「遡ること1989年。かねてより自身を「安吾の生まれ変わり」と公言してはばからなかった野田は、敬愛する作家・坂口安吾の「桜の森の満開の下」と「夜長姫と耳男」を主な下敷きとして、そこに幾つもの安吾作品のエッセンスを散りばめるという大胆な剽窃(=remix)によって、野田にしか描くことのできない壮大な戯曲を書き下ろした。それが『贋作 桜の森の満開の下』の誕生だ。」(nodamap.com)
贋作版はこうして30年もの長い歴史があるが、その中にはパリ国立シャイヨー劇場での公演もあった。贋作版もシネマ歌舞伎版もともに、舞台や衣装の美しさはともにすばらしいが、贋作版は、豊かに舞い散る桜と、随所に使われるテープがとても印象的だ。
贋作版は耳男が妻夫木聡、夜長姫が深津絵里だが、この二人の演技がすばらしい。野田は妻夫木を「弱っちい、翻弄される側の人間」などと評している。深津は、耳男の耳を切り落とすよう命じたり、最後の場面では人々を次々と殺すように命じたり、その優しい表情とは全く異なる妖しさを見事に演じている。
贋作版、テレビから |
それは、贋作版の最後の天皇の御幸と鬼の行列がクロスする場面に、人間と鬼の関係がよく表れていると言う。「作った人間と、土の下に埋もれたものとしての鬼」である。
シネマ版、テレビから |
ただ、シネマ版では、鬼達の衣装は画像のように、歌舞伎らしい豪華さだが、このような交錯は表れず、鬼は花道を通って去っていく。シネマ版の演出者は、どのように考えているのだろうか?
ところで、小松和彦氏は、鬼を次のように説明している。「「鬼」は「人間」の反対概念である。すなわち、日本人が抱く「人間』概念の否定形、つまり反社会的・反道徳的「人間」として造形されたものなのである。」『鬼と日本人』、p.6)確かに、私達の周りには様々な鬼がいる。
こう書いてしまうと、ストーリーが明解のように聞こえるが、実はそうではない。この点を、妻夫木は次のように語っている。野田作品は「言葉にならない何かを表現している」。59公演をこなした自分にも観客にも、何もかもがすばらしいにもかかわらず、演劇から得られる「感動の意味がわからない」と言う。「贋作 桜の森の満開の下」の底流には、先ほどの野田のストーリーがあるのだろうが、この舞台には、様々なストーリーが織り込まれているので、ストーリーがとても複雑だからだろう。その複雑さからいろいろな意味を見出せるのが、この劇の豊かさになっているのだろうと思う。
お盆のひとときにぜひ観ていただきたい舞台(録画)である。
なお、シネマ歌舞伎『野田版 桜の森の満開の下』については、左のタイトルをクリックして、私のブログを参照してください。
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