退職してから約半年、この期間の主な仕事だった、Japanese Companies in East Asia: History and Prospects: Expanded and Revised Second Edition が、ようやくAmazon.comで販売できるようになった。 (Paperback, October 2, 2015)
Expanded and Revised Second Editionなので、ページ数は342と大幅に増加した。
目次は以下の通りである。
Part 1 Prewar Global Economic System and Economic
Interdependence between Japan and China
Chapter 1 Foreign Direct Investment in the Inter-war Period and Japanese Investment in China
Chapter 2 Trade and the Balance of Payments in Japan and China in the Prewar Global Economic System
Part 2 Japanese Companies and Collaboration in East Asia
in the Inter-war Period
Chapter 3 Japanese Companies and Investment in China during the Second Half of the Inter-war Period
Chapter 4 Collaboration between Japanese and Korean Companies in the Inter-war Period
Chapter 5 Japanese Investment and Collaboration in Manchuria
Part 3 Current Economic and Business Competition and Alliance among Japan, China, Taiwan and ASEAN
Chapter 6 Global Infrastructure Investment, Competition, and the Japanese Companies
Chapter 7 The Rapid Growth of Chinese Companies, and the Institutional Investor Role
Chapter 8 Business Alliances between Japanese and Taiwanese Companies
Chapter 9 Nikkei ASEAN 100 Companies and their Future
各章のうち。赤字で示した章は、今回の増補改訂版で新たに追加した章である。なお、初版からは2つの章を削除したので、かなり大幅な改訂版となった。
この増補改訂によって、以下の点が明らかになったと思われる。第1に、戦前日本企業のコーポレート・ガバナンスが、国内・海外の企業ともに市場中心型であること、そのことによって積極的な海外進出が可能になったこと。
第2に、この投資によって、投資受入国である、満州を含む中国や朝鮮に、企業組織そのものや企業の経営資源の移転を進めた。この投資の推進に当たっては、現地受入国の企業や人々とのCollaborationが広範囲に実施されたこと。
現代においては、グローバル企業は言うまでもなく、日本企業においても、一段と市場中心型コーポレート・ガバナンスが発展しているとともに、海外投資がより大規模になっていること。
現代では、日本企業と現地国企業のCollaborationは、より対等で広範囲なBusiness Allianceへと発展している。特に、日本企業の相対的な地位の低下とともに、その傾向はいちだんと強まっていることなどである。
HPとこのブログで、順次日本語での要約も掲載する予定ですが、ぜひともAmazon.comで現物をLook Insideしていただいた上で、読んでいただけましたら幸いです。
なお、これからKindle版の作成に取り組んでいく予定である。
(ブログのTOP、ブログの目次, 新保博彦のホームページ)
2015年10月5日月曜日
2015年7月21日火曜日
第二次大戦に勝者なし ウェデマイヤー(Wedemeyer,Albert C.)回想録
前回のブログに引き続き、第二次世界大戦を考える最も重要な書籍のひとつとして、『第二次世界大戦に勝者無しーウェデマイヤー回想録』を紹介したい。
まず、ウェデマイヤー(Albert C. Wedemeyer)将軍の略歴は、同書に依れば以下の通りである。
「1897年米国ネプラスカ州生まれ。1919年ウェスト・ポイント陸軍士官学校卒業。36年陸軍大学卒業。独陸大留学後参謀本部勤務、連合軍東南アジア副司令官、中国戦線米軍総司令官兼蒋介石付参謀長を歴任して51年退役。53年予備役名簿で陸軍大将に進級。89年12月没。」(奥付)
ウェデマイヤー将軍は、「第1章 第二次大戦前奏曲」でこのように述べている。「ルーズベルトは、ドイツに対米宣戦させようとした極端な挑発行動も失敗し、アメリカ国民の大多数の参戦反対の決意も固く、アメリカ議会で宣戦布告の同意が得られる見通しもなかったので、彼は目を太平洋に転じた。・・・。アメリカは、日本が面白をつぶさない限り現に保持している地点から撤退できない、という妥協の余地のまったくない提案を日本側におしつけた。」(上、p.40)これが第2次世界大戦の引き金になったという。すでに紹介したハミルトン・フィッシュと同じ見解であり、同じ事実認識であった。
この点については、第二十七章「第二次大戦に勝者なし(二)」で再び詳細に説明している。
そして、彼は日本の真珠湾攻撃を誘導したルーズベルト大統領に対して、次のように批判している。「最後に、連合国側の過失のうちの最大のものは、同盟国であるソ連の戦後に対する意図を正しく判断できなかったことである。ルーズベルト大統領は、一九四四年三月八日、こう述べている。「余としては、ソ連はまったく友好的であると考える。ソ連はヨーロッパの残りの地域を全部むさぼり取ろうとはしていない。ソ連は他国を支配するような考えは少しも持っていない。」」(下、p.372)戦後すぐのソ連、そして現在のロシアを見れば、ただちに明らかになるが、何という根拠の無い主張だろうか。そのように考えるようになったのは、「「ルーズベルトは、第四期の大統領任期なかばにもうろくする以前でさえも、陰謀家どもや共産主義に対しては腰ぬけのインテリたちにとりかこまれていた。」(下、p.273)からだと言う。
ウェデマイヤー将軍が厳しく批判したもう一人が、ルーズベルトを支えたマーシャル将軍である。
「私は、マーシャル将軍が中国に対する彼の基本的な過失、つまり、国民政府と共産主義者は勢力争いする二つの党派にすぎないという考え方と、蒋介石に共産主義者との妥協を強要するため、一九四六年から四七年にかげて、中国に対する武器、弾薬の補給を全面的に禁止した過失、の二点を認めるならば、いまでも将軍をこの時代の偉大な人物のひとりとして尊敬する。しかし将軍は、国民政府に対し共産主義者への譲歩を強要するという、まちがった対中国政策を決して改めなかった。」(下、p.283)
ルーズベルトがソ連との同盟を最重要視したのと同様に、マーシャル将軍は中国国民党に共産党との妥協を強要し、結果として、共産主義の支配が中国から全アジアに拡大し、大規模な東西冷戦と朝鮮戦争のような本格的な戦争を生み出したのである。このように、ウェデマイヤー将軍の批判は、ルーズベルト体制全体に及んでいる。
一方で、彼は上記の通り、ドイツで学んだ時期があったが、ドイツに対しての批判は抑制的である。「ドイツがもっとも侵略的な国家で、たび重なる平和の破壊者であるという世間の想像は誤っている、ということを確かめるには、たいして歴史を研究する必要はない。地図を一見すれば、イギリスやフランスが平和愛好国であったかどうかはすぐわかることだ。もし英仏が平和的であったならば、どうして地球上のあんなに広大な地域を統治することができるようになったか、ひとつ彼らにたずねてみようではないか。」(上、p.48)
フィッシュは政治家として伝統的なアメリカの価値観から、ウェデマイヤー将軍は職業軍人としてルーズベルト体制を厳しく批判した。戦後70年経ち、フィッシュやウェデマイヤー将軍のような見解が、改めて広く紹介され、第二次世界大戦が何であったのかを詳しく検討し直す必要があるだろう。
なお、ウェデマイヤー将軍が、終戦時に、中国大陸にいた三百九十万の日本軍将兵と在留邦人の早期内地送還について、大いに尽力されたことについては付記しておく必要がある。
この著作には、研究文献としては必須の詳しい索引が付いている。できれば、高齢化社会に適応できるように、本のサイズを大きくすることや、電子版(原書にはKindle版がある)を出す等が今後試みられることを期待したい。
まず、ウェデマイヤー(Albert C. Wedemeyer)将軍の略歴は、同書に依れば以下の通りである。
「1897年米国ネプラスカ州生まれ。1919年ウェスト・ポイント陸軍士官学校卒業。36年陸軍大学卒業。独陸大留学後参謀本部勤務、連合軍東南アジア副司令官、中国戦線米軍総司令官兼蒋介石付参謀長を歴任して51年退役。53年予備役名簿で陸軍大将に進級。89年12月没。」(奥付)
ウェデマイヤー将軍は、「第1章 第二次大戦前奏曲」でこのように述べている。「ルーズベルトは、ドイツに対米宣戦させようとした極端な挑発行動も失敗し、アメリカ国民の大多数の参戦反対の決意も固く、アメリカ議会で宣戦布告の同意が得られる見通しもなかったので、彼は目を太平洋に転じた。・・・。アメリカは、日本が面白をつぶさない限り現に保持している地点から撤退できない、という妥協の余地のまったくない提案を日本側におしつけた。」(上、p.40)これが第2次世界大戦の引き金になったという。すでに紹介したハミルトン・フィッシュと同じ見解であり、同じ事実認識であった。
この点については、第二十七章「第二次大戦に勝者なし(二)」で再び詳細に説明している。
そして、彼は日本の真珠湾攻撃を誘導したルーズベルト大統領に対して、次のように批判している。「最後に、連合国側の過失のうちの最大のものは、同盟国であるソ連の戦後に対する意図を正しく判断できなかったことである。ルーズベルト大統領は、一九四四年三月八日、こう述べている。「余としては、ソ連はまったく友好的であると考える。ソ連はヨーロッパの残りの地域を全部むさぼり取ろうとはしていない。ソ連は他国を支配するような考えは少しも持っていない。」」(下、p.372)戦後すぐのソ連、そして現在のロシアを見れば、ただちに明らかになるが、何という根拠の無い主張だろうか。そのように考えるようになったのは、「「ルーズベルトは、第四期の大統領任期なかばにもうろくする以前でさえも、陰謀家どもや共産主義に対しては腰ぬけのインテリたちにとりかこまれていた。」(下、p.273)からだと言う。
![]() |
| from Amazon.com |
「私は、マーシャル将軍が中国に対する彼の基本的な過失、つまり、国民政府と共産主義者は勢力争いする二つの党派にすぎないという考え方と、蒋介石に共産主義者との妥協を強要するため、一九四六年から四七年にかげて、中国に対する武器、弾薬の補給を全面的に禁止した過失、の二点を認めるならば、いまでも将軍をこの時代の偉大な人物のひとりとして尊敬する。しかし将軍は、国民政府に対し共産主義者への譲歩を強要するという、まちがった対中国政策を決して改めなかった。」(下、p.283)
ルーズベルトがソ連との同盟を最重要視したのと同様に、マーシャル将軍は中国国民党に共産党との妥協を強要し、結果として、共産主義の支配が中国から全アジアに拡大し、大規模な東西冷戦と朝鮮戦争のような本格的な戦争を生み出したのである。このように、ウェデマイヤー将軍の批判は、ルーズベルト体制全体に及んでいる。
一方で、彼は上記の通り、ドイツで学んだ時期があったが、ドイツに対しての批判は抑制的である。「ドイツがもっとも侵略的な国家で、たび重なる平和の破壊者であるという世間の想像は誤っている、ということを確かめるには、たいして歴史を研究する必要はない。地図を一見すれば、イギリスやフランスが平和愛好国であったかどうかはすぐわかることだ。もし英仏が平和的であったならば、どうして地球上のあんなに広大な地域を統治することができるようになったか、ひとつ彼らにたずねてみようではないか。」(上、p.48)
フィッシュは政治家として伝統的なアメリカの価値観から、ウェデマイヤー将軍は職業軍人としてルーズベルト体制を厳しく批判した。戦後70年経ち、フィッシュやウェデマイヤー将軍のような見解が、改めて広く紹介され、第二次世界大戦が何であったのかを詳しく検討し直す必要があるだろう。
なお、ウェデマイヤー将軍が、終戦時に、中国大陸にいた三百九十万の日本軍将兵と在留邦人の早期内地送還について、大いに尽力されたことについては付記しておく必要がある。
この著作には、研究文献としては必須の詳しい索引が付いている。できれば、高齢化社会に適応できるように、本のサイズを大きくすることや、電子版(原書にはKindle版がある)を出す等が今後試みられることを期待したい。
関連する主要なブログ:・ハミルトン・フィッシュ(Fish, Hamilton)の『ルーズベルトの開戦責任』、・フーバー大統領『裏切られた自由』での、中国と朝鮮、『フーバー大統領回顧録』紹介(3)
関連する論文:・『論文・書評集 戦間期日米関係: 経済・企業システムの共通性と相互依存』【論文集】、・フーヴァーの思想と経済・外交政策 【論文】、書評「フーバー大統領回顧録『裏切られた自由』を読む:日本にかんする叙述を中心にして 【論文】
2015年7月17日金曜日
ハミルトン・フィッシュ(Fish, Hamilton)の『ルーズベルトの開戦責任』
今年は戦後70年、注目すべき文献が次々と刊行されている。
ハミルトン・フィッシュ(Fish, Hamilton)の『ルーズベルトの開戦責任 -大統領が最も恐れた男の証言』(FDR : the other side of the coin : how we were tricked into World War II)は、きわめて重要な事実を明らかにしている。できるだけ翻訳原文を詳しく紹介したい。
まず、書籍が簡潔にまとめたフィッシュの略歴である。
「1888-1991年。ニューヨークのオランダ系WASP(通称ニッカーボッカー)の名門に生まれる。祖父はグラント大統領政権で国務長官をつとめ、父は下院議員に選出された政治家一家。ハーバード大学卒業後、1914年、ニューヨーク州議会議員となる。第1次大戦では黒人部隊を指揮して戦う。帰還後の20年、下院議員に選出(~ 45年)。共和党の重鎮として、また伝統的な非干渉主義の立場から第2次大戦への参戦に反対するも、対日最後通牒(ハル・ノート)の存在を隠して対日参戦を訴えたルーズベルトに同調する議会演説を行なう。後にこれを深く後悔、戦後は一貫してルーズベルトの、ニューディール政策に代表される議会を軽視した国内政治手法とスターリンに宥和的な外交を批判し、大統領の開戦責任を追及した。」(表紙)
本書では、ルーズベルトによる経済への国家介入を拡大するニューディール政策が実際には効果が無かったことが示され、またその経済政策と一体である共産主義ソ連への宥和政策が厳しく批判され、これらの政策がアメリカの伝統である経済活動の自由を脅かし、外交での不干渉主義に反することが明解に主張される。彼の主張は、アメリカの伝統的な政策を最も明解に受け継いでいるだけでなく、現在改めて見直されている内容であることがわかる。
そして、日米間についての彼の主張は、第15章のタイトルにつきる。「アメリカ参戦までの道のり:隠された対日最後通牒、国民も議会も、日本に「最後通牒」(ハル・ノート)が発せられていることを知らなかった。」周知のように、ハル・ノートは日本にとって非常に過酷な条件でとうてい受け入れることはできなかった。
日本外交文書デジタルアーカイブ日米交渉―1941年―下巻による、ハル・ノートの主な箇所は以下の通りである。
(一)日米英「ソ」蘭支泰国間ノ相互不可侵条約締結、(二)日米英蘭支泰国間ノ仏印不可侵並ニ仏印ニ於ケル経済上ノ均等待遇ニ対スル協定取極、(三)支那及全仏印ヨリノ日本軍ノ全面撤兵、(四)日米両国ニ於テ支那ニ於ケル蒋政権以外ノ政権ヲ支持セサル確約、(五)支那ニ於ケル治外法権及租界ノ撤廃、(六)最恵国待遇ヲ基礎トスル日米間互恵通商条約締結、(七)日米相互凍結令解除、(八)円「ドル」為替安定、(九)日米両国カ第三国トノ間ニ締結セル如何ナル協定モ本件協定及太平洋平和維持ノ目的ニ反スルモノト解セラレサルヘキコトヲ約ス(三国協定骨抜キ案)
なお、この文書の画像版の一部は右上参照(原文はdjvuファイル)
ところで、フィッシュの日本についての評価を見ておこう。
「日本はわが国との戦いを避けるためには、ほとんど何でもするというような外交姿勢をとっていた。・・・近衛(文麿)首相は和平を希求していた。ワシントンへでもホノルルへでも出かけて行ってFDRと直接交渉することを望んでいた。わが国の要求に妥協し、戦いを避けるための暫定協定を結びたいと考えていた。しかしルーズベルトは近衛との会見を拒否し続けた。日本に戦争を仕掛けさせたかったのである。そうすることで対独戦争を可能にしたかった。」(p.208)
「日本は小さな国である。人口は八千万ほどで、その国土はカリフォルニア州にも満たない大ききである。日本は天然資源が乏しく、その上、つねにソビエトの脅威に晒されていた。天皇は道義心にあふれていた(a man of honor)。そして平和を希求していた。」(p.209)
経済活動の自由を擁護し、反共産主義の立場に立つフィッシュは、アメリカと同様の共産主義の脅威に晒されていた日本の立場を良く理解していたのである。彼はソ連だけではなく、中国における共産党の脅威も的確に把握し、国共合作に対しても厳しく批判していた。
フィッシュの主張を補強するとして、フィッシュが紹介した重要な文献を挙げてみる。
「ロパート・A・セオボールド(Theobald, Robert A.)海軍准将(退役)はその著書『真珠湾最後の秘密(The final Secret of Pearl Harbor)』(日本語訳:真珠湾の審判)の中で真珠湾攻撃について詳述しているが、彼は戦争を始めたのはFDRであると明言している。真珠湾を無防備のままにしたこと。二人の真珠湾の司令官に解読された日本の暗号に基づいた真珠湾攻撃の可能性を知らせなかったこと。FDRは日本の暗号文書の中に真珠湾におけるアメリカ艦隊の配置情報があると知っていたこと。日本を挑発した最後通牒(ハル・ノート)に対する日本の回答内容を知っていたこと。そうしたことを総合的に判断すればFDRの責任は明白である。」(p.229)
我が国では、今なお第2次世界大戦の責任を我が国とその指導部にのみ求めようとする見解が根強い。戦後70年の今年は、そのような一面的な見解を見直す重要な契機になることを期待したい。そのために本書は欠かせない書籍である。
<関連する私のブログ>
第二次大戦に勝者なし ウェデマイヤー(Wedemeyer,Albert C.)回想録 (2015.7.21)
第2次世界大戦を見直す大著『裏切られた自由(フーバー大統領回顧録)』邦訳刊行迫る (2017.8.6)
藤井厳喜他『日米戦争を起こしたのは誰か』、『フーバー大統領回顧録』紹介(1) (2017.8.7)
(ブログのTOP、ブログの目次, 新保博彦のホームページ)
まず、書籍が簡潔にまとめたフィッシュの略歴である。
「1888-1991年。ニューヨークのオランダ系WASP(通称ニッカーボッカー)の名門に生まれる。祖父はグラント大統領政権で国務長官をつとめ、父は下院議員に選出された政治家一家。ハーバード大学卒業後、1914年、ニューヨーク州議会議員となる。第1次大戦では黒人部隊を指揮して戦う。帰還後の20年、下院議員に選出(~ 45年)。共和党の重鎮として、また伝統的な非干渉主義の立場から第2次大戦への参戦に反対するも、対日最後通牒(ハル・ノート)の存在を隠して対日参戦を訴えたルーズベルトに同調する議会演説を行なう。後にこれを深く後悔、戦後は一貫してルーズベルトの、ニューディール政策に代表される議会を軽視した国内政治手法とスターリンに宥和的な外交を批判し、大統領の開戦責任を追及した。」(表紙)
本書では、ルーズベルトによる経済への国家介入を拡大するニューディール政策が実際には効果が無かったことが示され、またその経済政策と一体である共産主義ソ連への宥和政策が厳しく批判され、これらの政策がアメリカの伝統である経済活動の自由を脅かし、外交での不干渉主義に反することが明解に主張される。彼の主張は、アメリカの伝統的な政策を最も明解に受け継いでいるだけでなく、現在改めて見直されている内容であることがわかる。
そして、日米間についての彼の主張は、第15章のタイトルにつきる。「アメリカ参戦までの道のり:隠された対日最後通牒、国民も議会も、日本に「最後通牒」(ハル・ノート)が発せられていることを知らなかった。」周知のように、ハル・ノートは日本にとって非常に過酷な条件でとうてい受け入れることはできなかった。
(一)日米英「ソ」蘭支泰国間ノ相互不可侵条約締結、(二)日米英蘭支泰国間ノ仏印不可侵並ニ仏印ニ於ケル経済上ノ均等待遇ニ対スル協定取極、(三)支那及全仏印ヨリノ日本軍ノ全面撤兵、(四)日米両国ニ於テ支那ニ於ケル蒋政権以外ノ政権ヲ支持セサル確約、(五)支那ニ於ケル治外法権及租界ノ撤廃、(六)最恵国待遇ヲ基礎トスル日米間互恵通商条約締結、(七)日米相互凍結令解除、(八)円「ドル」為替安定、(九)日米両国カ第三国トノ間ニ締結セル如何ナル協定モ本件協定及太平洋平和維持ノ目的ニ反スルモノト解セラレサルヘキコトヲ約ス(三国協定骨抜キ案)
なお、この文書の画像版の一部は右上参照(原文はdjvuファイル)
ところで、フィッシュの日本についての評価を見ておこう。
「日本はわが国との戦いを避けるためには、ほとんど何でもするというような外交姿勢をとっていた。・・・近衛(文麿)首相は和平を希求していた。ワシントンへでもホノルルへでも出かけて行ってFDRと直接交渉することを望んでいた。わが国の要求に妥協し、戦いを避けるための暫定協定を結びたいと考えていた。しかしルーズベルトは近衛との会見を拒否し続けた。日本に戦争を仕掛けさせたかったのである。そうすることで対独戦争を可能にしたかった。」(p.208)
「日本は小さな国である。人口は八千万ほどで、その国土はカリフォルニア州にも満たない大ききである。日本は天然資源が乏しく、その上、つねにソビエトの脅威に晒されていた。天皇は道義心にあふれていた(a man of honor)。そして平和を希求していた。」(p.209)
経済活動の自由を擁護し、反共産主義の立場に立つフィッシュは、アメリカと同様の共産主義の脅威に晒されていた日本の立場を良く理解していたのである。彼はソ連だけではなく、中国における共産党の脅威も的確に把握し、国共合作に対しても厳しく批判していた。
フィッシュの主張を補強するとして、フィッシュが紹介した重要な文献を挙げてみる。
「ロパート・A・セオボールド(Theobald, Robert A.)海軍准将(退役)はその著書『真珠湾最後の秘密(The final Secret of Pearl Harbor)』(日本語訳:真珠湾の審判)の中で真珠湾攻撃について詳述しているが、彼は戦争を始めたのはFDRであると明言している。真珠湾を無防備のままにしたこと。二人の真珠湾の司令官に解読された日本の暗号に基づいた真珠湾攻撃の可能性を知らせなかったこと。FDRは日本の暗号文書の中に真珠湾におけるアメリカ艦隊の配置情報があると知っていたこと。日本を挑発した最後通牒(ハル・ノート)に対する日本の回答内容を知っていたこと。そうしたことを総合的に判断すればFDRの責任は明白である。」(p.229)
我が国では、今なお第2次世界大戦の責任を我が国とその指導部にのみ求めようとする見解が根強い。戦後70年の今年は、そのような一面的な見解を見直す重要な契機になることを期待したい。そのために本書は欠かせない書籍である。
<関連する私のブログ>
第二次大戦に勝者なし ウェデマイヤー(Wedemeyer,Albert C.)回想録 (2015.7.21)
第2次世界大戦を見直す大著『裏切られた自由(フーバー大統領回顧録)』邦訳刊行迫る (2017.8.6)
藤井厳喜他『日米戦争を起こしたのは誰か』、『フーバー大統領回顧録』紹介(1) (2017.8.7)
(ブログのTOP、ブログの目次, 新保博彦のホームページ)
2015年6月24日水曜日
20世紀は直接投資の時代、イデオロギー的な歴史教育の見直しを、
第2次大戦後、政治的な独立を達成した発展途上国や社会主義国、そしてそれを支援する研究者が、直接投資を帝国主義的な搾取の手段として厳しい批判を加えた。
しかし、1960年代以降の、直接投資の積極的な受け入れを進めたアジアの輸出工業化政策の成功によって、直接投資への評価は肯定的なものへと一変した。今では、直接投資をかつてのように否定的にとらえる国や研究者はほとんどいない。直接投資批判の急先鋒であったUNCTADですら、過去の立場は無かったかのように直接投資に関する報告書を毎年刊行している。
直接投資を簡単に定義すると企業の海外進出である。投資受け入れ企業の株式の10%を超える国際投資を直接投資とみなすが、一般的には過半数を超える場合が多く、100%出資も決して少なくない。
直接投資の最も重要な役割は、投資元企業の経営資源を移転することである。経営資源には、生産技術から、マーケティングや経営管理のノウハウまでも含まれる。受入国からみると、これらが一体となって受け入れられるので、受入国経済や企業の発展に大きく貢献できる。
直接投資が経営資源の移転であったからこそ、後発の発展途上国が、最先端の産業で急速な経済発展を達成できた。直接投資が一般的になった時代のアジアの発展途上国の、先進国に追いつくための時間が、直接投資が始まったころの日本に比べて、大きく短縮されたのは、この直接投資に依るところが大きい。
直接投資が発展した背景は、先進各国で市場経済と技術革新が発展し、企業間の自由な競争が激化し、より大きなビジネス・チャンスを求めて競争が国外にも拡大した結果である。経済と投資のグローバル化が、政治のグローバル化にどのように結びつくかには、様々な形態がある。経済的な結びつきが弱いまま政治的な進出が行われる場合、経済的な進出にともなって政治的な進出が行われる場合などである。
以上の検討から、20世紀は直接投資の時代と言える。それは、今では国際経済を分析する研究者のとっては常識となっている。
ところで、最新刊の日本の歴史教科書(広い意味での)は、この時代を今でも「帝国主義」の時代ととらえている。ひとつの例を挙げると、最近刊行された『もういちど読む 山川世界現代史』(2015年)である。さすがにレーニンの帝国主義の定義はないが、レーニンの理論のひとつの下敷きとなったホブソンの帝国主義論を取り上げている。帝国主義について、ホブソンは過剰生産に求め、レーニンは経済的・政治的独占に求め、その限界や崩壊を導き出した。しかし、現実には、直接投資という「資本輸出」のグローバル経済の発展に対する重要な貢献と各国の強い期待、そして伝統的な帝国主義論との乖離はますます大きくなっている。
次世代を担う若者への教育のためには、上記の書籍のようなイデオロギー的な歴史分析ではなく、現実に即した記述こそ今求められている。
上記の記述については、私の『世界経済システムの展開と多国籍企業』(1998年、右上)を参照していただきたい。また、世界的に最もよく知られている研究文献の翻訳としては、ジェフリー・ジョーンズの『国際経営講義』(Geoffrey G. Jones, Multinationals and Global Capitalism From the Nineteenth to the Twenty-first Century, 2005、左上)がある。
(ブログのTOP、ブログの目次, 新保博彦のホームページ)
2015年6月1日月曜日
決して忘れてはならない天安門事件と08憲章、Tiananmen Square protests of 1989 and Língbā Xiànzhāng
6月4日は、日本人も決して忘れてはならない天安門事件があった日である。まずは以下を見ていただきたい。
NHK名作選 みのがしなつかし 天安門事件 武力鎮圧(動画)
天安門事件とは、「1989年6月3日深夜から4日早暁にかけて天安門広場で発生した「血の日曜日事件」である。・・・同年4月中旬の胡耀邦(こようほう/フーヤオパン)・元中国共産党総書記の死を悼む形で起こった民主化運動は、“最後の皇帝”として君臨しつつあったトウ小平の「人治」に対して「法治」を求める学生や市民の大衆運動であった。・・・同年5月20日には北京市に戒厳令が布告され、ついには「六・四」の武力弾圧として人民解放軍が戦車などを出動させ、学生や市民に発砲するなどして多数の死者を出した。」(中嶋嶺雄)
中嶋氏の簡潔な説明は上記の通りであるが、事件の全貌は未だに明らかにされていない。中日歴史家が明らかにしなければならない、現代中国の闇のひとつである。
天安門事件に参加した劉暁波(リュウ・シャオボー、Liú Xiǎobō)が、2008年に今後の中国を構想して起草したのが、08憲章(Língbā Xiànzhāng)である。
左の「天安門事件から「08憲章」へ」はその全文も含め、劉暁波の基本的な文献となっている。
以下は、08憲章の概要である。(同書、209-227ページ)
一 前書
二、我々の基本理念
中国の未来の運命を決定するこの歴史の岐路に立ち、百年来の近代化の歩みを省みて、下記の基本理念を再び言明する必要がある。
自由、人権、平等、共和、民主、憲政
三、我々の基本的主張
これにより、我々は、責任を担う建設的な公民の精神に基づいて、国家の政治制度、公民の権利と社会発展の各方面について、以下の具体的な主張を提起するものである。
1、憲法改正、2、分権の抑制的均衡、3、立法による民主、4、司法の独立、5、公器の公用、6、人権の保障、7、公職の選挙、8、都市と農村の平等、9、結社の自由、10、集会の自由、11、言論の自由、12、宗教の自由、13、公民教育、14、財産の保護、15、財税改革、16、社会保障、17、環境保護、18、連邦共和、19、正義の転換
ところで、日本では、中国との友好関係を重視するという立場から、中国の民主化に対する支援が著しく弱い。天安門事件の報道は少なく抑制的で、弾圧された人々への支援も非常に弱い。
さらに以下のような意見まで登場している。三浦瑠麗氏は、これまでの日本の四つの選択肢の問題点を指摘し、「沖縄をアジアの首都にするために、日本は大胆に身を切り、当該地域の主権を返上するくらいの構想力が必要・・・、沖縄の当該地域の安全と治安はアジア多国籍軍と多国籍警察に委ねてもよいでしょう。」(「日本に絶望している人のための政治入門」、p.235)
このような意見に基づけば、中国の対外支配と共産党独裁体制が拡大し、日本を中心とする東アジアの自由と民主主義を後退させることは言うまでもない。
特に、ここで指摘したいのは、彼女が現在の中国の共産党独裁が不安定で、さらに歴史的には一時期の体制であることを理解していないことである。中国に共産党支配が確立したのは1949年で、まだ非常に短期間である。その期間中にも何度も解体の危機に見舞われている。中ソ対立、文化大革命、そして天安門事件などである。
そして重要なことは、第2次世界大戦以前の中国では、共産党は一部の農村部の政権であり、都市には市場経済と自由な競争を前提とする企業が発展し、日本企業との競争と協力を発展させていたことである。
詳しくは、英語論文ではあるが、私の戦間期中国を検討した以下の論文を参照していただきたい。
Hirohiko Shimpo, Japanese Companies in East Asia: History and Prospects.
Hirohiko Shimpo, Japanese Companies and Investment in China during the Second Half of the Inter-war Period Ver.2
このような過去の経験を踏まえ、中国が08憲章をひとつの土台としたような自由と民主主義の体制、自由な市場と企業活動を確立することを支援し、アジアの自由と民主主義、自由な市場と企業活動を発展させることが、今強く求められている。
(ブログのTOP、ブログの目次, 新保博彦のホームページ)
NHK名作選 みのがしなつかし 天安門事件 武力鎮圧(動画)
天安門事件とは、「1989年6月3日深夜から4日早暁にかけて天安門広場で発生した「血の日曜日事件」である。・・・同年4月中旬の胡耀邦(こようほう/フーヤオパン)・元中国共産党総書記の死を悼む形で起こった民主化運動は、“最後の皇帝”として君臨しつつあったトウ小平の「人治」に対して「法治」を求める学生や市民の大衆運動であった。・・・同年5月20日には北京市に戒厳令が布告され、ついには「六・四」の武力弾圧として人民解放軍が戦車などを出動させ、学生や市民に発砲するなどして多数の死者を出した。」(中嶋嶺雄)
中嶋氏の簡潔な説明は上記の通りであるが、事件の全貌は未だに明らかにされていない。中日歴史家が明らかにしなければならない、現代中国の闇のひとつである。
天安門事件に参加した劉暁波(リュウ・シャオボー、Liú Xiǎobō)が、2008年に今後の中国を構想して起草したのが、08憲章(Língbā Xiànzhāng)である。
左の「天安門事件から「08憲章」へ」はその全文も含め、劉暁波の基本的な文献となっている。
以下は、08憲章の概要である。(同書、209-227ページ)
一 前書
二、我々の基本理念
中国の未来の運命を決定するこの歴史の岐路に立ち、百年来の近代化の歩みを省みて、下記の基本理念を再び言明する必要がある。
自由、人権、平等、共和、民主、憲政
三、我々の基本的主張
これにより、我々は、責任を担う建設的な公民の精神に基づいて、国家の政治制度、公民の権利と社会発展の各方面について、以下の具体的な主張を提起するものである。
1、憲法改正、2、分権の抑制的均衡、3、立法による民主、4、司法の独立、5、公器の公用、6、人権の保障、7、公職の選挙、8、都市と農村の平等、9、結社の自由、10、集会の自由、11、言論の自由、12、宗教の自由、13、公民教育、14、財産の保護、15、財税改革、16、社会保障、17、環境保護、18、連邦共和、19、正義の転換
四、結語
署名規則
一 本憲章は公開署名とする。
二 本名または常用のペンネームで署名し、所在地と職業を明記されたい。
署名者:303名(第一次)
署名規則
一 本憲章は公開署名とする。
二 本名または常用のペンネームで署名し、所在地と職業を明記されたい。
署名者:303名(第一次)
ところで、日本では、中国との友好関係を重視するという立場から、中国の民主化に対する支援が著しく弱い。天安門事件の報道は少なく抑制的で、弾圧された人々への支援も非常に弱い。
さらに以下のような意見まで登場している。三浦瑠麗氏は、これまでの日本の四つの選択肢の問題点を指摘し、「沖縄をアジアの首都にするために、日本は大胆に身を切り、当該地域の主権を返上するくらいの構想力が必要・・・、沖縄の当該地域の安全と治安はアジア多国籍軍と多国籍警察に委ねてもよいでしょう。」(「日本に絶望している人のための政治入門」、p.235)
このような意見に基づけば、中国の対外支配と共産党独裁体制が拡大し、日本を中心とする東アジアの自由と民主主義を後退させることは言うまでもない。
特に、ここで指摘したいのは、彼女が現在の中国の共産党独裁が不安定で、さらに歴史的には一時期の体制であることを理解していないことである。中国に共産党支配が確立したのは1949年で、まだ非常に短期間である。その期間中にも何度も解体の危機に見舞われている。中ソ対立、文化大革命、そして天安門事件などである。
詳しくは、英語論文ではあるが、私の戦間期中国を検討した以下の論文を参照していただきたい。
Hirohiko Shimpo, Japanese Companies in East Asia: History and Prospects.
Hirohiko Shimpo, Japanese Companies and Investment in China during the Second Half of the Inter-war Period Ver.2
このような過去の経験を踏まえ、中国が08憲章をひとつの土台としたような自由と民主主義の体制、自由な市場と企業活動を確立することを支援し、アジアの自由と民主主義、自由な市場と企業活動を発展させることが、今強く求められている。
(ブログのTOP、ブログの目次, 新保博彦のホームページ)
2015年5月6日水曜日
鷹峯の庭園(しょうざんリゾート京都)、Japanese Garden in Takagamine
しょうざんリゾート京都に行ってきた。しょうざんリゾート京都と言っても、利用したのはそのごく一部、「京都洛北の鷹ケ峯三山を背景に広がる三万五千坪の美しい庭」である。
左はその入口。
なぜか、京都の最も有名な観光地の一つとはなっていないので、訪れる人もそれほど多くはなく、静かに散歩が楽しめる。
(ブログ内の写真はクリックすると、すべて拡大できます)
訪れたのは4月の末、庭園全体が、青紅葉を中心に緑で埋め尽くされていた。
「「しょうざん」の建設は、昭和26年にさかのぼる。 ここは、西陣に生まれ、戦後いちはやくウールお召しを開発して世に広めた創設者、故・松山政雄が思い描いた「花と緑の観光工場」。 京の山々を借景に、さらに手をほどこした三万五千坪の庭園。またそこに、戦後消失の運命にあった美しい日本の建造物を移築し、広く万人におとずれてもらい公開を始めたのが「しょうざん」の始まり」だと言う。
入ってまず目に入るのが、上の玉庵である。「京都紫野大徳寺10代管長・清涼室歡渓紹忻老師の命名の茶室で、昭和39年に当地へ移築」されたという。
続いて、左の峰玉亭である。
「全国から撰りすぐりの材料と大工・左官などの職人衆を集め、昭和37年から約3年を費やして完成させた「しょうざんJ の迎賓館」である。
これら以外にもすばらしい建物がいくつもある。
この庭園の最もすばらしいのは、自然の小さな川が流れていることである。川は庭園内をいくつも流れている。川の向こうには、小さな滝があり、水はそこから流れ落ちてくる。
ここにたたずんで川の流れに耳を傾けると、ほんとうに心が落ち着く。
ぜひもう一度来て、川の流れを数分間でも動画で撮っておきたいと思う。
紅葉の季節に来れば、庭園全体が真っ赤に染まってさぞかし美しいに違いない。
庭園の入口に事務所があり、そこで、庭園に通った運転手さんの撮った写真があるが、燃えるような庭園を写していてすばらしい。
最後に、ぜひ見てほしい作品である。
(ブログのTOP、ブログの目次, 新保博彦のホームページ)
左はその入口。
なぜか、京都の最も有名な観光地の一つとはなっていないので、訪れる人もそれほど多くはなく、静かに散歩が楽しめる。
(ブログ内の写真はクリックすると、すべて拡大できます)
「「しょうざん」の建設は、昭和26年にさかのぼる。 ここは、西陣に生まれ、戦後いちはやくウールお召しを開発して世に広めた創設者、故・松山政雄が思い描いた「花と緑の観光工場」。 京の山々を借景に、さらに手をほどこした三万五千坪の庭園。またそこに、戦後消失の運命にあった美しい日本の建造物を移築し、広く万人におとずれてもらい公開を始めたのが「しょうざん」の始まり」だと言う。
入ってまず目に入るのが、上の玉庵である。「京都紫野大徳寺10代管長・清涼室歡渓紹忻老師の命名の茶室で、昭和39年に当地へ移築」されたという。
続いて、左の峰玉亭である。
「全国から撰りすぐりの材料と大工・左官などの職人衆を集め、昭和37年から約3年を費やして完成させた「しょうざんJ の迎賓館」である。
これら以外にもすばらしい建物がいくつもある。
この庭園の最もすばらしいのは、自然の小さな川が流れていることである。川は庭園内をいくつも流れている。川の向こうには、小さな滝があり、水はそこから流れ落ちてくる。
ここにたたずんで川の流れに耳を傾けると、ほんとうに心が落ち着く。
ぜひもう一度来て、川の流れを数分間でも動画で撮っておきたいと思う。
紅葉の季節に来れば、庭園全体が真っ赤に染まってさぞかし美しいに違いない。
庭園の入口に事務所があり、そこで、庭園に通った運転手さんの撮った写真があるが、燃えるような庭園を写していてすばらしい。
最後に、ぜひ見てほしい作品である。
(ブログのTOP、ブログの目次, 新保博彦のホームページ)
2015年4月6日月曜日
ピケティの『21世紀の資本』と、森口千晶氏の論文、Prof. Thomas Piketty and Prof. Chiaki Moriguchi
ピケティの『21世紀の資本』が専門家以外の人も含む多くの人々によって読まれ、様々な議論を呼び起こしている。
ピケティの研究の最も大きな意義は、これまで使われてこなかった多くの国の税務統計にもとづいて、各国の格差の歴史的な変化を明らかにしたことである。その意味で、新たな研究分野を切り開いたといえるだろう。
また、研究成果をすべてWeb上に公開するという方法を採っていることも画期的で、ますます活発な議論が行われるだろう。
『21世紀の資本』トマ・ピケティ
The World Top Incomes Database
ところで、ピケティとともにこの研究を推進してきたカリフォルニア大学バークレー校のエマニュエル・サエズ教授と一橋大学の森口千晶教授は、同じ方法に基づいて日本についてその実情を明らかにした。下の図の通りである。日米「上位0.1%」の高額所得者による所得占有率が、1940年頃までは日米でともに高く、1980年代半ばまではともに低かったが、それ以降、アメリカは急上昇し、日本はそれほど大きな上昇は見せていないことが明らかにされた。
森口氏は、「以上のデータは、日本の高成長は戦前には「格差社会」、戦後には「平等社会」のなかで実現したことを明確に示す。・・・日本の経済システムは戦前と戦後で全く異なるものだったとする多くの先行研究と優れて整合的である。」と述べている。(表も含めて、日本経済新聞、2015/2/11)
これを言い換えると、戦前は市場中心型社会であり、戦後はメインバンク・システムと日本的経営と言うことになるだろう。以上の事実をも明らかにした、この研究の意義は非常に大きい。
戦前の市場中心型社会では、金融資本市場が著しく発達し、企業は市場から資金を調達し、個人は資金を市場で運用していた。市場を利用できた個人は、高額の金融所得を得ていた。
一方、戦後になると市場の役割が後退し、銀行が市場に代わってその役割を果たすメインバンク・システムが確立した。企業はメインバンクから資金を調達し、個人は銀行に預金した。上記の図は、このような経済システムの変化を反映している。
残念ながら、このような評価は、まだ我が国では、森口氏が言うように多くの研究が受け入れているとは思えない。戦後のメインバンク・システムが戦前の財閥に起源を持つかのような主張は今なお根強い。私は、戦前の日本の経済システムが市場中心型であると考えているが、同時に戦前の日本の企業は市場中心型コーポレート・ガバナンスであった。当時、市場中心型とは異なる財閥は有力ではあったが、支配的ではなかった。
森口氏は、「明治・大正期の経済発展のダイナミズムは、(1)資産家(商工業者・地主)による財閥系大企業への資本投下・・・」と述べているが、企業経営者をはじめとする多様な資産家による金融市場を通じた有力企業への投資と述べた方が適切である。
このように、森口氏の研究は、日本の格差について歴史的に明らかにしただけではなく、日本の経済システムの重要な変化について貴重な問題提起を行っている。
なお、戦後の変化については、改めて論じたい。
森口氏の研究については以下も参照していただきたい。
Chiaki Moriguchi and Emmanuel Saez, THE EVOLUTION OF INCOME CONCENTRATION IN JAPAN, 1886–2005: EVIDENCE FROM INCOME TAX STATISTICS.
(ブログのTOP、ブログの目次, 新保博彦のホームページ)
登録:
投稿 (Atom)











