2016年7月26日火曜日

経済・経営の理論と歴史の古典(2) リーマー『列国の対支投資』

バーリ・ミーンズに続いて紹介したいのが、シー・エフ・レーマー*著、東亞經濟調査局譯『列國の對支投資』(Foreign investments in China, 原著:1933年)である。バーリ・ミーンズの著作に比べれば影響は小さいが、戦間期の世界と日本の対外投資、特に対中投資を理解するのには、忘れてはならない重要な文献である。
(*著者名Remer, Charles Frederickは、左ではレーマーと記載されているが、後の翻訳ではリーマーが採用されている)

戦間期の日本経済を特徴づけるのに、「日本帝国主義」という用語が、未だに十分な理論的・数量的な裏付け無しに、経済発展に否定的な意味で使用されている。しかし、現在の直接投資による受入国の経済発展に対する積極的な貢献を少しでもとらえられれば、戦間期の日本の対中直接投資が、現代と同様の経済発展の牽引役であったことも理解できるはずである。『列國の對支投資』は、戦間期の世界と日本の対中直接投資を理解するために欠かせない重要な著作である。

目次は以下の通りである。
第一篇 總論-外國の投資及び支那の國際經濟=金融的地位
 第一章 緖論 / 1
 第二章 支那の人口及び資源 / 9
 第三章 傳統的支那 / 26
 第四章 現代的經濟關係 / 40
 第五章 支那に於ける外國投資の一般的描寫 / 57
 第六章 事業投資の槪觀 / 82
 第七章 事業投資の意義 / 106
 第八章 支那政府の外債 / 120
 第九章 外國の投資と國際貸借 / 156
 第十章 華僑よりの送金 / 187
 第十一章 貿易及び正貨移動 / 202
 第十二章 支那の國際貸借 / 221
 第十三章 支那の國際的經濟的地位 / 242
 第十四章 結論 / 248
第二篇 各國篇(以下の章編成は略)

リーマーの研究の主な内容をまとめたのが、左の表である。表によれば、1931年の対中投資の総額は32.4億ドルで、中国政府債務が7.1億ドル、直接投資が25.3億ドルである。1902年には総額で7.9億ドル、1914年には16.1億ドルであったから、短期間で急増したと言える。何よりも直接投資額の大きさは、注目に値する。

リーマーは、「財産が外国人の管理及び支配の下にある」(65)投資を、直接投資と定義している。また、上記の表からもわかる通り、「直接投資は、中国における外国投資の主要形態である」(70)とも述べている。
この時期に、直接投資が、世界の新たな時代の新たな重要な投資形態であり、中国においてもそれが主要な形態であることを指摘したことの意味は非常に大きい。
現在では、世界で直接投資が経営資源の移転を伴うため、経済発展に大きな役割を果たすことができるので、投資国だけでなく受入国も競って発展させようとしているのは周知の事実である。

さらにリーマーの重要な指摘は続く。彼は、「支那の経済組織は、1903年に現代的会社形態の組織が用いられるようになされるまで、外国から借り入れる能力がある事業単位を持たなかった。」支那の会社法の最近の形態は、1929年に国民政府によって発布された。しかし、「会社形態の成功は現在まで大ならず」と指摘している。(107)
企業組織の確立、中国経済の近代化がいつ始まったのか、その後どのように発展したのかについての、中国の実情もまたこの著作が説明してくれる。このような現実が、外国の直接投資を増大させていた背景でもある。

この著作については、私の著書Japanese Companies in East Asia: History and Prospects: Expanded and Revised Second EditionのChapter 1 Foreign Direct Investment in the Inter-war Period and Japanese Investment in Chinaで検討している。
また、東亜研究所の一連の研究も、リーマーの研究とともに、包括的な優れた研究である。東亜研究所編『諸外国の対支投資 : 第一調査委員会報告書』、東亜研究所編『日本の対支投資 : 第一調査委員会報告書』。機会を改めて紹介したい。

この著作は国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができる。だが現在は著作権の問題があるので、国会図書館に行くか、全国の公共図書館、大学図書館等(国会図書館の承認を受けた図書館に限る)でしか利用できない。
シー・エフ・リーマー著、東亞經濟調査局譯『列國の對支投資』
また、この著作の原文はHathiTrust Digital Libraryで全文ダウンロードして読むことができる。
Foreign investments in China / by C.F. Remer ...

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2016年7月21日木曜日

経済・経営の理論と歴史の古典(1) バーリ・ミーンズ「近代株式会社と私有財産」

このブログでは、今読み直されるべき経済・経営の理論と歴史についてのいくつかの重要な古典を順次紹介したい。まず、バーリ・ミーンズ「近代株式会社と私有財産」(The Modern Corporation and Private Property, 1932)である。コーポレート・ガバナンスを論じる場合は今でも常に参照される重要な古典である。左はその北島忠男訳、1958年刊である。

目次は以下の通りである。
第1編 財産の変革
第2編 諸権利の再編成
第3編 証券市場における財産
第4編 企業の改組
付録

この書籍の中でもとりわけ重要なのは、豊富な企業のデータを掲載した第1編である。今日ほど情報公開が発展していない1920-30年代に、非銀行業200社とその関連の重要なデータを収集し、以下のような結論を導き出している。

右の図は、バーリ・ミーンズが収集したデータを、私が「日米コーポレート・ガバナンスの歴史的展開」でまとめた表である。(表はクリックすると拡大できます)

バーリ・ミーンズが収集したのは200社であるが、私の右の表はそのうち上位30社を一覧にしている。バーリ・ミーンズは、支配の特徴によって、次のように分類した。
ほとんど完全な所有による支配はA、過半数支配はB、過半数所有がない法的な手段による支配はC、少数支配はD、経営者支配はGである。

この区分で30社をみてみると、Gの経営者支配は13社で、資産額は211.5億ドル、30社合計の55.3%に達する。次に大きなグループはDの少数支配で11社、資産額は109.4億ドル、28.6%になる。
Cは4社で12.1%、AとK(株式の過半数が広く分散されていると信じられ、経営支配力は、大きな少数株式所有者か経営者のいずれかに所有され、おそらくは後者により所有されている)が、それぞれ1社である。Aは、Ford家が全部所有するFordのみであり、KはBethlehem Steel Corp.で、どちらも製造業の企業である。

バーリ・ミーンズが200社について導き出した、経営者支配(G)が、究極的な支配において58%を占め支配的であるという結論が、30社についてもほぼ同様にみいだされることがわかる。

バーリ・ミーンズの結論は次の通りである。
「所有権が充分に細分されているところでは、経営者は、その所有権についての持分が取るに足らない程のものであっても、以上のようにして、自己永存体となることが出来る。この支配形態は、正しくは、「経営者支配」と呼ぶことの出来るものである」 (Where ownership is sufficiently sub-divided, the management can thus become a self-perpetuating body even though its share in the
ownership is negligible. This form of control can properly be called “management control.”)

ところで、バーリ・ミーンズの結論を踏まえて、今日の27か国の企業を包括的に分析した著名な論文は、RAFAEL LA PORTA, FLORENCIO LOPEZ-DE-SILANES, and ANDREI SHLEIFER, Corporate Ownership Around the Worldである。
この論文の結論は以下の通りである。
We find that, except in economies with very good shareholder protection, relatively few of these
firms are widely held, in contrast to Berle and Means’s image of ownership of the modern corporation. Rather, these firms are typically controlled by families or the State.

このように、彼らは、現代でもバーリ・ミーンズ型の企業は支配的ではないと主張しているが、今日でもバーリ・ミーンズの方法と結論が参照されているほど影響は大きい。バーリ・ミーンズ「近代株式会社と私有財産」は、今でも改めて読まれるべき古典である。

ちなみに私も、以下の私のWeb siteで、最近ではドイツやフランス企業を例として、家族や国家の影響が今なお強いことを明らかにしているが、それは固定的ではなく、徐々に収斂していることもまた指摘しておく必要がある。

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2016年7月6日水曜日

太田彩『伊藤若冲作品集』で若冲の全作品を愉しむ

太田彩さんの『伊藤若冲作品集』が刊行された。左図は内表紙である。

作品集の目次は次の通りである。
「はじめに 広がる若冲、伝わる若冲の想い
近づいて観る動植綵絵ー生命を映す色彩の魔術
評伝 伊藤若冲ー十八世紀の京に生きる
動植綵絵ー畢生の大作を愛でる、愉しむ
 動植綵絵 釈迦三尊の荘厳画として制作された全三十幅
 若冲の彩色画ー明らかになったその驚くべき表現技法に迫る 《動植綵絵》を好例として
 コラム 動植綵絵の謎
生命美を彩るー生命への真摯なまなざし
 コラム ありのままの姿を美とした、十八世紀という時代
 文芸ネットワークと若冲
 墨画の妙
 不思議な画面ー枡目描き
 僧侶との交わりー自身を高め、深める
特集 版画
若冲その後 魅了し続ける若冲」

太田彩さんの研究については、私の以前のブログ「『伊藤若冲 動植綵絵 調査研究篇』、Jakuchu Itoh」でも「『若冲原寸美術館 100%Jakuchu!』、原寸図で若冲を楽しむ」でも紹介した。これまで紹介した太田さんの研究は動植綵絵に関するものが中心だったが、今回は若冲のすべての作品についての研究となっている。

まずは動植綵絵についてである。動植綵絵については、三十幅が1ページごとに掲載されている。そして、「若冲の彩色画ー明らかになったその驚くべき表現技法に迫る 《動植綵絵》を好例として」の箇所で、七つの技法について、次のようにまとめている。
1 裏彩色の効果、2 絵の具の緻密な使い分け、3 裏彩色のトリック、4 輝く白の表情、5 裏彩色を使った空気遠近法、6 顔料と染料の複雑な併用効果、7 赤の衝撃。

次に、ページはぐっと下がって、「墨画の妙」を紹介しておこう。
『伊藤若冲作品集』では116ページに菊花図が掲載され、小林忠氏が筋目描きと呼んだ若沖の独創的技法を紹介している。「これは墨の広がりが互いに接する時にその境界となる部分に支持体の紙の色が残るという画せん紙の性質を利用したもの」(117)である。
ところが残念なことに、『伊藤若冲作品集』では,図が小さく説明が理解しにくい。ここでは、『pen 若冲を見よ』(2015.4.1)の図を右に掲載した。この書もまた、若冲の作品を見事な図版で楽しむには格好の書である。

続いて、「特集版画」である。
若冲が生きた時代は、浮世絵版画発展した時代である。これらを若冲はどのように学び、自身の作品にどのように導入しようとしたのか、興味深いテーマである。

左図は、「拓版画」と呼ばれる作品である。「白黒のみで表現する効果を十分に知り得て、単純化したモチーフのなかにも十分に風情、表情を示している」「またひとつは多色摺の花鳥版画である。地を黒くしている点では拓版画を意識しているが、墨面は木版摺で、色面は型紙を用いて筆で彩色する合羽摺の技法も用いているとみられ」(122)る。

そして、右の「桝目描き」である。
「画面全体を同じ大きさの小さな正方形の集積とし、そのなかにそれぞれに彩色を施して図様を描き上げるという、ほかに例を見ない描き方による作品が、近年の若冲人気のひとつの原動力になっている。」(137)

この方法による作品は4つある。右の<白象群獣図>と、<鳥獣花木図屏風>(プライス・コレクション)、<樹花鳥獣図屏風>に、現在所在が不明の幻の作である。
現存の三点のうち、若冲の確実な作品であると見解が一致するのが<白象群獣図>である。しかし、若冲の印が無い2つの作品については、描法やモチーフの点で、若冲の作品であるかどうかについて論争がある。

以前に私のブログで紹介した、佐藤康宏氏の『もっと知りたい伊藤若冲 改訂版』は、プライス・コレクションの作品としてしばしば登場する<鳥獣花木図屏風>は、「絶対に若冲その人の作ではない」と断定している。重要な批判であるので、太田さんも指摘するように、今後、「多角的に、客観的に考察が論じられることを期待したい。」(137)

最後に、左の図「売茶翁像」を紹介したい。 売茶翁は大典とともに、若冲が敬愛する人であった。若冲はこれらの人々の影響を強く受けているようである。

ところで、「動植綵絵」は自然界に生を受けたありとあらゆるものを描こうとする試みであるが、人物が登場しない。他の作品でも、このような僧を除いて、人物画は少ない。特に同時代を生きる市井の人々が描かれていない。様々な人々の日常を豊かに描いた、同時代の浮世絵とは大きく異なる点である。

若冲が人々の日常生活に関心が無かった訳では無い。若冲が錦の青物市場の危機を救うため奔走していたことが今では明らかにされている。では、なぜ周辺の人々を描かなかったのだろうか?

ともあれ、太田彩さんの『伊藤若冲作品集』は、動植綵絵をはじめとする若冲の膨大な作品の全体を、研究の最前線の成果による解説を付けた、すばらしい書籍である。内容と比較して価格も決して高くなく、画像も美しいので、ぜひとも多くの人々が読まれることをお薦めしたい。

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2016年6月29日水曜日

『若冲原寸美術館 100%Jakuchu!』、原寸図で若冲を楽しむ

『若冲原寸美術館 100%Jakuchu』(小学館、2016年)が刊行された。原寸で若冲の「動植綵絵」を安価で見ることができる画集である。若冲の作品集が続々と出版されているが、他書にはない特徴となっている。
この書籍はもうひとつ、「動植綵絵」を年代別に並べていることも特徴である。この書籍では、まず各図の全体と解説を付け、その後に特色のある原寸の部分図がいくつか掲げられている。
ここでは、興味深い5つの原寸の部分図を紹介してみたい。

まず、最も早い時期の作品である「雪中鴛鴦図」(1759年)を見てみよう。「鴛」は雄の、「鴦」は雌のおしどりである。左はその図の中央右側の図で、雄のおしどりを原寸で切り取った図である。一方、雌は身体の半分を水中に沈めている。ちなみに、ここまで図に近づくと、絹地に描かれていることがよくわかる。

「何より印象的なのは、裏彩色を効果的に活用した雪の表現。枝や地面に降り積もった雪は、部分的に胡粉の裏彩色を施し、表面からの胡粉の彩色箇所と微妙な白の明度差を出して見事なまでの表情を演出。」(23、以下ページ数)


次に、「蓮池遊魚図」(1761-65年頃)である。時代は少し下がって17番目の作品である。右の図は、最も鮮やかな左下の蓮のみを切り取った原寸の部分図である。

多くの専門家が指摘されているように、若冲の作品には仏教、禅の精神がその背景にある。作品のすべてからそのことがうかがえるが、この図は蓮を選んでいるという点で、その特色を直接的に表現していると言えるだろう。

「鮎の群れとオイカワが描かれていることから、ここは川中と想像される。しかしながら蓮は本来、流れのない池などに生息する植物であり、さらに蓮の花がまるで水中に咲いているかのように見えるところなど、なんとも不思議な空間構成の作品と言えよう。」(107)

これ以外でも若冲の図の多くは、このように現実にはあり得ない構図を採用している。やはり以下の3つの作品を含む後期の作品に属する「菊花流水図」(1765-66年頃)は、最もその特徴がよく出ていると思われる。

明和2(1765)年の9月、若沖は末弟の死をきっかけにまずは24幅を相国寺に寄進したが、その後も制作を続けて全30幅を完成させることとなる。以下は、残りの1-2年で完成した6幅のうちの作品である。

まずは動植綵絵で最も代表的な作品である、「老松白鳳図」(1765-66年頃)。左はほぼ中央に位置する鳳凰の頭部の原寸図である。

「ドレスのようともレースのような美しさとも評される鳳凰の白羽の描写は、そのほとんどの部分に胡粉と黄土、あるいはその重なりによる裏彩色が施され、表面に胡粉によって描かれた羽毛の線は、これまでの作例よりも繊細で柔和な印象がある。」(155)

原寸で見る鳳凰の白い羽根のひとつひとつが実に繊細で美しい。そして羽根から透けて見える金色は、金泥ではなく黄土によって描かれていると言う。若冲は金色の特色をよく理解し、金泥ではなくあえて黄土を使ったとみられる。さらに、肌裏紙の墨色も金色に見せる効果をもたらしている。
ところで、この書籍によると、「老松孔雀図」(1757-60年頃)では、金泥を例外的に用いていると言う。


次に、「群魚図」(1765-66年頃)である。図の左下のルリハタの原寸図が右の図である。

「ルリハタの青色からは、18世紀初めにドイツで発明された人工顔料・プルシアンプルーが検出され、これが現在知られる日本で最初の使用例となった。」(173)
「動植綵絵」では、様々な青色が使われているが、プルシアンブルーはここでしか使われていないという。とても深く濃い青色である。
この高価な顔料が使われたことは、若冲が海外からのものを含めあらゆる画材の情報を得、それを購入できる財力があったことを示している。


最後に、「紅葉小禽図」(1765-66年頃)である。全体で紅葉を描いている右上の部分の原寸図が左の図である。

「その光を受けて紅葉したカエデの葉が輝いて見える。570枚もあるカエデの葉を表裏の彩色によって微妙に描き分け、その9割近くに裏彩色を施す。」(185)

全体図でも見えるカエデの一枚一枚の微妙な違いが、この原寸図では一段と鮮明に見える。左の原寸図には含まれていないが、枯れる寸前ではないかと思われるやや黒ずんだ葉もある。
最終期に描かれたこの図では、若冲の裏彩色の技法がここに極まっていると言える。

この書籍の巻末に太田彩さんの簡明にまとめられた解説が付いているので紹介したい。
まず若冲の創作の意図について、「自身を含めた様々な生き物総ての生命は尊いという仏の教えに深く共感し、その想いを根幹として描いた《動植綵絵》は、若沖がイメージした仏の世界観を荘厳するものであったのである。」

そして、創作の特徴は以下の通りである。
「肌裏紙の墨色、その上に裏彩色、さらに織物の絵絹、そして表面の顔料と染料系の絵具による表現。これらが融合して表出された《動植綵絵》は、日本画の、絹絵の特質を熟知し、材料や技法を最大限に生かして、優れた表現力を発揮した、日本美術の代表作の一つであることに間違いはない。」

ここでは5箇所しか紹介できなかったが、ぜひとも本書を手にとっていただき、若冲による生きとし生けるものの見事な原寸での表現を見ていただきたいと思う。

私の若冲に関する他のブログ

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2016年5月26日木曜日

ますます重要になる第三者委員会と、それを評価する機関の役割

 日本を代表する企業のひとつである東芝で、長期にわたる広範囲な粉飾決算が行われていた。私は、論文「東芝の粉飾決算とコーポレート・ガバナンス改革」で、具体的な経緯と今後のコーポレート・ガバナンス改革について検討した。論文は、私のWebsiteでご覧いただけます。
 東芝の粉飾決算の解明にあたって、元東京高等検察庁検事長の上田廣一氏を委員長とする第三者委員会の果たした役割は非常に大きかった。
図表はクリックすると拡大できます。以下の図表も同じ
左の表はその論文に掲載した、第三者委員会の調査報告書のまとめと、その結果を受け入れた東芝の過年度決算の修正である。
 第三者委員会の調査では、2009年度から2014年度第3四半期(ただし、2009年度の有価証券報告書に記載されている比較対象年度である2008年度を含む)を対象期間とし、工事進行基準案件に係る会計処理を含む4つの課題が調査され た。
 その結果、過年度の決算の修正額は1518億円、それに固定資産の減耗を含めて2248億円の税引き前の利益の修正となった。
 その後、2015年度の決算が行われ、修正はさらに大きくなった。詳しくは上記論文を参照していただきたい。

 この調査報告書を含め8つの第三者委員会の調査報告書に対して、第三者委員会報告書格付け委員会は格付けを公表している。この委員会は、第三者委員会等の調査報告書を「格付け」して公表することにより、調査に規律をもたらし、第三者委員会及びその報告書に対する社会的信用を高めることを目的としているという。
 以下の表(上記論文に掲載)では、格付け委員会による8つの第三者委員会の調査報告書に対する評価を一覧にし、点数化した。東芝に対する評価は下から2番目に低い。主な理由は、東芝が買収したウェスチングハウスの減損問題に触れなかったこと、監査法人を調査対象にしなかったことが挙げられる。

 ところで、東芝よりもさらに大幅に低く最低であったのが、朝日新聞社第三者委員会が公表した報告書である。これは、朝日新聞が、虚偽である吉田証言などをもとに従軍慰安婦について長期にわたって報道し続けた責任と再発防止について調査報告している。この報告については、改めて詳しく検討したい。
 この報告書に対して、格付け委員会は、8名の委員のうち、5名が不合格とし、3名は合格最低点のD、C以上の評価は皆無だった。 相対的によりましな評価であるD評価の委員の意見を紹介しておこう。「本報告書については、「組織的要因に対する事実認定と原因分析」という重要な要素が大きく欠落していると言わざるを得ない。」、「事実調査と原因分析の踏み込み不足、また、体制面からの再発防止策の提言不足」、「委員構成の独立性、中立性、専門性(F)」である。D評価であっても、その報告の基本的な内容への批判となっている。

 わが国では企業やその他の組織の不祥事に対して、第三者委員会の役割と期待がますます大きくなってきている。それ故に第三者委員会が独立して活動しているかどうか、報告が専門的、包括的に作成されているかどうかを検討することもまたますます重要になってきていることを強調しておきたい。

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2016年4月30日土曜日

「特別展 明治有田 超絶の美、The Compelling Beauty of Arita Ceramics」に行ってきました

兵庫陶芸美術館では、「特別展 明治有田 超絶の美-万国博覧会の時代-、The Compelling Beauty of Arita Ceramics in the Age of the Great International Expositions」が開かれ、その図録として、左の書が刊行されている。

図録にも書かれているように、「有田の磁器生産は1610年代の創始以来、400年の輝かしい歴史を有している。・・・17世紀末には柿右衛門様式が完成し、18世紀初頭には古伊万里金襴手様式や鍋島藩窯様式が確立した。・・・次に大きな変化が見られるのは、19世紀後半の幕末・明治である。」(同書p.6、以下括弧内は本書ページ数)

私は以前のブログ、「「IMARI/伊万里 ヨーロッパの宮殿を飾った日本磁器」を見る、IMARI/ Japanese Porcelain」で、大阪市立東洋陶磁美術館で開かれた、特別展「IMARI/伊万里 ヨーロッパの宮殿を飾った日本磁器」を紹介したが、その後の有田・伊万里の動きを知る機会として、今回の展覧会はとても貴重である。

本書は以下の4部に分かれ、208ページのほぼ全ページに多数の図版と詳しい解説が掲載されていてとても楽しく読める。
I 万国博覧会と有田、II 「香蘭社」の分離と「精磁会社」の誕生、III 華やかな明治有田のデザイン、IV 近代有田の発展である。

Iの万国博覧会と有田を代表する作品が右の「染付蒔絵富士山御所車文大花瓶」(1873(明治6)年)である。1873(明治6)年のウィーン万国博覧会は、日本政府が公式に参加した最初の万博である。そこに出展された作品である。

「明治の有田焼の花瓶の中では最大高。全面に染付で富士山や龍文を描〈が、その上からさらに蒔絵で桜、反対面に松を描く、桜と松の部分は剝離防止のため無釉地に漆塗りしているが、他の漆文様は染付釉上に施している。」(34)

高さは台まで入れると2m以上になるという。陶芸館に入ってまずその大きさと豪華さに圧倒させられる作品である。


IIの時期を代表する作品が「香蘭社 色絵有職文耳付大壺」(1875(明治8)年~1880年代)である。
1879(明治12)年、精磁会社と分離したのを機に、深川栄左衛門は香蘭合名会社を設立した。そこでの作品である。

「胴を巡るように帯状の凹凸が設けられ、段ごとに異なる文様が精緻に描き込まれる。 濃く鮮やかな青の占める面積が多〈、微細な文様の輪郭を一つずつ金彩で丁寧に囲んでいることから、金属線で象った文様に色ガラスを流し込む有線七宝のように見える。」(61)

有線七宝については、このブログでも同じ明治期の並河靖之を、「日本の工芸:七宝、並河靖之、Shippo, Yasuyuki Namikawa」で紹介したが、当時の技術の高さをともに示している。

左の図をクリックして拡大して見ていただきたい。上記の説明の通り、気の遠くなる作業によって、見事に細かく描きこまれている。陶芸館では全面を見られるので、一回りして見てみるとさらにその見事さに驚いてしまう。

同じくIIの時期の作品が、右の「精磁会社 色絵鳳凰花唐草文透彫大香炉」(1879(明治12)年~1897(明治30)年頃)である。
精磁会社は、1879(明治12)年に、手塚亀之助、辻勝蔵、深海墨之助らが香蘭社から分離独立して設立した会社である。精磁会社には、当時の有田の最高技術を持つメンバーが集結した。

「豪華絢欄な装飾が施された高さ1mに及ぶ大香炉。最新の顔料などを駆使し、窓絵の鳳凰や花喰烏などが描き込まれた綿密な吉祥文様には、当時の技術者たちの意気込みが感じられる。」(84)

なお、八代深川栄左衛門の次男、深川忠次は、・・・1894(明治27)年に独立し、深川製磁を設立。有田を代表する窯元として現在に至っている。
1911(明治44)年には企業形態を陶磁器会社としては珍しかった株式会社とし、深川製磁株式会社となる。これも当時の有田の先進的な試みとして注目したい。

最後に、IVの時期を代表する作品が、「香蘭社 染付精磁陽刻雲鶴文耳付大花瓶」(1910(明治43)年~1920年代)である。

「香蘭社に図案が存在し、製品が鍋島家に伝わる貴重な作例。全面に陽刻で雲鶴文が施され、首部に家紋である杏葉紋をあしらった唐草文の文様帯が一周する。」(179)

全体の色調が青と白になり、これまでの金色をふんだんに使ったものから一変する。先に紹介した深川製磁の製品は「フカガワブルー」と呼ばれて欧米でとても人気であったと言われるが、この香蘭社の製品にも同じ特徴が見られる。
このブルーを背景にした中央の白の鶴が際だって美しい。

以上のように、明治期の有田は、外国の技術や経営形態を積極的に取り入れ、また海外市場に大胆に進出することで、飛躍的な発展を遂げた。
この事例は、その後の日本の工業化に引き継がれただけではなく、現代の日本にも求められる課題を指し示してと思われる。

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2016年4月7日木曜日

2.26事件を含む『昭和天皇実録 第七』が刊行される、An Official Record of the Emperor Showa Vol. 7

「新保博彦のブログ」に英語のAbstractを付けます。過去のブログにもさかのぼる予定です。
2016年4月16日現在、最新の5つのブログに付けています。

English Abstract
Publication of "An Official Record of the Emperor Showa Vol. 7" including the 2.26 Incident 

This 908-page volume includes the important period before the Pacific War from 1936 to 1939. One of the key sections is the record related to the 2.26 Incident. According to this record, since the beginning, the Emperor Showa's intention for the 2.26 Incident to "suppress immediately" is clear and consistent. In contrast, military leaders were uneasy about the incident ringleaders' demands and action, and were unable to take unanimous action in response to the 2.26 Incident. This lack of consistent military leadership and disagreement predicts the start of war, its prolongation and the confusion at the end of the war.

『昭和天皇実録 第七』が刊行された。この巻は908ページから成り、1936年から1939年の太平洋戦争突入前の重要な時期を含んでいる。その最も重要な内容のひとつが、2.26事件に関するものである。その主な部分は、同書29ページから47ページまでである。

内容としては、『本庄日記』や『木戸幸一日記』がすでに刊行されていて、予想された通りであるが、改めて事件と天皇の考えと行動を理解することができる貴重な資料となっている。価格も安いので、ぜひ多くの人が読まれることを期待したい。

以下では、昭和天皇の以下の2つの重要な発言を取り上げたい。なお、これ以外に重要な内容としては、「陸軍大臣の辞表に対する御不満」(p.34、以下括弧内数字はページ数)もあるが、ここでは省略する。

2月26日
「侍従武官長拝謁、
午前七時十分、侍従武官長本庄繁に謁を賜い、事件発生につき恐懼に堪えない旨の言上を受けられる。これに対し、事件の早期終息を以て禍を転じて福となすべき旨の御言葉を述べられる。また、かつて武官長が斯様の事態に至る憂慮を言上したことにつき触れられる。以後、頻繁に武官長をお召しになり、事件の成り行きを御下問になり、事件鎮圧の督促を行われる。御格子までの間、武官長の拝謁は十四回に及ぶ。」(30、赤字は新保による)

朝日新聞東京版 1936年2月27日号外
(出所:聞蔵IIビジュアル)
クリックしてご覧ください
2月27日
「股肱の老臣殺傷を御難詰、
なおこの日、天皇は武官長に対し、自らが最も信頼する老臣を殺傷することは真綿にて我が首を絞めるに等しい行為である旨の御言葉を漏らされる。また、御自ら暴徒鎮定に当たる御意志を示される。翌二十八日にも同様の御意志を示される。」(36)

この件について侍従武官長本庄繁は日記にこう記している。
「廿七日拝謁の折り、暴徒にして軍統帥部の命令に聴従せずば、朕自ら出動すべしと屡々繰り返され、其後二十八日も亦、朕自ら近衛師団を率ひて現地に臨まんと仰せられ、其都度左様な恐れ多きことに及ばずと御諌止申上ぐ。其当時陛下には、声涙共に下る御気色にて、早く鎮定する様伝へ呉れと仰せらる。真に断腸の想ありたり。」(『本庄日記』、235)

2月28日
「陸軍大臣の時局収拾案に逆鱗、
午後、侍従武官長本庄繁に謁を賜い、陸軍大臣川島義之・陸軍省軍事調査部長山下奉文より、首謀者一同は自決して罪を謝し、下士以下は原隊に復させる故、自決に際して勅使を賜わりたい旨の申し出があったことにつき、言上を受けられる。これに対し、非常な御不満を示され御叱責になる。ついで、第一師団長堀丈夫が部下の兵を以て部下の兵を討ち難いと発言している旨の言上を受けられる。これに対し、自らの責任を解さないものとして厳責され、直ちに鎮定すベく厳達するよう命じられる。」(40)

同じく『本庄日記』にはこう書かれている。
「陛下ニハ、非常ナル御不満ニテ、自殺スルナラパ勝手ニ為スベク、此ノ如キモノニ勅使杯、以テノ外ナリト仰セラレ、又、師団長ガ積極的ニ出ヅル能ハズトスルハ、自ラノ責任ヲ解セザルモノナリト、未ダ嘗テ拝セザル御気色ニテ、厳責アラセラレ、直チニ鎮定スベク厳達セヨト厳命ヲ蒙ル。」(278)

私の『昭和天皇独白録』のブログで示したように、昭和天皇は、田中内閣辞職事件以来、立憲君主制の立場を強く意識され、内閣の決定に対して反対する事は無くなった。これへの例外が、2.26事件に対する発言であり、終戦の聖断であった。

『独白録』にはこう書いてある。
「私は田中内閣の苦い経験があるので、事をなすには必ず輔弼の者の進言に俟ち又その進言に逆はぬ事にしたが、この時と終戦の時との二回丈けは積極的に自分の考を実行させた。」(38)

以上のように2.26事件に対する昭和天皇の考えは当初からきわめて明解で揺らいでいない。これに対して軍首脳は、事件首謀者達の要求と行動の前に動揺し、また首脳間で一致した行動を取れないでいた。軍首脳の見解の一貫さの無さと不一致、それは後に戦争の開始とその長期化、収拾時の混乱を予測させるものであった。
それだけではなく、事件首謀者や軍首脳が、当時の日本の経済や、国際的な環境について十分な理解があったとは言えないことについては、すでに、直前のブログ(「2.26事件を国際金融・資本関係から考える、三谷太一郎「ウォール・ストリートと極東」を読む」、「2.26事件を金融・証券市場と経済の実態から考える、「日本証券史」を読む」)で論じた通りである。

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