写真6 (Aより) |
満洲では第1次世界大戦後、リットン調査団も認めるほど、多くの通貨が乱立しその価値が低落していた。満洲中央銀行は、幣制を統一するために、旧通貨の整理回収と新通貨としての国幣の価値安定のために、1932年に設立された。価値安定のために、それを、当初は中国と満洲でなじみが深い銀にリンクする管理通貨とした。
(写真番号の後ろのABCは前回ブログに示した文献番号)
写真7 (Cより) |
「満鉄は創業とともに、関東都督府・居留民会・野戦鉄道提理部より合計13の病院を引き継いで整理統合し、大連に本院を置いた。1909年、「病院」を中国風に「医院」と改名し、一般住民にも診療対象を広げた。」
以下では、満洲で築かれた鉄道事業が、中国や朝鮮にどのように広がったのかを示す貴重な写真を紹介したい。
写真8 (Bより) |
「華北地方の中国鉄道は、1937年の支那事変にともなって日本陸軍鉄道連隊の占領下におかれ、満鉄による管理・整備をへて、1939年4月に発足した日中合弁の華北交通株式会社に移管統合された。」
後に、中部中国にも、同じ日中合弁の鉄道会社として、華中鉄道も創設された。当時、日本企業が進出した海外での企業は、ほとんどが現地との合弁であった。
写真9 (Bより) |
「1937年8月、京義線土城駅(京城起点82.5km)に進入するパシシ形976(1934年川崎製)牽引の上り旅客列車。」
朝鮮では、朝鮮総督府鉄道とともに、朝鮮鉄道、朝鮮京南鉄道、平北鉄道などの民間企業が活動していたが、朝鮮鉄道を除いて比較的小規模であった。
写真10 (Cより) |
「1911年11月1目、安奉線全線が標軌で開通し、翌日、満鉄・鮮鉄(朝鮮総督府鉄道)直通運転開始・・・。鴨緑江橋梁は韓国統監府(併合後は朝鮮総督府)が新義州~安東聞に巨費を投じて架設した、全長3,098フィート(944m)の大鉄橋で・・・、東洋初の旋回式鉄道橋であった。」
ここでも日本は最新の技術を投入していた。この鉄橋によって、日本と朝鮮・満州間の物や人の流れはいちだんと活発になった。
鉄道は戦間期の最も重要なインフラストラクチャであり、それが満洲や朝鮮の経済発展の重要な基盤となった。鉄道の建設と経営に日本と日本企業の果たした役割は非常に大きかった。詳しくは、私の前掲書Japanese Companies in East Asia: History and Prospects: Expanded and Revised Second Editionもご覧ください。
高木宏之氏の三部作は、以上の事実を理解するのにとても貴重な資料となっている。ブログではわずかに10枚しか紹介できなかったので、ぜひとも三部作を手にとってご覧いただきたい。
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