私の一連のスペイン・インフルエンザについてのブログで、取り上げた発展途上国はインドであり、インドはこのパンデミックの最大の被害国であった。では、もうひとつの大国中国はどうだったのだろうか?
私のブログでは、スペイン・インフルエンザについての世界的な統計として検討した2つの論文、Niall P. A. S. Johnson, Juergen Mueller (2002)と、K. D. Petterson and G. E. Pyle (1991)は、ともに中国の死者を400万人から950万人と推計している。
1918年からの数年間に、中国社会では何が起きたのだろうか?1911年に始まった辛亥革命は、250年間以上続いた清王朝を倒し共和制の新しい時代を切り開いた。1919年には中国北京の大学生を中心として起こった民族運動である五四運動が起こり、1921年には中国共産党が設立された。このように激しく揺れ動いた社会で、スペイン・インフルエンザには十分に目が向けられなかった可能性がある。
中国の都市を捉えた『流行性感冒』
内務省『流行性感冒』(1922年)は中国にも着目しているが、対象となったのは都市が中心で、感染爆発が起きているようには見えない。
「満洲地方に於ては大正八年十一月又は十月下旬より本病患者の発生を見十二月に入りて稍々流行激げしき地方もありたるも多くは激げしき流行を見ずして翌九年一月下旬又は二月上旬に終熄せり、一般に病勢は先年のものに比して軽症にして患者に対する死亡率は約二%乃至五%位にあり。」
この後、山東について触れ、次に以下のように記述している。
「支那地方に於ける状況 二、三の地方を除き流行一般に軽微にして或は患者発生なき地方もありき。・・・香港に於ける患者概数は一月一日より二十三日迄に四万五千人発生し人口の約一割に当れり。」(以上、p.69-72)
飯島渉氏の『感染症の中国史』
飯島渉氏の『感染症の中国史』(中公新書、2009年)は、次のように書いている。「中国でもインフルエンザの流行が確認できますが、その実情はよくわかっていません。世界各地のインフルエンザの流行状況との比較から、中国でも1000万人近くの死者が発生したとされる場合もあります。しかし、中国海関などの資料を勘案すると、それは過大な数字で、中国での死者は100万人程度にとどまったのではないかと考えられます。」(p.195)
同書は、1919年の中国の感染症については、コレラを中心に記述している。飯島氏は、当時の中国ではコレラの蔓延がより重要な課題だったとされているようである。特に、詳しい調査の対象となっているには、上海共同租界と香港、そしてコレラ蔓延の経路となった主要鉄道路線周辺である。
What happened in China during the 1918 influenza pandemic?
最後に、海外の論文をみてみよう。K.F. Cheng, P.C. Leung, What happened in China during the 1918 influenza pandemic?, International Journal of Infectious Diseases (2007) 11, 360—364である。
この論文には、2つのデータが掲載されている。まず香港と上海の死者だが、『流行性感冒』と同様に少なく、十分な調査とは言えない。もうひとつの調査は、熱河省 (Rehe County)のデータで、感染者6200人、死者151人、患者に対する死者比率は2.4%となっている。
なお、この論文は中国で感染者と死者が少ない事実について、2007年の論文ではあるが、「伝統的な漢方薬 (traditional Chinese medicine (TCM))が重要な役割を果たしたかもしれない」 (p.363)と述べている。しかし、この結論を明確に証明するデータは掲載されておらず、また中国のスペイン・インフルエンザ以後の感染症の歴史をみても、この推論を証明するのは困難だと思われる。
以上いくつかの重要な文献を検討してきたが、スペイン・インフルエンザの中国での影響を十分に明らかにすることはできなかった。そもそもデータが、一部の大都市の断片的なものにとどまっており、さらに、人々の多くが住む地方についてはほとんどデータが無い。
第1次世界大戦後の中国の実情についての中国での研究は、中国共産党の設立と発展が中心で、より広範囲な経済と社会の研究は大きく立ち後れている。中国におけるスペイン・インフルエンザの影響についても明らかにされるのは、まだ先のようである。