ロシアによるウクライナ侵攻が始まって1ヶ月半、各地でロシアによるジェノサイドが明らかになりつつあるが、ロシアの侵攻は止まらない。なぜロシアはウクライナに侵攻するのか、それを考えるのには、歴史を遡ることも必要である。なかでも、1932-33年にソ連がウクライナで引き起こした飢饉に注目したい。
本ブログと
次回ブログでは、この飢饉を明らかにした、重要な文献を二つ紹介したい。まず、
ティモシー・スナイダー(Timothy Snyder)『ブラッドランド〈上〉〈下〉―ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実』(原著"Bloodlands"、
2010年、布施由紀子訳、2015年)である。スナイダーは1969年生まれ、イェール大学教授である。
本書全般の課題:流血地帯(ブラッド・ランド)
スナイダーは次のように定義する。「流血地帯(ブラッド・ランド)は、ヨーロッパ・ユダヤ人の大半が暮らしていた土地であり、ヒトラーとスターリンの覇権主義政策が重複した領域であり、ドイツ国防軍と赤軍が戦った戦場であり、ソ連の秘密警察、NKVD(内務人民委員部)とナチス親衛隊が集中的に活動した地域でもあった。・・・。一九三〇年代から四〇年代初頭にかけての政治地理学でいえば、ポーランド、バルト三国、ソヴィエト・ベラルーシ、ソヴィエト・ウクライナ、ソヴィエト・ロシアの西部国境地帯がここに入る。」(16、地図は1933年頃、22-23)
ここで、ナチスとソ連は1,400万人を殺害した。この数値には、戦闘任務に就いていた兵士は含まれていない。
「ヨーロッパで起きた大量殺人は、たいていホロコーストと結びつけられ、ホロコーストは、迅速な死の大量生産と理解される。だがこのイメージはあまりに単純ですっきりしすぎている。ドイツとソ連の殺戮場で使われた殺害方法はむしろ原始的だった。一九三三年から四五年までのあいだに流血地帯で殺された一四〇〇万人の民間人と戦争捕虜は、食糧を絶たれたために亡くなっている。」(19)
ウクライナにおける1932-33年の飢饉
この殺戮の最初は、このブログが注目する、ウクライナにおける1932-33年の飢饉であり、「第1章 ソ連の飢饉」が取り上げている。(これ以外の章も重要であるが、別の機会に紹介したい)1928年から32年にかけてスターリンの第1次5か年計画が実施された。この直後にソヴィエト・ウクライナで農業の集団化が一気に進み、ウクライナ農民は、共産党に搾取される「第二の農奴制」(68)が始まったと理解した。
1931年秋には始めて不作が明らかになり、同年末には多数の農民がすでに飢え始めていた。スターリンと共産党はその事実を知りながら、農村からの徴発をいっそう厳しくした。飢饉の実態は、以下の節が詳しく描いているが、あまりにもひどい実態で、読むのが本当につらい。「静まり返った村」、「たがいを食べ合う子供達」
「人肉食(カニバリズム)は人間社会のタブーであり、文献でもタブーである。・・・飢饉にはカニバリズムがつきものだ。ウクライナでは、ある時点でまったくといってよいほど穀物がなくなり、人肉が唯一の肉となった。」(101)
10カ国語を読むことができるというスナイダーは、国勢調査、わずかな当局の記録、後の様々な研究などから、次のような結論を導き出した。「一九三二年から三三年にかけて、ソヴィエト・ウクライナで餓死した人、または栄養失調の関連疾患で死亡した人の総数は、およそ三三〇万人と考えるのが妥当のようだ。これらの人々のうち、約三〇〇万人はウクライナ人で、残りがロシア人、ポーランド人、ドイツ人、ユダヤ人などだった。」「「ジェノサイド」という用語を考案したポーランド・ユダヤ人の国際弁護士、ラファウ・レムキンは、のちにウクライナのケースを「ソ連によるジェノサイドの典型例」と呼ぶこととなった。」(105)
ジェノサイドについては、私の「書評 ネイマーク『スターリンのジェノサイド」(私のHP, 2020年の論文)も参照。
ジェノサイドの原因
このジェノサイドの原因について、スナイダーの見解を見てみよう。「農村経済から工業経済へと、大きな痛みをともなう移行にかかる当初資本をどこから引っぱってくればよいのか。ひとつの方法として、農民から「余剰収穫物」を取りあげることが考えられた。それを売り、機械類の輸入に必要な外貨を獲得する。そしてその金で、増大しつつある労働者階級の胃袋を満たそうというのだ。」(45)そして、選ばれたのが豊かな穀倉地帯で多数の農民を抱えるウクライナであり、徹底した徴発が行われたウクライナでの抵抗を民族主義として弾圧し支配しようというロシア民族の野望である。
ロシアによるウクライナ侵攻の歴史的背景のひとつ
スターリンによるウクライナにおける飢餓と弾圧は、ソ連崩壊後の混乱したロシアを掌握した、ソ連のKGB出身者プーチンによるウクライナ侵攻に受け継がれる。ウクライナをロシアの支配下に置こうとする戦略は、それを成し遂げるための徹底した情報操作と軍事力の行使を伴っている。
いくつか重要な歴史的課題
ところで、ウクライナの悲惨な飢饉を、世界は様々なルートで知っていた。しかし、ソ連との関係を考慮して、その事実を隠蔽したものがいた。代表的な人物として、スナイダーは次の人物を挙げる。ニューヨークタイムズ紙のモスクワ特派員で「一九三二年にピュリツァー賞を受賞したデュランティは、・・・「現実には飢饉などはなく」、ただ「栄養不良のために病気にかかって死ぬ人が増えている」だけだと断言した。」(109)こうしたアメリカ有力紙の世論操作も影響して、1933年11月にアメリカはソ連を承認し、その後第2次世界大戦における、ルーズベルトとスターリンの同盟が進められた。
ソ連によるウクライナ飢饉と、中国の「4500万人の死」
最後に、ソ連によるウクライナ飢饉と、中国の「4500万人の死」をもたらした大躍進政策における飢饉は、同じ原因で生まれたことを付け加えたい。中ソは、共産主義という共通のイデオロギーをもとに、後発国の工業化を進めるために、農業地域からの大規模で強制的な農産物の徴発を容赦なく進め、農産物を輸出して工業のための設備・材料などをを調達した。中国の大躍進期の飢饉については、フランク・ディケーター(Frank Dikötter)『毛沢東の大飢饉: 史上最も悲惨で破壊的な人災 1958-1962』が詳しい。あわせて参照していただきたい。私の書評 『毛沢東の大飢饉 史上最も悲惨で破壊的な人災 1958-1962』(私のHP, 2020年の論文)も参照。
次回のブログは、コンクエスト『悲しみの収穫』を紹介したい。
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