図録にも書かれているように、「有田の磁器生産は1610年代の創始以来、400年の輝かしい歴史を有している。・・・17世紀末には柿右衛門様式が完成し、18世紀初頭には古伊万里金襴手様式や鍋島藩窯様式が確立した。・・・次に大きな変化が見られるのは、19世紀後半の幕末・明治である。」(同書p.6、以下括弧内は本書ページ数)
私は以前のブログ、「「IMARI/伊万里 ヨーロッパの宮殿を飾った日本磁器」を見る、IMARI/ Japanese Porcelain」で、大阪市立東洋陶磁美術館で開かれた、特別展「IMARI/伊万里 ヨーロッパの宮殿を飾った日本磁器」を紹介したが、その後の有田・伊万里の動きを知る機会として、今回の展覧会はとても貴重である。
本書は以下の4部に分かれ、208ページのほぼ全ページに多数の図版と詳しい解説が掲載されていてとても楽しく読める。
I 万国博覧会と有田、II 「香蘭社」の分離と「精磁会社」の誕生、III 華やかな明治有田のデザイン、IV 近代有田の発展である。
Iの万国博覧会と有田を代表する作品が右の「染付蒔絵富士山御所車文大花瓶」(1873(明治6)年)である。1873(明治6)年のウィーン万国博覧会は、日本政府が公式に参加した最初の万博である。そこに出展された作品である。
「明治の有田焼の花瓶の中では最大高。全面に染付で富士山や龍文を描〈が、その上からさらに蒔絵で桜、反対面に松を描く、桜と松の部分は剝離防止のため無釉地に漆塗りしているが、他の漆文様は染付釉上に施している。」(34)
高さは台まで入れると2m以上になるという。陶芸館に入ってまずその大きさと豪華さに圧倒させられる作品である。
IIの時期を代表する作品が「香蘭社 色絵有職文耳付大壺」(1875(明治8)年~1880年代)である。
1879(明治12)年、精磁会社と分離したのを機に、深川栄左衛門は香蘭合名会社を設立した。そこでの作品である。
「胴を巡るように帯状の凹凸が設けられ、段ごとに異なる文様が精緻に描き込まれる。 濃く鮮やかな青の占める面積が多〈、微細な文様の輪郭を一つずつ金彩で丁寧に囲んでいることから、金属線で象った文様に色ガラスを流し込む有線七宝のように見える。」(61)
有線七宝については、このブログでも同じ明治期の並河靖之を、「日本の工芸:七宝、並河靖之、Shippo, Yasuyuki Namikawa」で紹介したが、当時の技術の高さをともに示している。
左の図をクリックして拡大して見ていただきたい。上記の説明の通り、気の遠くなる作業によって、見事に細かく描きこまれている。陶芸館では全面を見られるので、一回りして見てみるとさらにその見事さに驚いてしまう。
同じくIIの時期の作品が、右の「精磁会社 色絵鳳凰花唐草文透彫大香炉」(1879(明治12)年~1897(明治30)年頃)である。
精磁会社は、1879(明治12)年に、手塚亀之助、辻勝蔵、深海墨之助らが香蘭社から分離独立して設立した会社である。精磁会社には、当時の有田の最高技術を持つメンバーが集結した。
「豪華絢欄な装飾が施された高さ1mに及ぶ大香炉。最新の顔料などを駆使し、窓絵の鳳凰や花喰烏などが描き込まれた綿密な吉祥文様には、当時の技術者たちの意気込みが感じられる。」(84)
なお、八代深川栄左衛門の次男、深川忠次は、・・・1894(明治27)年に独立し、深川製磁を設立。有田を代表する窯元として現在に至っている。
1911(明治44)年には企業形態を陶磁器会社としては珍しかった株式会社とし、深川製磁株式会社となる。これも当時の有田の先進的な試みとして注目したい。
最後に、IVの時期を代表する作品が、「香蘭社 染付精磁陽刻雲鶴文耳付大花瓶」(1910(明治43)年~1920年代)である。
「香蘭社に図案が存在し、製品が鍋島家に伝わる貴重な作例。全面に陽刻で雲鶴文が施され、首部に家紋である杏葉紋をあしらった唐草文の文様帯が一周する。」(179)
全体の色調が青と白になり、これまでの金色をふんだんに使ったものから一変する。先に紹介した深川製磁の製品は「フカガワブルー」と呼ばれて欧米でとても人気であったと言われるが、この香蘭社の製品にも同じ特徴が見られる。
このブルーを背景にした中央の白の鶴が際だって美しい。
以上のように、明治期の有田は、外国の技術や経営形態を積極的に取り入れ、また海外市場に大胆に進出することで、飛躍的な発展を遂げた。
この事例は、その後の日本の工業化に引き継がれただけではなく、現代の日本にも求められる課題を指し示してと思われる。
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