2021年2月24日水曜日

辻 惟雄『よみがえる天才1 伊藤若冲』

辻 惟雄『よみがえる天才1 伊藤若冲』が2020年4月に刊行された。辻氏の最新作で、それだけでも注目されるのだが、次の様な点でも注目に値する。

同書は、筑摩書房創業80周年記念出版「ちくまプリマー新書新シリーズ」の1冊だが、そのすばらしい構成に驚かされる。左のような、67の高精細な画像が、場合によっては見開きのページで掲載されている。

目次は以下の通り。

はじめにー謎と不思議の天才絵師、伊藤若冲、第1章 生い立ち──画家としての出発、第2章 《動植綵絵》制作──画家としての名声確立、コラム1 若冲は人物画が苦手?、第3章 若冲画の世界──その多様さ、おもしろさ、コラム2 《動植綵絵》は隠し絵の宝庫?、第4章 画業の空白期と、新たな若冲像、コラム3 作品にひそむ科学の視点──フラクタルと進化論、第5章 激変した生活──最後まで画家であり続けた晩年、コラム4 精神医学からみる若冲の絵画表現、あとがき、若冲年表、参照文献。

私は、彼の作品を紹介した文献・資料をこのブログでいくつも紹介してきた。未発見の大作 伊藤若冲「十六羅漢図」(2019.8.22)、『若冲の世界』(TJmook, 狩野博幸監修) (2017.12.23)、太田彩『伊藤若冲作品集』で若冲の全作品を愉しむ (2016.7.6)、『若冲原寸美術館 100%Jakuchu!』、原寸図で若冲を楽しむ (2016.6.29)、『伊藤若冲 動植綵絵 調査研究篇』、Jakuchu Itoh (2014.3.6.)などである。

そこで、今回のブログでは、私が辻氏のこの著作で特に関心を持った箇所に限って、詳しく紹介したい。

辻氏は、若冲が「動植綵絵」を生命感に溢れた極彩色の絵画として描いた理由について、次のようにまとめられている。「その有力な仮説として挙げられるのは、仏教の「草木国土悉皆(しっかい)成仏」という思想を若冲なりに解釈し、絵として具現化したものなのではないか、というものです。「草木」は植物や生き物、「国土」はまさに国土を形成する鉱物や無生物などのことで、両者を合わせると「自然界のすべてのもの」となります。つまり「草木国土悉皆成仏」とは、自然界にあるすべてのものが仏性をそなえ、仏になれる可能性をもっているという意味の言葉です。」(94、数字は本書ページ数、以下同じ)

「「草木国土悉皆成仏」とはそのような、「アニミズム」と呼ばれる世界観をもつ思想です。」(95)「アニミズムというのは、石などの無生物も含めて自然界のありとあらゆるものに霊魂が宿るとする世界観であり、そういった霊的な存在に対する信仰のことをいいます。」(96-7)その感覚は、冒頭に掲載した「貝甲図」や「地辺群虫図」(図24)によく表れている。

辻氏は、「コラム1 若冲は人物画が苦手?」で、人物画について、「下手といってもいいほどで」と書かれている。(107)しかし私は、若冲の「草木国土悉皆成仏」思想が、人間を特別の対象とするルネッサンスの画家達と異なって、人間を特別な存在として注力して描かなかった理由ではないかと思う。

次に、辻氏は次のように指摘される。「このころ(七十三歳ごろ)から若沖は、意図的に弟子をつくり、工房で制作していく方式に切り替えていったと考えられます。弟子の数は四、五人いたようですが、彼らに水墨などを描かせては、出来のよいものに自分のハンコを押して、多くの「若沖作」の絵として世に出していきました。」(213)完璧主義者の若冲像からは、やや意外な感がするが、その時期の作品を見ると納得できる。

若冲は、この時期に多くの升目画を制作する。「白象群獣図」(図52)、「樹花鳥獣図屏風」(図61、静岡本)、「鳥獣花木図屏風」(図62、出光本、旧プライス・コレクション、左上の画像)である。「鳥獣花木図屏風」について佐藤康宏氏は「すべてはゆるみきって凡庸である」として、「絶対に若冲その人の作ではない」と主張されている。(「もっと知りたい伊藤若冲」)これに対して。辻氏は「私は若冲がいなければ、この作品はあり得なかったと考えています。」(217)として、微妙な表現に止めておられる。この興味深い論争が今後どのように展開されるか注目したい。

ところで、今回の辻氏の著作が興味深いのは、上記目次に示したように、コラム欄で他分野の研究者の伊藤若冲論を取り上げられたことだろう。コラム2と3は、医師の赤瀬孝之氏、コラム4も医師の華園力氏の所説である。(p.241には氏名の誤植がある)
意外な興味深い論点が提供されているので、ぜひあわせてご参照ください。このように伊藤若冲への関心は、今なお多くの分野に広がっている。

なお、右上の「象と鯨図屏風」は、MIHO MUSEUMが所蔵している若冲最晩年の作品で、若冲の想像力の豊かさを象徴する作品のひとつである。最近になって発見され、同美術館で最初に展示されたのを見る機会を得た、私にとっては思い出深い作品である。

この新書には、若冲の主な作品とそこに込められた若冲の思想と関心、若冲が駆使した様々な技法などが、とてもわかりやすく説明されている。多くの人々、特に若い世代の人々が読まれることを期待したい。

2021年2月3日水曜日

『回顧 入江泰𠮷の仕事』

ずいぶん遅れてしまったが、貴重な写真集『回顧 入江泰𠮷の仕事』(写真:入江泰𠮷、編集:入江泰𠮷記念奈良市写真美術館、光村推古書院)を紹介します。
「奈良大和路をこよなく愛し、数多くの作品を残した写真家・入江泰𠮷(一九〇五~一九九二)」(はじめに)の作品を、時代順に紹介した写真集である。

目次は以下の通り。
はじめに
第一章 写真家への歩み「文楽」(一九四〇年代~)
第二章 新たな道を求めて(一九四五年~)、交友録、佐渡旅情
第三章 古都の暮らし、人(一九五〇年代~)
第四章 奈良大和路の写真家として(一九五〇年代後半~)
第五章 新たな大和路を求めて(一九七〇年~)、造形
第六章 十二人目の練行衆(一九四六~一九八〇年頃)、京都の庭
第七章 花は美の究極である(一九八〇年頃~一九九一年)
第八章 大和路に魅せられて(一九七五年頃~一九九一年)
解説、入江泰吉 略年譜、あとがき

まず、圧倒的な存在感を示しているのが、第2章に掲載されている「東大寺戒壇堂広目天像」(25ページ、以下数字は同書ページ数)。広目天は、西方にあって仏法を守護する四天王のひとつ。同書の表紙ともなっている。

右は、第5章の「雪の飛火野」(178-9)。「この時期、写真の世界にも変化が訪れていた。昭和二十六年頃からカラーフィルムによる写真の普及が進んでいた。私の周囲の写真仲間も、その多くがカラー写真に移行しつつあった。Lかし、私にはカラー写真に踏み切ることに躊躇があった。長年なじんできたモノクローム写真には、容易に捨てがたい愛着があったのだ。」(160)

こう言っていた入江が、カラー写真に取り組んだ1枚。その頃の写真の中でも、とりわけ明るく華やかで、いつもの飛火野とは違う1枚である。

「お水取り」の名で親しまれる東大寺二月堂の修二会(しゅにえ)での、「お松明」(268-9)と名付けられた1枚。第6章に掲載されている。この章では、章のタイトル「練行衆」たちのモノクローム写真が多い。

会は天平勝宝4年(752)に始まり、われわれが日常に犯しているさまざまな過ちを、懺悔するために、また、二月堂に上堂する練行衆の道明かりとして灯されると言う。(東大寺「修二会」)
僧が松明を持って走る回廊から、炎が激しく流れ、その強烈な明るさと熱さが写真からでも十分に伝わってくる。

写真のテーマは大きく変わって、第7章は花、「ライフワークである大和の風景と関連して、もうひとつ私が長く取リ組んできたテーマに「万葉の花」がある。・・・花の写真を写す時、私は花がいちばん生き生きと美しく続く一瞬に賭けることにしている。」(293)

第7章でもひときわ美しいのが、「うめ」(294)。入江が亡くなる前の年の作品である。奈良公園には、片岡梅林をはじめとして梅が咲き誇るところがいくつかある。私も写真を撮りに何度か出かけた。
入江の写真集には、中西 進『入江泰吉 万葉花さんぽ (小学館文庫) 』という作品もある。

第7章と第8章は晩年の作品で、花を除くのが最後の章、第8章である。この章は、入江のよく知られた写真が多く掲載されている。

「風景写真とひとロにいうが、大和路の場合は、それほど風光明媚な景観とはいいがたい。だが、そのさりげない景貌に、風景の「風」の趣が醸されているのである。」(314)

左の写真は「これはこれはとばかりに花の吉野山」(316-7)と題されている。4月になると、吉野山は全山で、下千本から順番に桜が豪華絢爛に咲き誇る。

吉野の桜は、「「花見」のためではなく、山岳宗教と密接に結びついた信仰の桜として現在まで大切に保護されてきました。」(吉野町)奈良の風景は、どこかで信仰と結びつくことが多い。

この写真集は384ページで、ほぼすべてのページに多数の写真が掲載されており、それが時代順に並べられているので、入江がどのように写してきたかがとてもよく理解できる。また、ところどころに入江の書いた文章も掲載されているので、彼の写真家としての考えもよく理解できる。また、「交友録」(第2章)や「京都の庭」(第6章)などのコラム的な作品の紹介も、とても興味深い。ぜひ多くの方にお薦めしたい写真集である。

入江泰𠮷の他の写真集についての紹介は次の通りです。こちらもご覧ください。