(第2章 孕胎)
1930年代の京城紡織 |
金氏の若い世代、「金性洙と秊洙は、日本留学を通じて近代社会と近代知識を体験、勉強し、近代化という時代の課題を自覚した。しかしそれよりもっと重要なことは、留学生活を通じて当時最高のエリートたちのネットワークを構築したことである。」(60)
(第3章 不安な出発)
1930年代の京紡の役員 |
いよいよ朝鮮人主導の本格的な株式会社が創設された。すでに日本では、幅広く株主を求めた多数の株式会社が設立され、その一部が海外にも進出していた。京城紡織はその動きに学んでいたのである。
(第6章 絶頂期へ:1938~1945年まで)
1930年代後半の日本の満洲への本格的な進出にともなって、京城紡織も満洲での事業の拡張を進める。「朝鮮でこれ以上の事業拡張を望めなかった金秊洙が朝鮮の外、満洲で活路を模索し始めたのは当然のことともいえる。その結果物ともいえるのが、1939年12月に京城紡織の出資で設立した資本金1千万円の南満紡績株式会社(以下、南満紡績と略する)である。」(174)
終章
朱益鍾氏は全体のまとめとしてこう書いている。「エッカートは、殖産銀行からの借入れや出資、日本の貿易商からの原料綿糸の供給、日本の紡織会社からの設備導入と技術提供、日本人綿布商を通した製品販売、総督府の干渉による労働争議の解決、日本の満洲進出に伴う満洲進出などを詳細に実証した。京城紡織の日本人企業および総督府との緊密な交流・協力関係を明かしたのは、エッカートの大きな功績である。しかし、韓国人企業や企業家は日本帝国が養育した存在であるという彼の結論は、取引関係を支援、あるいは依存関係とみる一種の論理飛躍である。」(204)
しかし、朱氏はその関係は一方的ではなく、次の通りであると説明している。「つまり、京城紡織と植民地金融機関、日本人企業の関係は、基本的に前者に対する後者の支援、協力の関係というよりは、一般的な取引関係、すなわちgive-and-takeの相互利益関係であった。」(205)
私も、Japanese Companies in East Asia: History and Prospects: Expanded and Revised Second Editionで詳しく検討しているように、朝鮮人企業と朝鮮総督府、日本企業との関係は、市場経済と市場中心型コーポレート・ガバナンスを基盤にした相互依存関係であり、私の基本的な用語であるCollaborationとAllianceの関係であったと考えている。両者は、市場経済と企業活動の発展について、共通の目標と課題を抱えていた。終章の最後の節は「優れた学習者:大軍の斥候」と記され、書名の理由を示している。「優れた学習者で成功的な後発者であった日本植民地下の京城紡織は、李光洙が表現したように「後ろに迫る大軍の斥候」であったのである。」(218)
朱益鍾氏の研究は、広範囲で具体的な資料を駆使し、エッカートの研究を朝鮮(韓国)側の立場と役割を明確にさせつつ、いちだんと推し進めたものと言えるだろう。朝鮮・韓国経済史に興味を持たれた方にはぜひとも読んでいただきたい書籍である。
朱益鍾氏も著書の一人である、『反日種族主義』について詳しくは、私の論文「書評:李栄薫編著『反日種族主義』その1落星垈経済研究所の経済学者などによる批判」を、【2019年の論文】でご覧ください。
戦間期朝鮮経済史と反日種族主義批判の最近の動向をまとめた『論文・書評集:戦間期朝鮮経済史と反日種族主義批判』は、以下に掲載しています。【新保博彦の日本語版Website TOPページ】
左上の写真
写真内の右上:東京留学中の金性洙(左)と金秊洙、左上:1921年の金性洙、左下:1921年の金秊洙(エッカート著の冒頭写真集2ページ目)右上の写真写真内の上:1930年代の永登浦にあった京城紡織株式会社の航空写真、下:1930年代の京紡の役員、後列(左から):金在洙、李康賢、崔斗善、尹柱福、前列(左から)閔ピョンス、玄俊鎬、金秊洙、朴興植(エッカート著の冒頭写真集5ページ目)