2014年2月22日土曜日

アマデウス、Amadeus

「エッカート『日本帝国の申し子』、Carter J. Eckert, Offspring of Empire」を今年1月4日に書いて以来、この時期は大学教員にとって最も忙しい時期だったので、残念ながらこのブログに新たなページを書くことができなかった。それでも、忙しい時期の少しの空いた時間に、気分転換にブルーレイを見たり、音楽を聴くことは楽しみである。
やはりこの時期にもう一度見て聞きなおしたのは、アマデウスだった。アマデウスは、私の最も好きな映画で、おそらくこれまで最も繰り返し見た作品だろう。
アマデウスは、1984年の第57回アカデミー賞の作品賞と、F・マーレイ・エイブラハムの主演男優賞、ミロシュ・フォアマンの監督賞、ピーター・シェイファーの脚色賞、など多数の賞を獲得している。
この映画の最大の見所は、モーツァルトの並外れた天才ぶりと、モーツァルトの才能を目の当たりにした、モーツァルトが登場する前にウィーンで活躍していたサリエリの心の葛藤だろう。サリエリはモーツァルトの才能に嫉妬し、殺人さえもを試みる。
ストーリーはもちろん創作だが、あまりにもよくできているために、史実であるかのように錯覚する。

「アマデウス」では、モーツァルトの作品があらゆる場面で演奏されており、モーツァルトを理解できる最も重要な作品ともなっている。
そこで、モーツァルトの三大オペラから取られ、この映画で用いられている、私の最も好きな有名な曲を紹介してみたい。何かの機会にお聞きいただければ幸いです。ちなみに、以下で画像として紹介するCDは各オペラの代表的なハイライツCDである。

第27章、フィガロの結婚(1786)「フィナーレ:ま、お静かに、ちょっと待ってくれー誰か来ーい、武器を持って来い、FINALE: Pace, pace, mio dolce - Gente! all'armi! (Tutti)で、モーツァルトの作品の中でも最も美しいひとつとされる合唱が歌われる。「神がこの小男を通じて、天上から世界に歌いかけていた」とサリエリはつぶやく。

第30章、ドン・ジョバンニ(1787)、「ドン・ジョヴァンニ、晩餐に招かれたので参った、“Don Giovanni, a cenar teco m'invitasti,  (騎士長、ジョヴァンニ、レボレロ、合唱)。
サリエリは「舞台に現れる死んだ騎士長の姿、・・・あの恐ろしい亡霊は墓から甦った父レオポルド」だとし、「恐ろしくもすばらしい作品だった」と言う。この曲で、サリエリは殺人を具体的に考えたことになっている。
そして最後に、第39章、魔笛(1791)、「恋人か女房があればいいが(パパゲーノ)、Ein Mädchen oder Weibchen (Papageno)
この曲が演奏されている途中に、「アマデウス」でのモーツァルトは倒れる。エマヌエル・シカネーダーのすすめで、「魔笛」にはこの曲を含め一般の聴衆が楽しめる趣向が凝らされている。その意味で、この3つのオペラで、最も多彩な曲で構成されていて楽しい。

また、これからも何度も聞き続けていくのだろう。

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2014年1月4日土曜日

エッカート『日本帝国の申し子』、Carter J. Eckert, Offspring of Empire

追記 (2021.3.24)
この書評をさらに詳しくした書評は以下の通りです。ぜひご参照ください。
書評 エッカート『日本帝国の申し子 (Book Review: Carter J. Eckert, Offspring of Empireここをクリックしていただくと論文が読めます

追記 (2019.3.11)
『日本帝国の申し子』に掲載された、朝鮮人企業家の貴重な写真を最下段に掲載しました。

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2014年の最初に取り上げるのは、以下の著作である。近年、日韓が歴史問題できわめて厳しく対立しているが、その解決のためには、安易な政治的な妥協ではなく、事実に基づいて当時の歴史を具体的に明らかにすること以外に、よりよい方法は無いと思う。

戦間期の朝鮮の経済と日朝間の経済関係を理解しようとする場合、まず読むべき文献は、Carter J. EckertのOffspring of Empire: the Koch'ang Kims and the Colonial Origins of Korean Capitalism, 1876-1945, University of Washington Press, 1991 (小谷まさ代訳『日本帝国の申し子:高敞の金一族と韓国資本主義の植民地起源 1876-1945』、草思社、2004年)である。

まず、簡単にエッカートの主張の重要な点を簡単に紹介しておきたい。
彼が主に取り上げたのは、植民地期朝鮮の最も重要な企業のひとつである京城紡織である。京城紡織は、1919年に設立され、終戦直前まで朝鮮人が経営する企業で最大の企業であり続けた。この企業を率いたのは、タイトルにあるように、高敞の金一族である。京城紡績については、詳しい社史があり、そこに財務諸表も掲載されているので、発表する予定の私の論文で詳しく検討する予定である。

韓国の萌芽派の趙璣濬は、「京紡は、朝鮮の資本(民族資本)と朝鮮の工業技術のみに基づいて経営された。 」と述べたが、エッカートは次のように反論している。「京紡という企業は植民地の権力構造から孤立し、日本の資本主義と対立していたのではない。それどころか両者との緊密な関係のなかで成長を遂げ、一九四五年には、日本から朝鮮、アジア大陸にまで広がる帝国主義経済ブロックの重要な一部となっていたのである。」(日本語訳, p.96-97)
その資金、原材料、人的な緊密な関係については、本書各章で詳しく検討されているので参照していただきたい。

そして、エッカートは、以下のように述べている。「金一族の例は氷山の一角であり、一九四五年以前に出現した数多くの資本家のなかでも、とくに目立つ存在であるというにすぎない。・・・・・。金一族ほどの地位は獲得していなくても、のちに韓国で大きな成功を収めた実業家は枚挙にいとまがない。・・・・・。筆者の主導でおこなった最近の調査では、韓国財閥の上位五〇グループの創始者のうち、じつに六〇パーセント近くが、植民地時代に何らかのビジネス体験をしていたという結果が出ている。」(日本語訳, p.327)

ところで、京城紡織は、1930年代の後半から積極的に満州、中国への進出を試みていた。1939年には、南満紡績が京城紡績の子会社として設立された。その公称資本金は、京城紡績を上回っていた。その特徴については、「朝鮮で日本資本が新会社を設立する場合には、株主や役員に朝鮮人が含まれていることが多かった。しかし満洲での金一族はそのような巧妙な手口を用いる必要がなかった。彼らは南満紡績の設立にあたって中国資本を求めたりはせず、京紡が株の大半を保有し、役員は全員が朝鮮人だったのである。」とエッカートは言う。(日本語訳, p.233)
彼が指摘している日本資本の特徴は非常に重要なので、私の論文で詳しく紹介したい。

そして結論では、「植民地時代におこなわれた工業化の遺産は、朝鮮の資本家階級を生み育てたことにとどまらない。植民地化は戦後の経済発展に必要な社会基盤を残したのみならず、この時代の資本主義発展は(少なくとも急速な工業化を促進したという意味での)成功モデルとして、のちの経済発展に影響を与えることになったのである。」(日本語訳, p.329)と述べられている。

エッカートの研究は、京城紡織をはじめとする広範囲で膨大な資料を基に、多岐にわたって検討されている画期的な研究である。なお、日本語翻訳は、p.342-438を、原注の翻訳、参考文献の紹介に当てていて、研究書としても非常に役に立つ内容となっている。戦間期の日朝関係に関心を持つ多くの人々に、まず読んでいただきたい文献である。
私も、戦間期の朝鮮で活動していた日本企業と朝鮮人系企業、そしてその相互関係を、『大陸企業便覧』などを用いて、エッカートとは少し異なった視点で検討したいと思っている。
また、韓国でようやくエッカートの完全な翻訳が出たが、その翻訳者である朱益鍾氏の『大軍の斥候 : 韓国経済発展の起源』、金承美訳、日本経済評論社, 2011年についても、近く検討してみたい。






















左上の写真
写真内の右上:東京留学中の金性洙(左)と金秊洙、左上:1921年の金性洙、左下:1921年の金秊洙(エッカート著の冒頭写真集2ページ目)
右上の写真
写真内の上:1930年代の永登浦にあった京城紡織株式会社の航空写真、下:1930年代の京紡の役員、後列(左から):金在洙、李康賢、崔斗善、尹柱福、前列(左から)閔ピョンス、玄俊鎬、金秊洙、朴興植(エッカート著の冒頭写真集5ページ目)

ここに掲載された戦間期朝鮮の優れた企業家達の朝鮮経済発展への貢献が、一日も早く具体的な事実に基づいて正しく再評価されることを期待したい。

関連する主要なブログ李榮薫他『反日種族主義』と朱益鍾『大軍の斥候』(1)李榮薫他『反日種族主義』と朱益鍾『大軍の斥候』(2)、・書評:李栄薫編著『反日種族主義』その1 落星垈経済研究所の経済学者などによる批判、・書評:李栄薫編著『反日種族主義』その1(2)

関連する論文:・『論文・書評集:戦間期朝鮮経済史と反日種族主義批判』【論文集・書評 李大根『帰属財産研究 韓国に埋もれた「日本資産」の真実』【論文

2013年11月23日土曜日

新しい論文:戦間期後半の対中投資、Japanese Companies and Investment in China during the Second Half of the Inter-war Period

Japanese Companies in East Asia: History and Prospectsを刊行して以来初めての論文をまとめた。Japanese Companies and Investment in China during the Second Half of the Inter-war Periodである。できるだけ海外の研究者にも読んでもらいたいと、最近は英語での刊行に力を入れているが、これもそのひとつである。
この論文を、私のHPの日本語版英語版で、参照していただけましたら幸いです。

ここでは、一般の人々向けに簡単に結論を説明したい。以下の結論の一部は、上記著作を含む、すでに刊行した私の著作のなかで検討されたものもある。

永安紡織印染公司
の資料
申新紗廠の資料
1 第1次世界大戦と第2次世界大戦の間となる戦間期には、中国では、上海などの都市を中心に市場経済が急速に成長してきた。
申新紗廠永安紡織印染公司などの優れた企業が、イギリス企業や日本企業と競争しながら、活発に活動していた。上海では、それらの企業も上場する証券市場である上海華商証券交易所が発達していた。

2 日本は1920年代以降、朝鮮、台湾、満州、中国に活発に投資してきた。日本の海外投資は以下のような特徴をもっている。
1) インフラストラクチャを中心にした、2) 新興財閥や独立企業群によって担われた、3) 主に国内の金融市場に基盤を置いていた、4) 独立性が高い企業群であった、5) 現地企業との活発な競争があった。

対中投資では、現代の直接投資と酷似している在華紡が早くから投資してきた。戦間期後半になると、国策会社である北支那開発や中支那振興による投資が中心になった。国策会社と言ってもその株式の半数は広範囲な株主が所有していた。これらの直接投資は、受け入れ国や地域の経済発展に大きく貢献してきた。

3 1937年の上海事変以来、日本と中国は全面的な戦争に突入した。しかし、そのような条件のもとでも、中国における市場経済の発展と日本の活発な対中投資は、中国と日本の間に、Collaboration (協調と協力)とAlliance (同盟と提携)の関係も生み出した。そのひとつの象徴的な組織が、全国商業統制総会である。最近になって、アメリカや日本において、Collaborationの研究が進みつつある。

4 戦間期の中国と日本の経済的な相互依存関係を理解することは、今後の日中関係がどのような方向に発展していくかについて、様々な示唆を与えていると思う。

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2013年11月21日木曜日

奈良公園の紅葉 2011.12.1-3, Colored Autumn Leaves in Nara Park

11月下旬から12月上旬頃には、奈良公園の紅葉がとても美しい。ただし、この季節には、人出も多くなるし、今年のように、晴れたと思ったらその後すぐに激しい雨など、天候が不順だとなかなか美しい写真が撮りにくい。
今年は、忙しさも相まって、今のところ一連の美しい写真が撮れていないので、とりあえず2011年12月4日のブログを改訂し、追加の写真を掲載することにした。
2013年11月21日現在、以下のようには紅葉・黄葉はまだ進んでいないようである。

東大寺ミュージアムから東へ、奈良公園の中心である奈良公園シルクロード交流館に向かって進むと、右手(南側)には真っ赤に染まった木々を見ながら歩くことになる。
(掲載している写真はクリックすると、すべて拡大されます)


そのちょうど反対側(北側)の森は、銀杏の葉とその落ち葉で、森全体が全く対照的に黄色に染まっている。






銀杏の葉に埋もれた地面を、春日大社の神の使いとされる鹿が無心に食んでいる。銀杏の葉と鹿のコントラストが何とも美しい。
向こうに見える建物は、奈良公園シルクロード交流館である。

ところで、近鉄奈良駅から東大寺に向かう途中で、紅葉が美しいので有名なのが、まず依水園である。若草山や東大寺が遠くに見える。
中には、「中国の古鏡・古印・碑帖、韓国の高麗・朝鮮時代の陶磁器、日本の江戸時代の茶陶磁類などを収蔵する」寧楽美術館がある




最後に依水園の隣にある、吉城園(よしきえん)である。意外に知られていないが、とても美しい茶室と庭がある。ここも紅葉が見事である。
「吉城園は、「興福寺古絵図」によると同寺の子院であります摩尼珠院(まにしゅいん)があったところとされています。明治に奈良晒で財を成した実業家の邸宅となり、大正8年(1919年)に現在の建物と庭園が作られました。」


最近、奈良がますます美しく賑やかになっている。JR奈良駅周辺も再開発が進んでいる。
旅館やレストランのメニューの偽装で、奈良のイメージがかなり傷ついたが、もっともっと多くの観光客が訪れてほしいと思う。

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2013年10月17日木曜日

日本の工芸:七宝、並河靖之、Shippo, Yasuyuki Namikawa

新保博彦の(YouTube)チャンネルを開設しました。「並河靖之の七宝と並河靖之七宝記念館の庭園」を掲載しています。(2023.5.7)
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スコット南極探検隊の映像記録を残し、
世界を旅し日本をことのほか愛し、この世の楽園と讃えた、ハーバート・G・ポンティングの『英国人写真家の見た明治日本』 は次のように述べている。

七宝焼の技術は、歴史が新しいわけではないが、その技術をこの国でも他のどこの国でも達し得なかった最高の水準にまで高めたのは、京都で現在活躍している何人かの代表的工芸家の力である。」(講談社学術文庫, p.94) という言葉で、並河靖之氏などを紹介している。


その並河靖之の作品を紹介しているのが、七宝:色と細密の世界 (INAX BOOKLET)である。この書には、並河靖之の作品を始め、多数の七宝が、大きな写真で紹介され、そのすばらしさがよくわかる。
並河靖之は、1845年、武蔵国川越藩の家臣・高岡九郎左衛門の三男として京都柳馬場御池に生まれた。1875年、京都博覧会に初めて出品し有功銅賞を得たのを皮切りに、ほぼ毎年行われる内外の博覧会に旺盛に出品し、多くの賞を得てている。帝室技芸員となった1896年前後の最盛期には、40-50人の職人をかかえていたという。(上記書、畑智子、p.16)



いくつかの代表的な作品を紹介しておこう。右は、「蝶桜文平皿」(上記書、p.17)、並河靖之の作品としては珍しい大皿であるという。

中央で乱舞する色彩豊かな一群の蝶、大皿の周辺を取り巻く満開の花々、そして皿全体を彩る深い緑の背景、それらが一体となっている。上記書に掲載されている写真は、さらに鮮明で美しい。
また、清水三年坂美術館に所蔵されているので、ぜひ現物をご覧いただきたい。




そして、並河靖之の作品を最もよく特徴づける花瓶のひとつが左の「蝶文瓢形花瓶」(上記書、p.30)である。同形の花瓶が1893年のシカゴ万国博覧会に出品され、銅牌を受賞した。
これもまた、『七宝:色と細密の世界』を見ると、その黒の輝きが一段とよく理解できる。また、描かれている蝶の多彩な色使いも見事で、黒の背景とのコントラストがとてもすばらしい。

ところで、上記書の残念なところは、並河作品のひとつの到達点となる「四季花鳥図花瓶」の詳細な写真が無いことである。それは、1900年のパリ万国博覧会のために制作されたもので、やはり黒地に桜と青紅葉が咲き誇っている。

これが宮内庁三の丸尚蔵館に所蔵されているからだろうか。宮内庁は、やや大きな画像で、黒地四季花鳥図花瓶」として紹介している。Googleの画像検索でも、すばらしい画像を紹介しているサイトは少ない。ぜひ、多くの人々が見ることができる展覧会を開催してほしいと思う。

並河靖之をはじめとする工芸家によって制作された七宝は、近代日本の重要な輸出品であった。その技術の高さは、当時の日本のものづくりの水準の高さを余すところなく示している。工芸作品に表された日本の技術は、しだいにより幅広い製造業に拡がり生かされていくことになる。これらの作品は、実は日本の近代化を考える上でも重要な作品群だと思われる。





(11月5日追記)
本日の日本経済新聞夕刊によれば、11月9日から翌年1月13日まで、京都国立近代美術館で、「皇室の名品」と題された展覧会が開かれ、「黒地四季花鳥図花瓶」(「七宝四季花鳥図花瓶」)が見られることになったことがわかった。

右の画像は、上記ウェブサイトに掲載されたものである。やや不鮮明な箇所はあるが、すばらしさの一端は見ることができる。

(2014年6月5日の追記)
三井記念美術館「超絶技巧 明治工芸の粋」で並河靖之の作品が見られる。

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2013年9月1日日曜日

イザベラ・バード『朝鮮紀行』を読む (2)、Isabella Bird Bishop, Korea And Her Neighbours

Isabella Lucy Bird from Wikipedia
イザベラ・バード『朝鮮紀行』のより詳しい書評を作成しました。
(私のHPにも掲載中、2021.04.05)

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前回(1)では、イザベラ・バードの朝鮮に対する最も基本的な認識について紹介した。今回(2)では、経済と妓生に関する記述について紹介したい。

朝鮮の政治の混乱は経済にも影響を及ぼしていた。「朝鮮馬一頭で10ポンドに相当する現金しか運べないほど貨幣の価値が低下していること、清西部ですら銀行施設があって商取り引きが簡便になっているのに、ここにはその施設がまったくないこと、概して相手を信用しない」という状況だった。(394, 太字は新保による、以下同じ)
日本の朝鮮への進出は、当然経済的な進出を伴っていた。「しかしながら日本の影響により、上質の円銀が徐々に朝鮮国内に入ってきており、前回のわたしの旅行のように大量の穴あき銭を運ばなくとも、あるいはそれが足りなくなって右往左往しなくとも、朝鮮の新貨幣はひとつも目にしたことはなかったが、日本の銀貨だけはどこの宿屋でも受け取ってくれた。」(394)

また、ソウルとともに重要な都市である平壌についてこう書いている。「平壌はきわめてゆたかできわめて不道徳な都市だった。宣教師が追い出されたことは一度ではきかず、キリスト教はかなりな敵意をもって排斥されている。つよい反対傾向がはびこり、市街に高級売春婦の妓生(gesang)や呪術師があふれ、富と醜行の都という悪名が高かった (the city was thronged with gesang, courtesans, and sorcerers and was notorious for its wealth and infamy)。」(444)
平壌はむかしから妓生の美しさと優秀さで有名である。妓生とは歌舞のできる女のことで、いろいろな点で日本の芸者に似ているが、正確にいえばその大半は政府の所属で国庫から俸給をもらっている。
 何人もの息子に恵まれても貧しくて養いきれない場合、親はそのうちひとりを政府に宦官として捧げることがあるが、娘の場合は妓生として献上するわけである。
 最も美しくて魅力的な妓生は平壌の出身であるとはいえ、妓生は全国のどこにでもいる。国王から下級官吏にいたるまで、散財する余裕のある者にとっては、妓生は宴会の客を楽しませるのに不可欠な存在と見なされている。」(449-51)

韓国からいわゆる従軍慰安婦問題が、繰り返し取り上げられている。その問題が、韓国の歴史の中でどのように位置づけられるのかについての歴史的な研究が、日韓両国でさらに深まることを期待したい。

ともあれ、イザベラ・バードは、冒頭にも紹介したように、4度も朝鮮を訪れ、朝鮮に特別に期待を持ってこの紀行を書いている。日本と朝鮮の歴史をともに理解する上で、必読書のひとつである。『イザベラ・バードの日本紀行』(、Kindle版がある)とあわせ読むと、さらに両国を良く理解できる。日本語訳で583ページもあるが、図も表紙のようにたくさんあってとても興味深く読める。

関連する私のブログ:エッカート『日本帝国の申し子』、Carter J. Eckert, Offspring of Empire

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イザベラ・バード『朝鮮紀行』を読む (1)、Isabella Bird Bishop, Korea And Her Neighbours


イザベラ・バード『朝鮮紀行』のより詳しい書評を作成しました。
(私のHPにも掲載中、2021.04.05)

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最近、韓国からの歴史認識についての主張が活発に行われている。それに対して、日本は受け身では無く、事実を持って応えることが必要である。日本からの投資については、私は何度も論じているので、ここではひとつの重要な文献を紹介したい。

近代朝鮮と日本との関係を理解するために、非常に貴重な文献が、イザベラ・バード『朝鮮紀行~英国婦人の見た李朝末期』である。バードのもうひとつの作品である、『イザベラ・バードの日本紀行』には、Kindle版があるが、前者には無い。そこで、その原書Korea and Her Neighboursとあわせて読むことをおすすめしたい。Kindle版があれば、ひとつの用語が、図書全体でどのように使われているかがよく理解できるからだ。

バードは、1894年1月から97年3月にかけて、4度にわたる朝鮮旅行を行った。その記述は実に細やかで、以下に見るように朝鮮には厳しいが、実は愛情にあふれている。

バードの朝鮮に対する基本的な認識は以下の通りである。「このように堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に日本は着手したのであるが、これは困難きわまりなかった。名誉と高潔の伝統は、あったとしてももう何世紀も前に忘れられている。公正な官吏の規範は存在しない。日本が改革に着手したとき、朝鮮には階層が二つしかなかった。盗む側と盗まれる側である。そして盗む側には官界をなす膨大な数の人間が含まれる。「搾取」と着服は上層部から下級官吏にいたるまで全体を通じての習わしであり、どの職位も売買の対象となっていた。」(344、太字は新保による、以下同じ)

このような状況で、日本が採った対応についてこう述べている。「わたしは日本が徹頭徹尾誠意をもって奮闘したと信じる。経験が未熟で、往々にして荒っぽく、臨機応変の才に欠けたため買わなくともいい反感を買ってしまったとはいえ、日本には朝鮮を隷属させる意図はさらさらなく、朝鮮の保護者としての、自立の保証人としての役割を果たそうとしたのだと信じる。」(564-5)

そして、日本の朝鮮進出について、外国はどう考えていたか。「王妃暗殺からほぼ一か月後、王妃脱出の希望もついえたころ、新内閣による政治では諸般の状況があまりに深刻なため、各国公使たちは井上伯に、訓練隊を武装解除し、朝鮮独自の軍隊に国王の信頼を得るに足るだけのカがつくまで日本軍が王宮を占拠するよう勧めて、事態を収拾しようと試みた。日本政府がいかに列強外交代表者から非難を受けていなかったかが、この提案からわかろうというものである。」(364)

このような状況のなかで、首都のソウルは次の通りだったという。「とはいえ、ソウルには芸術品はまったくなく、古代の遺物はわずかしかないし、公園もなければ、コドゥンというまれな例外をのぞいて、見るべき催し物も劇場もない。他の都会ならある魅力がソウルにはことごとく欠けている。古い都ではあるものの、旧跡も図書館も文献もなく、宗教にはおよそ無関心だったため寺院もないし、いまだに迷信が影響力をふるっているため墓地もない!」(85)

バードの視線は、さまざまな面に及んでいる。(2)では、経済と妓生についての記述を紹介したい。

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