目次は以下の通り。
序論 飢饉・疫病と社会経済史
第Ⅰ部 飢饉と疫病の時代
第1章 英領インドにおける飢饉と疫病、第2章 飢饉・マラリアと死亡率、第3章 マラリアと植民地的開発、第4章 インフルエンザ・パンデミックとインド、第5章 植民地的開発・エンタイトルメント・疾病環境
第Ⅱ部 飢饉・疫病と植民地統治
第6章 飢饉救済政策の制度化、第7章 植民地主義と疾病・医療、第8章 植民地統治と公衆衛生
結語、あとがき、図表一覧、索引
まず、著者の本書全体の視角を紹介しよう。「(1)英領期インドの飢鍾と疫病という現象を,「生活水準」という概念に関連づけて究明する、(2)疾病史を環境史の文脈で位置づけ直す、(3)「災害管理」(disaster management)という問題に着目する、(4)「帝国医療」(imperial medicine)という問題設定から,この時期のインドにおける疫病への対応を考える」(本文序論から要約)この視角から第4章も検討されている。
スペイン・インフルエンザは、世界各地とほぼ同じ時期にインドを襲った。まず注目したいのは、表1(原表4-1)に示した地域別の実情である。Annual Report of the Sanitary Commissioner with the Government of India, 1918のデータに基づいている、この文献は、オリジナルが公開されている。この表によれば、英領インド全体で死亡者が709万人、100万人を超えているのが連合州(現在のウッタル・プラデーシュ州、ウッタラーカンド州)とボンベイ(ムンバイ)である。州内の都市と農村の格差についても著者は言及している。なお、死亡者については、超過死亡者という方法が採られている。
次にThe Statesman (Weekly Edition)による表2(原表4-3)は、各コミュニティー別の死亡率を示している。ヒンドゥー(低カースト)が898.38(パーミル、以下同じ)、 ジャイナ教徒が465.70、この2つが特に高く、対照的にヨーロッパ人が43.41 と著しく低い。植民地での支配者と被支配者との大きな違いが示されている。ただし、インドの主要なコミュニティーの数値が非常に高く、先の表1のインド全体の数値と整合的かについてやや疑問が残る。
1918年には、食料穀物価格が、モンスーンの不調と第一次世界大戦によるインフレによって、急激に上昇した。その結果として生じた「食糧不足の状況はインフルエンザの被害を増幅したであろうが,他方でインフルエンザの影響が農業活動を困難にしたことも確かであろう。」(本書、p.124)こうして、食糧不足が低所得階層に大きな被害をもたらしたと著者は指摘する。
ところで、「インドにおけるインフルエンザの人的被害は未曾有の規模であったが,当時の植民地政府の公文書類の中でインフルエンザの影響についてふれたものは意外に少ない。また,当時の状況を知るために,新聞のいくつかを通読してみても, これまた意外にその情報は限られている。」(125)戦争という異常な事態と、インフルエンザの影響が短期間に集中したことが、このような事態を生み出したと著者は見ている。
そして、著者は「当時のイギリス植民地政府の公衆衛生政策の無策,特に農村における無策が大きな影響を与えたことは間違いないと言えるであろう。」(129-30)と結んでいる。
ところで、イギリス植民地政策の結果としてのインドのこの状況は、日本の朝鮮・台湾の統治政策との比較検討を課題としている。著者は、第8章 植民地統治と公衆衛生の特に3で日本との比較を試みているが、この興味深い課題については次のブログで検討したい。
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この表と、私が先にブログの「速水融『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』(2)」に掲載したNiall P. A. S. Johnson, Juergen Mueller(2002)の表とあわせて参照していただきたい。インドについては、表3のPetterson & Pyleが、死者が1250万~2000万人、対人口死者率 (パーミル) が42~67と、幅を持たせた推計を行っている。このように主要な研究でも実態はまだ十分に解明されていない。今後の研究が待たれる。
100年前のインドの状況は、今回のコロナ・ウイルスが途上国に及ぼす大きな影響を推測させる。多くの方々が、その課題にぜひ関心を持っていただきたいと思う。そのために、脇村氏のこの著作はとても参考になる。
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