今年(2021年)7月1日、中国共産党は創立100周年を祝った。この100年間に、中国共産党は中華人民共和国を成立させ、その独裁政権による強力な指導で、世界で第2番目の経済大国に成長した。しかし、中国共産党が犯した誤りと悲劇も、その成果に匹敵するほど重大であった。
整風運動と毛沢東思想の確立
中国共産党と毛沢東について、十余年にわたる調査と数百人におよぶ関係者へのインタビューにもとづいて、包括的に批判したのが、ユン・チアン、ジョン・ハリデイ『真説 毛沢東 誰も知らなかった実像』、講談社、2017年(Jung Chang and Jon Halliday, Mao: The Unknown Story, Anchor, 2005)である。中国で毛沢東思想が確立したのは、1942年からの整風運動の直後だった。整風運動は、表向きは、「学風」、「党風」、「文風」の三風を整頓するという意味であったが、「整風運動がもたらした最大の成果は、国民党とのありとあらゆる関係が徹底的に明らかにされたことだった。毛沢東は「社交関係表」を作り「全員にあらゆる種類の社交関係を細大漏らさず書かせよ」と命じた。整風運動を終了するにあたって、当局は一人一人の党員に関する調査書類(檔案)をまとめた。」(ユン・チアン、ジョン・ハリデイ、6908、Kindle版での位置)
調査の対象とされたのは、王明をはじめ、のちに何度も批判の対象となる周恩来、彭徳懐、劉少奇など名だたる中国共産党の指導者たちが含まれていた。その結果、「整風運動以前の代表約五〇〇人のうち、半数はスパイの疑いをかけられて言語に絶する迫害を受けた。自殺した者もいれば、精神に破綻をきたした者もいた。多くが代表から外された。かわりに、毛沢東に対する忠誠の証明された新しい代表が何百人も任命された。」(7467)整風運動を通じて毛沢東は個人崇拝を確立し、毛沢東思想が共産党の指導理念となった。こうして、現在の共産党の原型が形成された。
コミンテルンとソ連から派遣され延安に滞在したピョートル・ウラジミロフ『延安日記』は、整風運動について次にように書いている。「延安では自殺するものが後を断たない。市中はまるで強制収容所のようだ。」(123)毛沢東による整風運動と同様の粛清は、スターリンの大粛清よりも前の1930-31年に始まり、共産党の歴史のあらゆる時期に、特に文化大革命と天安門事件を経て、今に至るまで続く。
この書籍と関連する文献、そしてアメリカの誤った対応については、私の「ローズヴェルトの対中政策と整風運動に関する文献の紹介」 【論文】で紹介しています。あわせてクリックしてご参照ください。
四千五百万人を死に追いやった大躍進(1958-62)
近代中国歴史上最も悲惨で、世界に類を見ない惨劇となった大躍進を明らかにしたのが、フランク・ディケーター『毛沢東の大飢饉: 史上最も悲惨で破壊的な人災 1958-1962』、草思社、2019年(Frank Dikötter, Mao's Great Famine: The History of China's Most Devastating Catastrophe, 1958-1962, Bloomsbury Publishing, 2010)である。
中華人民共和国が成立して十年も経っていない一九五八年から六二年にかけて、毛沢東は、十五年以内にイギリスに追いつき追い越すという、無謀な「大躍進」を開始した。この政策を担ったのが人民公社である。「河南省嵖岈(さが)山には、一九五八年二月に小麦一ヘクタール当たり四千二百キロを目標に掲げた全国初の人民公社(「スプートニク人民公社」と呼ばれた)が登場した。」(同書、96)その後、全国各地に人民公社が設立され、生産目標を競うことになった。「各公社では日常生活のあらゆる面が軍隊式に統制され、土地や労働を含むほぼすべてが集団化された。
この無謀な計画は期待された成果を生まなかっただけではなく、無理矢理大量に動員された農民の生活を破壊した。これらの事業の犠牲者である、「(雲南省陸良県で)飢餓による初めての死者が出たのは、一九五八年二月だった。六月には、あちこちで飢餓による浮腫(むくみ)の患者が現れ、千人が餓死した。」(87-8)このような事態が起こっているにもかかわらず、政府・共産党は穀物の輸出に力を入れた。「党は農村部の需要を無視した政治的な優先順位を決め、政府は契約の履行と国際的な評判を維持するために穀物輸出量を増やす決定を下した。こうした姿勢は、一九六〇年の「出口第一(何より輸出優先)」政策の採択に表れた。・・・こうした優先政策のつけは膨大な農民の死という形で回ってきた。」(233-4)
大躍進と人民公社という無謀な政策、その結果として生じた大飢饉、この過程を推進したのは毛沢東であったが、一党独裁を維持する共産党内部では激しい対立と闘争、そして妥協と追随を伴っていた。毛沢東の推進する政策に反対する党員は「反党集団」「反党グループ」「右傾分子」「右派」として徹底的に排撃され追放された。
「中国において、一九五八年から六二年にかけて、少なくとも四千五百万人が本来避けられたはずの死を遂げたーこれが本書の見解である。」(15) しかし、「・・・たとえば、ポル・ポトやアドルフ・ヒットラー、ヨシフ・スターリンが引き起こした大惨劇に比べると、大躍進の真の姿はほとんど知られていない。」(14)ちなみに、ユン・チアン、ジョン・ハリデイは、大躍進の犠牲者を3800万人と推定している。(12082)
この書籍について詳しくは、私の「書評 『毛沢東の大飢饉』」【論文】で紹介しています。あわせてクリックしてご参照ください。
中国ではその後、よく知られている文化大革命と天安門事件が起こる。これらについての重要な文献は改めて紹介したい。
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