追記 (2021.3.24)
この書評をさらに詳しくした書評は以下の通りです。ぜひご参照ください。
追記 (2019.3.11)
『日本帝国の申し子』に掲載された、朝鮮人企業家の貴重な写真を最下段に掲載しました。
**********
2014年の最初に取り上げるのは、以下の著作である。近年、日韓が歴史問題できわめて厳しく対立しているが、その解決のためには、安易な政治的な妥協ではなく、事実に基づいて当時の歴史を具体的に明らかにすること以外に、よりよい方法は無いと思う。
戦間期の朝鮮の経済と日朝間の経済関係を理解しようとする場合、まず読むべき文献は、Carter J. Eckertの
Offspring of Empire: the Koch'ang Kims and the Colonial Origins of Korean Capitalism, 1876-1945, University of Washington Press, 1991 (小谷まさ代訳『
日本帝国の申し子:高敞の金一族と韓国資本主義の植民地起源 1876-1945』、草思社、2004年)である。
まず、簡単にエッカートの主張の重要な点を簡単に紹介しておきたい。
彼が主に取り上げたのは、植民地期朝鮮の最も重要な企業のひとつである
京城紡織である。京城紡織は、1919年に設立され、終戦直前まで朝鮮人が経営する企業で最大の企業であり続けた。この企業を率いたのは、タイトルにあるように、高敞の金一族である。京城紡績については、詳しい社史があり、そこに財務諸表も掲載されているので、発表する予定の私の論文で詳しく検討する予定である。
韓国の萌芽派の趙璣濬は、「京紡は、朝鮮の資本(民族資本)と朝鮮の工業技術のみに基づいて経営された。 」と述べたが、エッカートは次のように反論している。「京紡という企業は植民地の権力構造から孤立し、日本の資本主義と対立していたのではない。それどころか両者との緊密な関係のなかで成長を遂げ、一九四五年には、日本から朝鮮、アジア大陸にまで広がる帝国主義経済ブロックの重要な一部となっていたのである。」(日本語訳, p.96-97)
その資金、原材料、人的な緊密な関係については、本書各章で詳しく検討されているので参照していただきたい。
そして、エッカートは、以下のように述べている。「金一族の例は氷山の一角であり、一九四五年以前に出現した数多くの資本家のなかでも、とくに目立つ存在であるというにすぎない。・・・・・。金一族ほどの地位は獲得していなくても、のちに韓国で大きな成功を収めた実業家は枚挙にいとまがない。・・・・・。筆者の主導でおこなった最近の調査では、韓国財閥の上位五〇グループの創始者のうち、じつに六〇パーセント近くが、植民地時代に何らかのビジネス体験をしていたという結果が出ている。」(日本語訳, p.327)
ところで、京城紡織は、1930年代の後半から積極的に満州、中国への進出を試みていた。1939年には、
南満紡績が京城紡績の子会社として設立された。その公称資本金は、京城紡績を上回っていた。その特徴については、「朝鮮で日本資本が新会社を設立する場合には、株主や役員に朝鮮人が含まれていることが多かった。しかし満洲での金一族はそのような巧妙な手口を用いる必要がなかった。彼らは南満紡績の設立にあたって中国資本を求めたりはせず、京紡が株の大半を保有し、役員は全員が朝鮮人だったのである。」とエッカートは言う。(日本語訳, p.233)
彼が指摘している日本資本の特徴は非常に重要なので、私の論文で詳しく紹介したい。
そして結論では、「植民地時代におこなわれた工業化の遺産は、朝鮮の資本家階級を生み育てたことにとどまらない。植民地化は戦後の経済発展に必要な社会基盤を残したのみならず、この時代の資本主義発展は(少なくとも急速な工業化を促進したという意味での)成功モデルとして、のちの経済発展に影響を与えることになったのである。」(日本語訳, p.329)と述べられている。
エッカートの研究は、京城紡織をはじめとする広範囲で膨大な資料を基に、多岐にわたって検討されている画期的な研究である。なお、日本語翻訳は、p.342-438を、原注の翻訳、参考文献の紹介に当てていて、研究書としても非常に役に立つ内容となっている。戦間期の日朝関係に関心を持つ多くの人々に、まず読んでいただきたい文献である。
私も、戦間期の朝鮮で活動していた日本企業と朝鮮人系企業、そしてその相互関係を、『
大陸企業便覧』などを用いて、エッカートとは少し異なった視点で検討したいと思っている。
また、韓国でようやくエッカートの完全な翻訳が出たが、その翻訳者である朱益鍾氏の『
大軍の斥候 : 韓国経済発展の起源』、金承美訳、日本経済評論社, 2011年についても、近く検討してみたい。