2020年5月3日日曜日

『史上最悪のインフルエンザー忘れられたパンデミック』(2)

原書表紙
『史上最悪のインフルエンザー忘れられたパンデミック』(1)では統計的な数値を中心に紹介したので、(2)では、それ以外の特に重要な箇所を紹介したい。

第5章 スパニッシュ・インフルエンザ、合衆国全⼟を席巻の、最後の節「都市問題と流行の絡み合い」で、著者クロスビーは、感染の急速な拡大と都市を結びつけている。アメリカの有力な都市には、海外からの移民や、アメリカの地方都市からの職を求めて移動してきた多数の人々が、密集して暮らしていた。そこでの衛生環境は決して良いとは言えず、さらに移民の多くは各自治体から出される指示や注意が理解されていなかった。こうして、都市はインフルエンザが急速に拡がる条件がそろっていた。この状態は、今日のニューヨークをはじめとする先進各国の中核都市での状態と酷似しているのだろう。

アメリカの大都市とともに、インフルエンザが猛威を震った場所がある。第12章 サモアとアラスカは、サモアについてその状態を詳しく伝えている。
「・・・人口は少なく、外界からたまに特別な接触があった以外は隔絶された状態を続けていた太平洋の小さな島々がある。これらの島々の原住民たちは、1918年のインフルエンザ・パンデミツクによって世界で最もひどい痛手を受けた人々だった。」(287)
ほとんど援助らしいものを受け取ることができなかった、ドイツ領有下の西サモアに対して、アメリカの支配下にあった東サモアに対してインフルエンザの持ち込みをふさぐためあらゆる手を打ったと言う。「もし、かつて帝国主義がほんの少しでも正当化されるような政策をおこなった国家があったとしたら、1918ー19年のアメリカン・サモアがまさにそれであり、サモア群島の住民たちも十分それを知っていた。」(298)

クロスビー(Alfred W. Crosby)
第7章 サンフランシスコ
本書でスペイン・インフルエンザに対する方策として詳しく述べられているのは、サンフランシスコにおけるマスクの着用である。流行当初から医療現場ではマスクは着用されていたが、サンフランシスコ理事会は全会一致で法的拘束力を持った着用条例を採択した。
1か月ほどで流行が下火になったため条例は解除されたが、その後再び流行が始まり、着用を改めて促す動きに対して、反マスク同盟が組織されるなど、市民の対立が深刻になった。当時は、マスクの着用でさえ、なかなか理解されなかったのである。
この章での検討をふまえて、著者は次のようにまとめている。「アメリカ社会は、特に都市においては、スパニッシュ・インフルエンザ・パンデミックに遭遇してどのようにふるまったのだろうか?もし、この問いがインフルエンザの予防と治療という点に関するものならば、答えはひとこと、「非常にお粗末に」である。しかし、1918-19年当時は、そのような目的を達成できる手段はごく限られたレベルのもの以外どこにもなかったのであるーそれは現在でもそう変わりはないのだが。」(149)

第15章 ⼈の記憶というもの──その奇妙さについて
速水氏の『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』は、アメリカでスペイン・インフルエンザが忘れられた理由について、クロスビーが記述した箇所を以下の様に簡潔にまとめている。
「一、第一次世界大戦に対する関心が、スペイン・インフルエンザより勝っていた。二、スペイン・インフルエンザによる死亡率は、高いとは言えなかった。三、スペイン・インフルエンザは突然やってきて、人々をなぎ倒しはしたが、あっという間に去り、戻ってこなかった、四、スペイン・インフルエンザは、超有名な人物の命を奪わなかった。」(速水、429-30)

クロスビーの『史上最悪のインフルエンザー忘れられたパンデミック』は、スペイン・インフルエンザから約70年が経過した1989年(最初の版は1976年刊)に、早くもその事実と人々の対応を詳細に記述した。先に紹介した速水氏の著作とともに、今日のコロナ・ウイルスを我々がどのように理解し、立ち向かうべきなのかを深く考えさせてくれる。ふたつの著作とも大著であるが、このStay Homeの期間に、ぜひ多くの方が読んでいただきたいと思う。

上の写真はクロスビー(Alfred W. Crosby)である。ワシントン・ポストの"Alfred Crosby, environmental historian of ‘Columbian exchange,’ dies at 87"と題する記事を利用させていただいた。

さらに詳しくは、書評論文「スペイン・インフルエンザに関する3つの基本文献の紹介論文】(クリックしてください)をご参照ください。


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