ロシアのウクライナ侵攻以降に作成した、ロシアのウクライナ侵攻と対ロ経済制裁に関する論文と、その背景を探るため戦間期に遡って独ソ関係を検討した論文をまとめた、以下の2つの論文集をまとめました。ご参照いただけましたら幸いです。
2022年8月27日土曜日
ロシアのウクライナ侵攻に関する2つの論文集をまとめました
2022年8月24日水曜日
『北斎クローズアップ』全4冊、「II 生きるものへのまなざし」
YouTubeチャンネルを開設しました。新保博彦のチャンネルです。以下の内容を含む「北斎の須佐之男命厄神退治之図と晩年の大作群」を作成しました。(2023.5.22)
前回に引き続き、『北斎クローズアップ』全4冊、「II 生きるものへのまなざし」を紹介したい。IIは、魚介、禽鳥、昆虫、動物、草花、などあらゆる生き物を描き尽くしたいという北斎の強い意志と多彩な技術が詰まった作品群である。このブログでは4つの作品に注目した。
最初の作品は、「蟹尽くし図」(絹本一面、フリーア美術館)。「百匹以上もの大小さまざまな蟹が、水草の上を蟹(かい)行している。」(11、本書でのページ数、以下同じ)これだけの蟹が描き分けられているのに驚くが、砂浜、水中などの背景はほとんど描かれていない。
この図を見ると、伊藤若冲の貝甲図を思い出すが、北斎の図の方が背景がさらに抽象的である。
2022年8月5日金曜日
『北斎クローズアップ』全4冊、「I 伝説と古典を描く」
この図は、私のブログの「北斎晩年最大の傑作、須佐之男命厄神退治之図 No.1」でも紹介したように、関東大震災で焼失したが、凸版印刷が墨田区の復元プロジェクトに参加し、当時の彩色された絵馬を原寸大で推定復元した。上記ブログの復元版(カラー画像)と比較参照していただきたい。2022年7月18日月曜日
論文「誤りだった戦前の日独同盟:全く異質な日独経済システム」の紹介
ロシアのウクライナ侵攻は、人々にロシア(ソ連)とドイツ、そしてその狭間で生き残りに苦闘しているウクライナ、ポーランド、バルト3国などの、特に戦間期の歴史と経済に関心を向かわせている。まず、ナチス・ドイツであるが、その経済を理解するためには、日本と比較するのが良い。その比較を通じて、ドイツを正確に理解できるだけではなく、教科書的な理解とはとは全く異なる日本が見えてくる。論文は、「誤りだった戦前の日独同盟:全く異質な日独経済システム」で、以下はごく簡単な論文の紹介である。ぜひ論文そのものもあわせてご参照ください。【論文(1)(2)」統合版】←クリックしてください。
1 ドイツの対外経済構造
独日の比較は、対外経済構造について貿易と国際収支で行い、さらに国内の有価証券市場についても行う。ただし後者はスペースの都合で省略する。
以下の表はドイツの国際収支を簡略化して示している。(図自体も簡略にしている)貿易のうち輸出が最も多かったのは、1929年の137億マルクで、その年以降減少に転じ、特に1932年からは激減している。1934年の42.6億マルクは、1929年の1/3以下である。
次に重要なのは、長期資本取引である。1920年代後半は10億マルクを超える流入が継続し、利子支払いが大きいとは言え、ドイツ経済の復興に大いに貢献した。しかし、1931年以降は、恐慌に見舞われたアメリカからの流入が止まり、ドイツ経済は困難に陥る。
ナチスが政権を取って以降、生存圏構想が浮かび上がったものの、少なくとも長期資本取引の極端な減少のデータからは、相対的に優位な経済的地位にあるドイツから、生存圏とされる国々に投資が行われたとは言えず、投資全体が急激に縮小した。
ナチスは政権を確立して以降、国際収支のデータが示すように、貿易や資本の面で、世界経済との結びつきを弱め、独自の勢力圏の確立に向かって進もうとする。しかし、独自の勢力圏であるはずの東南欧の生存圏とされる国々との経済的な相互的な結びつきは強まってはいない。そうではなく、ドイツの政策は、周知のように周辺諸国を軍事的に支配しようとするものであった。
2 日本の対外経済構造
日本の貿易は、大恐慌の影響を受けて1930-34年には一時的な停滞がもたらされたが、その後急激な拡大を見せたことがわかる。日本は第1次世界大戦までには資本輸入国であったが、戦間期に輸出国に変わろうとしていた。長期資本については、本土ベースでは、戦間期では一貫して純流出であった。1930年代後半には、流出額で年平均約6.8億円の純流出にまで増大した。相手国・地域としては、朝鮮・台湾、そして満州・中国であった。
3 まとめ
以上の検討から、戦間期のドイツと日本の対外経済構造が、非常に異なっていることが明らかになった。ナチス・ドイツは、社会主義ソ連と同様に、内外にわたって経済の土台となる市場の機能を禁止あるいは制限し、対外的には閉鎖的・自給自足的な経済構造を構築しようとした。これに対して、日本では、市場が重要な役割を果たし続け、対外的な経済構造は、ますます対立が深刻になっていたアメリカや中国とも緊密な関係が続いていた。
日本の経済は、もともとドイツとの経済関係は緊密ではなく、経済構造も著しく異なっていた。これに対して、日米間の経済関係はますます深くなっており、また日米間では経済構造も企業活動も同じ特徴を持っていて、日米間の経済・政治関係を発展させることは、両国にとって非常に有意義な戦略だった。対米関係の強化・連携と比較して、日独伊三国同盟は、現実の経済とは乖離し、将来の発展も見通せない、非現実的な戦略だったと言わざるを得ない。
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2022年4月28日木曜日
『ガラス工芸家100人 現代日本の精鋭たち (別冊炎芸術) 』を紹介します
私のブログは、しばらくロシアのウクライナ侵攻を批判する記事を書いてきた。この野蛮な行為で、人間に対する信頼を失いそうになるが、以下のような素晴らしく創造的な作品群に親しむことができて、少しほっとできる。
『ガラス工芸家100人 現代日本の精鋭たち (別冊炎芸術) 』(2021年10月)を紹介したい。
まず、100人の作品の中で、私が最も注目したのは、山本茜さんの「源氏物語シリーズ 第三帖「空蝉」」である。
この作品は、「截金(きりかね)」という技法で作られていると言う。それは、「薄く伸ばした金箔を一定のかたちに切り、繊細な文様を生み出す工芸の伝統技法で、古くから仏像や仏画に用いられてきた。その截金を透明なガラスの中に浮遊するかのように封じ込めるのが「截金ガラス」」だという。(Vogueから)この作品を近くに寄って見てみると、細密な文様が、整然と並べられている。その繊細さに本当に驚いてしまう。
この作品は、その名称の通り、「『源氏物語』の奥深い世界観を作品として可視化」したものだと言う。(以下、括弧内の文章は『ガラス工芸家100人』から)
本書は、100人の作家の作品紹介以外に、「ガラスを知る・見る・買う」として、「日本グラスアートの幕開け」(土田ルリ子(富山市ガラス美術館副館長))、「ガラスの技法」(古澤かおり/中島春香(富山市ガラス美術館学芸員))、「近現代ガラス関連美術館」、「ガラス工房・ギャラリー」のページがある。
100人もの日本を代表するガラス工芸家の作品を一度に見ることができる『ガラス工芸家100人』を、多くの読者にお薦めしたい。なお、Amazonの本書紹介ページでは、上の3人以外の10人の多彩な作品を紹介している。あわせて、ご参照ください。
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2022年4月9日土曜日
論文集『ロシアのウクライナ侵攻の背景 202204』を掲載しました。
『論文集 ロシアのウクライナ侵攻の背景 202204』(左は表紙)を掲載しました。
2022年4月6日水曜日
コンクエスト『悲しみの収穫』:ソ連によるウクライナでのジェノサイドを告発する(2)
同書は3部構成で、第一部 主役たちー党、農民、国家、第二部 農民蹂躙、第三部 飢饉テロである。本ブログは、主に第3部を紹介する。
この著作の課題についいて、コンクエストは次のように書いている。「一九二九年から一九三二年までの間に、スターリンの指導のもとでソヴィエト共産党が、・・・ソ連邦全体の農民にたいしておこなった二つの攻撃という点に絞られる。つまり、富農撲滅運動と農業集団化の二つである。」、「つぎに、一九三二年から三三年までの間では、ウクライナおよび主としてウクライナのクゥバーニ川方面で集団化された農民が辛酸をなめた飢饉テロについて述べる。それは、農民にたいしてその能力以上に穀物の供出を割当て、最後の一握りの食糧さえも取りたて、しかも外部からの、それもソ連邦の他の地域からの、飢餓を防ぐための支援を断ち切ったためにおきたことであった。」(12)
スターリンによる穀物徴発による飢餓と、ウクライナ民族主義の弾圧
1932年に入って本格的な穀物徴発が次々と行われるようになった。この年末には、「人々は、すでに餓死しつつあった。しかし、モスクワは、要求の手をゆるめるどころか、いまこそ飢餓によるテロの道に突入していった。」(373)「人々は、冬中、死につつあったが、報告書はどれもみんな、実際に大量死がはじまるのは、一九三三年三月の初めからとしている。」(405-6)そして、つぎつぎと人肉食いにまで陥っていた。その凄惨な様子は、第十二章が詳しく描き出している。この極限状態に至って、ようやく穀物徴発は緩められていった。
また同時に、これまでも、そしてこの飢餓の最中にも、飢餓の責任を負わせる形で、ウクライナ民族主義への弾圧は執拗に続けられた。ウクライナ民族主義の粛清は、その後も「全滅のウクライナ」をめざして続けられた。「ウクライナにおいてソ連邦がとった行動にジェノサイドの罪があることは確かであろう。この協定文を起草したラファエル・レムキン教授は、少なくともそのように考えていた。」(454)とコンクエストは言う。
子供達の犠牲(第15章)
コンクエストはこの飢饉で多くの犠牲者を出した子供達を特に取り上げている。子供達を死に追いやった飢餓の描写はさらに読むのが辛くなる。「無理のないところ、私の結論はこうである。七〇〇万人の餓死者のうち、およそ三〇〇万人が子供であり、それも主として小さな子供であった。」(492)
飢饉の死亡者数(第16章)
何度かの国勢調査や、後の人口調査などから導き出した、コンクエストの死亡者についての結論は次の通りである。「農民の死亡者、一九三〇~三七年:一、一〇〇万人、この時期に逮捕され、その後、強制収容所で死亡したもの:三五〇万人、計一、四五〇万人。この合計のうち、富農撲滅運動によって死亡したもの六五〇万人。カザフ人の悲劇で死亡したもの:一〇〇万人、一九三二~三三年の飢饉で死亡したもの、ウクライナにおけるもの:五〇〇万人、北カフカースにおけるもの:一〇〇万人、その他の地域におけるもの:一〇〇万人」。(507-8)
(上の画像は、ワシントンのホロドモール犠牲者追悼碑、「ホロドモール」は飢えを意味するホロド(holod)と、絶滅や抹殺を意味するモル(mor)の合成語である。」)
飢饉情報の隠蔽
飢饉の情報は様々なルートで西欧、アメリカに伝わっていた。しかし、「アメリカ合衆国は、当時、ソ連邦と国交を結んでおらず(一九三三年十一月まで)、国務省は国交樹立のための準備をするよう命じられていた。こうした背景のなか、飢饉テロにかんする報告は、当局によって無益なものと受けとめられていた。」(516)多くの人が隠蔽に関わったが、「最大の嘘つき」はニューヨーク・タイムズのW・デュランティで、彼は、「ソ連の欺瞞にたいする西ヨーロッパ最大の協力者として、スターリン自身をインタビューするとか、スターリンに称賛されるとか、あらゆる種類の特典を与えられていた。」(530)以上のコンクエストの指摘は、スナイダーのものとも一致する。
コンクエストの結論:飢饉の原因
コンクエストの飢饉の原因についての結論は、次の通りである。「一、飢饉は、スターリンとその仲間たちによる穀物のあまりにも過度の徴発にその原因があった。二、ウクライナの党のリーダーたちは、当初、スターリンとその仲間たちに徴発目標があまりにも高すぎることを明白にしていた。三、徴発目標は、それにも拘わらず飢餓が始まるまで強制されていた。四、ウクライナのリーダーたちは、スターリンとその仲間たちにこの点を指摘していたし、スターリンたちには他のものからも真実を知らされていた。五、それでも穀物の徴発は続けられた。」(546-7)
なお、エピローグでは、その後の推移が書かれている。その後、ウクライナの解体がめざされたが、ウクライナの自主独立を潰すことは一時的にしかできなかった。そして、コンクエストは次のように結ぶ。「ウクライナの自由は、世界全体の政治的、道徳的問題の鍵であり、鍵となるべきものである。」(578)1986年に書かれたこの言葉は、今そのまま生きている。
ロシアによるウクライナ侵攻:歴史は繰り返そうとしている
ソ連とロシアの専制がやや緩み、過去の政策の反省と修正が行われたのは、スターリン批判が行われた1956年からの一時期と、1980年代後半からのペレストロイカの時期である。これらの時期には、ソ連時代の犯罪を記録した文献も一部は公開された。しかし、2000年になると、ソ連KGB出身のプーチンが権力を掌握し、あらゆる批判を押さえ込んで、再びウクライナや周辺諸国を支配下に置こうとしてきた。歴史は繰り返されようとしている。
















