、私のブログ「スペイン・インフルエンザ:朝鮮・台湾とインド」で検討する。

第五章
流行性感冒の予防要項(p.177-)の注目すべき点を紹介しよう。
第一 病原及伝染径路(この項目は全文)
一、病原体としてプアイフエル氏菌、濾過性病原体又は他の菌を挙ぐる者あるも現今に於ては未だ学者間に意見の一致を見ず。
二、重症の流行性感冒には肺炎を伴ふもの最も多し。流行性感冒肺炎にはプアイフエル氏菌及肺炎双球菌重要なる意義を有す。
三、病原体の排泄口及侵入門戸は主として口腔及鼻腔なり。
四、感染は主として咳嗽(がいそう、せき)、噴嚔(ふんてい、くしゃみ)等の際に於ける飛沫伝染に因る。唾痰、鼻汁其の他寝具、食器、手拭等感染の媒介をなすことあり。
五、病原体保有者が伝染源となることあり。
p.185に掲載された当時のポスター
第二 予防方法(この項目は抜粋)、第一 伝染径路の遮断
甲、飛沫伝染の防止
一、咳嗽、噴嚔に関する注意、二、「マスク」の使用、
乙、患者の隔離
一、一般家庭、イ、患者はなるべく別室に隔離し別室なきときは屛風、衝立の類を以て健康者と隔つること。患者はなるべく早期に入院するを可とす。
丙、集会、集合の制限
一、演説会、講演会、説教等、二、学校、幼稚園等、(二)学校閉鎖、三、劇場、寄席、活動写真館等、四、祭礼、祝賀会、法会、葬式等に於ける多人数の集合はなるべく之を避くること。五、交通機関 咳嗽、噴嚔に関する注意、「マスク」の使用、唾痰の処置をなるべく励行すること。
丁、消毒
戊、含嗽(がんそう、うがい)
第二 予防注射第三 一般衛生
以上は、一部の紹介であるが、非常に詳しく基本的な対策を示している。掲載した2枚のポスターは、その基本的な内容を一般の人向けに伝えようとしたものである。

現在との相違についていくつか補足しておくと、『流行性感冒』は、1 都市全体の封鎖や交通機関の停止、2 工場を含む企業活動の停止、などについてふれていない。大正期の政府の権限はけっして小さくないが、経済活動を停止、停滞をさせてはならないということが当時の社会の強い要請になっているのだろうか。この点は現在の世界のかなりの国で行われている対応策とは異なっている。

もうひとつは政府の役割である。大恐慌期以降、現在では一般的になっている、政府による積極的な財政政策、金融政策、大小の個々の企業への支援、補償などについて、『流行性感冒』には注目すべき記述は無い。
その代わり、恩賜財団 済生会、慈恵救済資金、大礼恩賜賑恤資金等の各種慈善団体の、主に予防や治療についての活動が期待され、政府や自治体からの企業や個人に対する支援や補助はあまり行われていないようである。
これらの対応策について、現代と比較して改めて検討する必要がある。

なお、第六章は主に医学的な研究の分野なので、『流行性感冒』の解説者西村秀一氏(ウイルス学)をはじめ専門家の検討を参照していただきたい。

今まさにコロナ・ウイルスの第一波の渦中で、その正確な実態も十分に明らかではなく、第二波、第三波の可能性も否定できず、全体像がつかみにくい時期ではあるが、スペイン・インフルエンザの時期と現在との様々な角度からの比較研究は、ますます重要な課題となるだろう。ぜひ多くの方々に読んでいただきたい、スペイン・インフルエンザについての基本的な文献のひとつである。

さらに詳しくは、書評論文「スペイン・インフルエンザに関する3つの基本文献の紹介論文】(クリックしてください)をご参照ください。

2020年4月11日土曜日

新型コロナウイルスへの挑戦:日本モデルとセルフ・ロックダウン


左は、日本経済新聞2020年4月10日(25面)に掲載された、「日本の死者数の増加ペースは米欧を下回っているが・・・」という図である。最も信頼できる数値として利用される、米ジョンズ・ホプキンス大の調査をもとに作成されている。
この図の最大の特色は、各国ごとの死者数の、日数毎の変化を図示していることである。この図から日本の位置は明らかになる。
確かに、緊急事態宣言が出されてから、日本でのオーバーシュート(患者の爆発的急増)の危険が高まっているが、あわせてこの図もよく理解しておく必要があると思う。
(注:この図は、日経電子版からpdfが作成できず、スキャナでコピーした。日経電子版の読者の皆さんは、電子版の利用には制約があることを忘れないように)

新型コロナ専門家有志の会
ところで、新型コロナウイルス感染症対策専門家会議は、2020年4月1日の「新型コロナウイルス感染症対策の状況分析・提言」で、次のように結論づけている。
「世界各国で、「ロックダウン」が講じられる中、市民の行動変容とクラスターの早期発見・早期対応に力点を置いた日本の取組(「日本モデル」)に世界の注目が集まっている。実際に、中国湖北省を発端とした第1波に対する対応としては、適切に対応してきたと考える。」
その上で、「我が国でも都市部を中心にクラスター感染が次々と発生し急速に感染の拡大がみられている。このため、政府・各自治体には今まで以上強い対応を求め」るとともに、「法律で義務化されていなくとも、3つの密が重なる場を徹底して避けるなど、社会を構成する一員として自分、そして社会を守るためにそれぞれが役割を果たしていこう。」(以上p.11-12)と結んでいる。
この様な試みは、新型コロナウイルス感染症に対する医学的な挑戦であるとともに、民主主義と市民の行動変容を基礎とするひとつの社会的な挑戦・実験でもある。

カズさんの最新作
その意味を、サッカー人三浦知良さんは、「⽇本の⼒を⾒せるとき」で、次のように見事に簡潔に書いている。
「すべての⾏動が制限されるわけでない緊急事態宣⾔は「緩い」という声がある。でもあれは、⽇本⼈の⼒を信じているからだと僕は信じたい。きつく強制しなくても、⼀⼈ひとりがモラルで動いてくれると信頼されたのだと受け⽌めたい。」
「戦争や災害で苦しいとき、隣の⼈へ⼿を差し伸べ助け合ってきた。暴動ではなく協調があった。⽇本にはそんな例がたくさんある。サッカーの現場でも⽬にしてきた、世界でも有数の⽣真⾯⽬さや規律。僕らは⾃分たちの⼒をもう少し信じていい。⽇本⼈はこういうとき、「やれるんだ」と。」
「都市封鎖をしなくても、被害を⼩さく⾷い⽌められた。やはり⽇本⼈は素晴らしい」と後に記憶されるように。⼒を発揮するなら今、僕もできることをする。ロックダウンをせずとも「セルフ・ロックダウン」でいくよ。」(日本経済新聞、2020年4月10日)

このブログに続いて、「『流行性感冒 「スペイン風邪」大流行の記録』(1922年)」を作成した。あわせてご参照ください。

ブログのTOPブログの目次新保博彦のホームページ新保博彦の(YouTube)チャンネル

2020年4月7日火曜日

『青磁 清澄な青の至宝』を味わう

『青磁 清澄な青の至宝 (別冊『炎芸術』)』(阿部出版、2017年) を紹介したい。
コロナウイルスの影響が拡大し、図書館の利用もままならない日が続くが、たまたますばらしい本に出会った。この本の本体価格は2500円と安いとはと言えないが、掲載された作品の多様さ、鮮明で美しい多数の写真、詳しい解説記事などで、とても価値がある1冊だ。
最近は多くの方が、家でゆっくり本を読む機会も増えると思われるが、ぜひ手にとっていただきたい本である。

目次
序章 青磁とは何か
第1章 青磁の巨匠、岡部嶺男 清水卯一 三浦小平二
第2章 青磁の精鋭作家、中島 宏 川瀬 忍 髙垣 篤 福島善三 浦口雅行 若尾 誠 木村展之 若尾 経 伊藤秀人 志賀暁吉
第3章 青磁の注目作家、村田亀水 鈴木三成 原田卓士 峯岸勢晃 渡部秋彦 池西 剛 猪飼祐一 明石 大 津金日人夢 本間友幸 今泉 毅 吉田周平 今井完眞 藤田直樹
第4章 青磁を知る・見る・買う、中国青磁概略史、日本近代青磁概略史、青磁用語集、青磁の名品を所蔵する美術館、青磁マーケットプライス

まず、「”青磁”とは、鉄分を含んだ釉薬が高温の還元炎焼成(攻め焚きして、酸素不足の状態で焼く)によって青みを帯び、素地の土の色を透かして、青や緑にかがやく美しいやきものである。」(同書6、以下数字は掲載ページ数)
なお、「現在、多くの作家が陶土に青磁釉を掛けたものを「青瓷」、磁土に青磁釉を掛けたもの「青磁」と使い分けている」(3)

青瓷壺
以下では、同書のすべての作品を紹介したいほどだが、スペースの都合があるので、陶芸には全くの素人の私が、特別に魅入られた作品をいくつかを、2回に分けて紹介したい。

まず、志賀暁吉さんの「青瓷壺」(2006年)である。志賀さんは、「2007年の第19回日本陶芸展で大賞を受賞した・・・受賞作品の「青瓷壺」は、白味を帯びたマットな青磁軸が優しく光を放ち、豊かなボリュームを醸し出している。縦長の瓶の形状が新鮮で、とても清々しい。」(92)右の作品は、授賞作品に近いものという。

茜青瓷-屹立
私は、この作品とともに、貫入(かんにゅう)が見られない、本当になめらかな表面を持つ「淡青姿面取花生」(93)も、ご覧いただくことをおすすめしたい。

次に、髙垣 篤さんの「茜青瓷-屹立」(2005年)である。
同書解説には、「空を連想させるしっとりとした印象の青磁釉と、その同じ釉薬から生まれた鮮烈なイメージの茜色。その二つの出合いは、高垣篤に過去にはなかったまったく新しい青磁の表現を可能にさせた。」(50)とある。

「茜青瓷-屹立」は、明るい澄み切った色の青磁、屏風のような複雑な構造とともに、作品の稜線を彩る茜色が目を引く。そして、高垣氏の茜色を中心とした、「茜青瓷、<曙>」と題される作品が、本作品の次のページに掲載されている。あわせて見ると、2つの色の対照的な美しさが際立つ。

象牙瓷水指
最後に、若尾 経さんの「象牙瓷水指」(2010年)。
「若尾の青磁の中で唯一、固有の名称が付けられている「象牙瓷」は、淡く黄色味がかった釉色を特徴とするオリジナルな青磁だが、ボディーにスリットのような深い切れ込みが入ったり、釉薬を掛けない部分がある。」(80)

若尾さんには伝統的な青瓷の作品も多いが、「象牙瓷」は図の通り、柔らかい象牙色と、蕾のような、独特な形の作品で、本書中にも類を見ない。

比較的同じような色合いの作品をあえて挙げるとすれば、若尾 誠さんの「月白瓷茶垸」(72)だろう。経さんが若尾利貞さんの長男、誠さんが若尾利貞さんに師事していたからだろうか。

次回は、同書のさらにいくつかのすばらしい作品を紹介したい。

ブログのTOPブログの目次新保博彦のホームページ新保博彦の(YouTube)チャンネル