2017年5月25日木曜日

新緑の秋篠寺再訪、Akishino-dera in Nara

キーワード(Key Words): 秋篠寺(Akishino-dera),  伝伎芸天立像(Gigeiten-ryuzo), 十二神将像(Juni Shinsho-zo)

新緑の秋篠寺を訪れた。近鉄大和西大寺駅から歩いて10分あまりで行ける。
久しぶりに行ってみたが、寺全体がとても美しくなり、新しいパンフレットも刊行されたので、このブログでぜひ紹介したい。(2016年9月刊行, 全35ページ)
左に掲げたパンフレットの表紙はちょうど今頃の写真で、青紅葉が美しい。もちろん秋の紅葉の時期も美しいことが十分に想像される。
また寺には苔が生い茂っている庭があり、それをぐるりとまわって本堂に行くことになる。

奈良市観光協会によれば、「奈良時代末期780年頃、光仁天皇の勅願によって建立され、開山は善珠僧正と伝えられています。平城京西北の外れ「秋篠」の地に建てられたためこう呼ばれています。
平安時代末期に戦火のため伽藍の大部分を焼失し、鎌倉時代には今の本堂がもとの講堂の跡に再興されましたが、金堂や東西両塔の跡は雑木林になってしまっています。」



秋篠寺の最も有名な仏像は、伝伎芸天立像(重文)である。頭部は奈良時代末期に、体部は鎌倉時代に作られたと言われる。
「伎芸天が本来の尊名であったか否かは定かではないが、美しく静かに動くしなやかな肢体や、あたかも天上界の歌が聞こえるような口元や表情などからは、この尊名がまことに相応しい。」(上記パンフレット, p.21)

像からは、頭部を中心にかなりはっきりと鮮やかな朱色が読み取れる。衣からは緑色もかすかに見える。
近づいて見てみよう。顔を少し傾け、じっと目を閉じ、わずかに口を開けて、静かに祈っているのか、あるいは歌っているのだろうか。

もうひとつ注目したい像を紹介したい。十二神将像である。この像は、「本尊薬師三尊像の両側に六躯ずつ二列の階段状に安置されている」(p.12)

「十二神将は薬師如来とその信者たちの守護神で、昔、釈迦と同様に印度の王子として生まれた薬師は、衆生の苦しみを救うために出家。苦行中に十二の大誓願を立て、やがて大願成就して東方薬師浄瑠璃浄土の教主となるが、この十二の誓願を守護するために現われた十二の夜叉大将が十二神将である。」(p.12)

秋篠寺の十二神将像は、精微に彫刻されているだけではなく、彩色の保存状態が良く、ある程度元の像を想像できる。

何よりも注目したいのは、それぞれの像のポーズと表情がとても変化に富んでいることである。十二神将像は、同じ奈良の新薬師寺にもあり、その方が有名であるが、私は柔らかな身のこなしと独特な表情の左の写真の二像を含む、秋篠寺の十二神将像が興味深く思える。
ぜひ比べていただきたい。

これらの像を原色で見ることが出来れば、さぞかし堂内では豪華絢爛で荘厳な雰囲気を味わえるだろう。

秋篠寺も先に紹介した新薬師寺も、奈良の中心部からはやや離れているせいだろうか、観光客は未だ多いとは言えない。東大寺、薬師寺、唐招提寺とともにぜひ訪れていただきたいお寺である。

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2017年5月4日木曜日

高木宏之氏の満洲鉄道写真三部作(2)

前回のブログ「高木宏之氏の満洲鉄道写真三部作(1)」に続いて、同(2)では、満洲に建設された重要な企業や施設とその建物、そして満洲から周辺の国・地域に波及した鉄道の写真を紹介したい。このような掲載写真の幅広さが三部作のもうひとつの重要な特徴である。

写真6 (Aより)
写真6:満洲中央銀行総行
満洲では第1次世界大戦後、リットン調査団も認めるほど、多くの通貨が乱立しその価値が低落していた。満洲中央銀行は、幣制を統一するために、旧通貨の整理回収と新通貨としての国幣の価値安定のために、1932年に設立された。価値安定のために、それを、当初は中国と満洲でなじみが深い銀にリンクする管理通貨とした。
(写真番号の後ろのABCは前回ブログに示した文献番号)

写真7 (Cより)
写真7:.飛行機上より鳥瞰した東洋一を誇る大連満鉄医院及その附近
「満鉄は創業とともに、関東都督府・居留民会・野戦鉄道提理部より合計13の病院を引き継いで整理統合し、大連に本院を置いた。1909年、「病院」を中国風に「医院」と改名し、一般住民にも診療対象を広げた。」

以下では、満洲で築かれた鉄道事業が、中国や朝鮮にどのように広がったのかを示す貴重な写真を紹介したい。

写真8 (Bより)
写真8:華北交通パシロ1546(1941年川崎製)
「華北地方の中国鉄道は、1937年の支那事変にともなって日本陸軍鉄道連隊の占領下におかれ、満鉄による管理・整備をへて、1939年4月に発足した日中合弁の華北交通株式会社に移管統合された。」

後に、中部中国にも、同じ日中合弁の鉄道会社として、華中鉄道も創設された。当時、日本企業が進出した海外での企業は、ほとんどが現地との合弁であった。

写真9 (Bより)
写真9:京義線土城駅に進入するパシシ形976(1934年川崎製)
「1937年8月、京義線土城駅(京城起点82.5km)に進入するパシシ形976(1934年川崎製)牽引の上り旅客列車。」

朝鮮では、朝鮮総督府鉄道とともに、朝鮮鉄道、朝鮮京南鉄道、平北鉄道などの民間企業が活動していたが、朝鮮鉄道を除いて比較的小規模であった。

写真10 (Cより)
写真10:鴨緑江大鉄橋
「1911年11月1目、安奉線全線が標軌で開通し、翌日、満鉄・鮮鉄(朝鮮総督府鉄道)直通運転開始・・・。鴨緑江橋梁は韓国統監府(併合後は朝鮮総督府)が新義州~安東聞に巨費を投じて架設した、全長3,098フィート(944m)の大鉄橋で・・・、東洋初の旋回式鉄道橋であった。」

ここでも日本は最新の技術を投入していた。この鉄橋によって、日本と朝鮮・満州間の物や人の流れはいちだんと活発になった。

鉄道は戦間期の最も重要なインフラストラクチャであり、それが満洲や朝鮮の経済発展の重要な基盤となった。鉄道の建設と経営に日本と日本企業の果たした役割は非常に大きかった。詳しくは、私の前掲書Japanese Companies in East Asia: History and Prospects: Expanded and Revised Second Editionもご覧ください。
高木宏之氏の三部作は、以上の事実を理解するのにとても貴重な資料となっている。ブログではわずかに10枚しか紹介できなかったので、ぜひとも三部作を手にとってご覧いただきたい。

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高木宏之氏の満洲鉄道写真三部作(1)

高木宏之氏は最近満洲の鉄道写真に関する三部作を公刊されている。三部作は多数の貴重な写真を掲載しているので、以下で2回に分けてその一部を紹介したい。ぜひ多くの人が読まれることをお薦めしたい。
この三部作で最も重要なのは、南満洲鉄道である。南満洲鉄道は戦間期日本で最大の企業であり、日本の海外進出企業でも最大の企業であった。その活動は、日本と満洲の経済発展に大きく貢献した。
私は南満洲鉄道について、Japanese Companies in East Asia: History and Prospects: Expanded and Revised Second Editionなど通じて検討してきたが、これらの研究とともに、写真や絵葉書などによる視覚的資料によって理解するのもとても良い方法のように思われる。

まず、三部作の目次の紹介である。
写真1 (Aより)
写真で行く満洲鉄道の旅(A)
第一部 満鉄本線の旅・大連~長春(新京)間、第二部 満洲国鉄の旅
第三部 東清(中東/北満)鉄路の旅、第四部 満鉄安奉線の旅・奉天~安東間
コラム 満洲の公共建築
高木宏之、潮書房光人社、2013年
(写真を見ていただく際のご注意:写真が原本の2ページにわたっている場合があります、以下でも同じ)

写真2 (Bより)
満洲鉄道写真集(大型本)(B)
第1部 SMR “Rolling Stock” Album、第2部 「あじあ」興隆の時代
第3部 日満の架け橋・鮮鉄
高木宏之、潮書房光人社、2012年

写真に見る満洲鉄道(C)
第1部 満鉄の車両と路線、第2部 鉄道以外の満鉄の事業
(付)独立守備隊
高木宏之、光人社、2010年

以下では、私なりに順序を変えて三部作の最も興味深い写真を紹介したい。第1回は南満洲鉄道関連の5枚である。
写真1奉天駅のあじあ号
「奉天より内地宛に投函された絵葉書で、・・・画像は奉天駅第一ホームに到着したハルピン発上り12レ「あじあ」、牽引機はパシナ9(もと978、1934年川崎車両製)・・・。・・・撮影時期は機関車が改番後の1938~39年と思われる。」(「・・・」は三部作中の説明である)

あじあ号は南満洲鉄道が誇る特急であった。1934年には、あじあ号が、大連~新京間の 704.1kmを、当時の日本としては最速の最高時速120km/h(時には170km/hを記録)で走破した。なお、あじあ号の背景にある奉天駅にも注目したい。

写真2パシナ形のラストナンバー981
「パシナ形は合計12両で、970~ 972が1934年沙河口工場製、973~ 980が同年川崎製、981が1936年川崎製であった。981は他の11両と前頭形状が異なり、川西航空機における風洞実験にもとづく傾斜円筒面で、「ヘルメット形」と称された。」

写真3 (Aより)
写真3:あじあの豪華なる食堂車 
あじあ号の客車は二重窓、空調完備で、写真は食堂車である。人々の表情から豊かな食事を静かに満喫していることが読み取れる。

写真4:沙河口汽車工場の壮観
写真4(Cより)
「1929年頃の機関車職場内部の状況・・・。なお、1929年時点での同工場の年間製造能力は、機関車24両・客車48両・貨車600両、年間修繕能力は機関車240両・客車360両・貨車2.400両、従業員は日本人約1,200名・中国人約1,300名であった。」

現代では直接投資による現地生産を行うことは一般的であるが、南満洲鉄道はすでにこの時代に、日中協力して最先端の鉄道を現地生産していた。

写真5 (Cより)
写真5満鉄直営大連ヤマトホテル
「新築の大連ヤマトホテルは、新市街の中央大広場に面した一等地に1909年6月に起工され、1914年3月に竣工した。建屋はネオ・ルネサンス様式による鉄骨レンガ・石材混造4階建で、正面にイオニア式の円柱8本を配した本絡的な西欧建築であった。絵葉書は1930年頃の撮影と思わ(れる)」

南満洲鉄道の事業は多角的に行われていた。傘下には、昭和製鋼所、満州化学工業、満州炭鉱、大連汽船、満州電業、南満州ガスなどの多彩な企業があり、そのうちのひとつがホテル経営であった。

高木宏之氏の三部作は上記のように、ひとつひとつの写真に詳しい注記があり、はじめてこれらに接する人々にも良く理解できるようになっている。これもまた三部作の重要な特徴となっている。