2014年11月20日木曜日

奈良・大和文華館で酒井抱一展、Houitsu Sakai in Nara

(「洗練の極致 光琳と琳派」、p.26-27)
奈良の大和文華館で、特別展「酒井抱一展」が開催された。奈良で酒井抱一が、特に左の「夏秋草図屏風」が見られるなんて想像もしていなかったので、さっそく行ったが、ブログへの記載が遅れてしまった。

「酒井抱一(宝暦11年~文政11年/1761~1828)は姫路藩主酒井雅楽頭家に生まれ、若い頃から大名家の子息として教養を積む一方で、吉原の妓楼主、遊女、狂歌師、戯作者などとも親しい交流があり、様々な教養を身に付けてい」た。(特別展 酒井抱一 江戸情緒の精華 Website)

「11代将軍徳川家斉の父、治済(はるさだ)の依頼で、光琳作の「風神雷神図屏風」の裏に描いた作品。雷雨に打たれた夏草は雷神の、野分に吹かれる秋草は風神の、ちょうど裏に配されている。右隻には薄(すすき)の陰にそっとたたずむ白百合や仙翁花(せんのうげ)といった光琳の命日月の花が、左隻には追慕の情を意味する藤袴(ふじぱかま)が描かれている。銀地が亡くなった人を悼むノスタルジーの色であるところから、これらを描くことで光琳を追想しようとしたともいわれている。」(「小学館ウィークリーブック 洗練の極致 光琳と琳派」、p.27)

上記の画像ではよくわからないが、画面の多くの部分を占める銀地の屏風は酒井抱一の独自の美意識の表れであり、先行者である尾形光琳の「風神雷神図屏風」や「紅白梅図屏風」が金地を使ったのと対抗したのだろうか。また、右上に流れている夕立の後のにわたずみ(潦、雨が降って、地上にたまり流れる水)や、草花の緑青、朱などの非常に濃い色が多用されている。

ところで、酒井抱一の業績を継いだのが、鈴木其一である。下は、鈴木其一の代表作「夏秋山水図屏風」である。抱一とは異なって、其一は中央に向かって左右から激しく流れ込む水を、金泥と群青で鮮やかに描いている。動きそのものの力強さと現実感は、これまでの琳派とはやや異なる。

(「洗練の極致 光琳と琳派」、p.30-31)









来年は琳派400年記念祭が予定されており、「琳派は日本が創造した、世界に誇る最上の美である」として様々な企画が準備されている。酒井抱一の作品にもう一度関西で会えるかもしれないし、鈴木其一の作品にも出会えるかもしれない。とても楽しみである。

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2014年11月15日土曜日

世界経済評論11/12月号に、「台湾の企業戦略」の書評を掲載

世界経済評論』の11/12月号に、朝元照雄氏の最新著作「台湾の企業戦略」の書評を書きました。以下の通りですが、ぜひ『世界経済評論』もご参照ください。

私達の周辺には、台湾ブランドのタブレット、PC、スマートフォンなどのIT製品があふれている。OEM製品や部品を入れるとその数はいっそう多くなる。しかし、それらの製品を設計・製造している台湾IT企業については、それほどよく知られていない。台湾IT企業を紹介し、その成長の要因を探ろうとしたのが、朝元照雄氏の『台湾の企業戦略』(勁草書房、2014年)である。朝元氏は、これまで『現代台湾経済分析』(1996 年)、『開発経済学と台湾の経験』(2004年)、『台湾の経済発展』(2011年)と、台湾経済全体の分析する力作を次々と発表してきた。本書は、台湾経済を支えているIT企業にはじめて焦点を合わせた注目すべき作品である。

 章別構成は、以下の通りである。第1章:台湾積体電路製造 (TSMC) の企業戦略、第2章:聯発科技 (メディアテック) の企業戦略、第3章:鴻海 (ホンハイ) の企業戦略、第4章:群創光電 (イノラックス) の企業戦略、第5章:華碩電脳 (エイスーステック) の企業戦略。

 5つの章で取り上げられる企業は、台湾と世界を代表するIT企業ばかりである。各章では、各企業の歴史的な発展過程を跡づけ、生産している様々な製品の技術的な特徴を技術者の目で検討し、各企業の組織構造と戦略、発展の要因を、様々なアプローチを駆使して詳しく明らかにしている。また、コラムや本文で、これらの企業を興し牽引してきた有名な企業家達の魅力に迫っている。各章の検討に当たって膨大な台湾研究者の研究が紹介されているのも、とても参考になる。
 第1章では、TSMCがファウンドリー(自社ブランドを持たず,他社から半導体の製造委託を受けるビジネス)として成長してきたことだけではなく、技術および人材の確保、半導体製造設備企業との密接な協力、顧客との密接な協力、製造工程の歩留り率の向上などが成功の要因だと指摘した。
  第2章では、ファブレス企業(製造部門を持たないで,半導体の設計のみを専門に行う企業)である、メディアテックの成長要因を、ジェフリー・ムーアの「キャズム理論」やクレイトン・クリステンセンの「破壊的イノベーション」理論を援用して解明した。
 第3章のホンハイは、日本でもよく知られている世界最大のEMS(電子機器受託製造サービス)企業である。郭台銘氏の4つの段階分析に基づき、現在は単なるOEMではなく、JDVM (Joint Development Manufacture, 共同開発製造)やJDSM (Joint Design Service Manufacture, 共同デザイン・サービス製造)の戦略を採用するようになったと言う。

  以上の3企業に代表される、台湾IT企業は次々と時代に先駆けたビジネス・モデルを確立したことで世界的な地位を確保した。
 第4章は、台湾IT産業の歴史上最大の合併によって誕生し,格下企業が格上企業を買収したので業界に衝撃を与えた、イノラックスを取り上げた。液晶パネル部門は、台湾IT産業でも経営的に最も苦しい部門であるが、このような大胆な戦略で活路を見出そうとしている。
 第5章では、エイスーステックのネットブックにおける、ウィッホリッチによるSWOT分析の競争戦略に注目し、製品とサービスの差別化、戦略同盟、競争力優勢の強化、低価格戦略の持続、コストのコントロールという5つの戦略を明らかにした。

  ところで、一時注目を集めた、ホンハイとシャープの間で進められた、台湾企業と日本企業の連携については、両国企業の置かれた現状からすれば、再び脚光を浴びるだろう。台湾企業はより先進的な技術を日本企業に求めるだろうし、日本企業は世界特に中国への進出のために台湾企業の協力を求めるだろう。ぜひとも多くの方が『台湾の企業戦略』を読まれ、台湾IT企業の魅力に迫り、ますます対等で相互補完的になる日台企業間の提携、さらには日台間の経済的な相互関係がいっそう深まることを期待したい。

私のブログの関連ページ:特別シンポジウム「日本の物作り技術のゆくえ-鴻海(ホンハイ)=シャープ連携の意味するもの」

朝元輝雄氏のOfficial Website
勁草書房の当該書籍のページ (右上の画像は同ページから)

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2014年10月19日日曜日

Collaboration between Japanese and Korean Companies in the Inter-war Period、戦間期の日朝企業間のCollaboration

Collaboration between Japanese and Korean Companies in the Inter-war Period(戦間期の日朝企業間のCollaboration)を作成した。本ブログへの掲載が遅れてしまったが、以前の新しい論文:Japanese Companies and Investment in China during the Second Half of the Inter-war Period(戦間期後半の対中投資)とともにぜひともご参照いただきたい。
2つの論文は、私のHPからダウンロードできる、日本語版英語版

いわゆる従軍慰安婦について、朝日新聞の報道がでたらめな情報に依拠していたことが、ようやく明らかになった。これを契機に、朝鮮史全体の再検討も始まることになるだろう。従軍慰安婦報道の訂正は、朝鮮史研究の一つの出発点に過ぎない。

私の上記の論文は、日本の朝鮮統治期における日本の海外投資、日本企業の活動と、日本企業と朝鮮企業とのCollaborationを明らかにした。
目次は以下の通りである。
1 戦間期朝鮮の代表的な企業、
2 朝鮮人系企業の発展と朝鮮人企業家の活躍、
3 京城紡織、

朝鮮で活躍した日本企業は、他の地域の日本企業と同様に、1) 株式は広く分散して所有され、主に市場から資金を調達する、2) 企業は株主に活動の成果を還元する、3) 企業の情報は積極的に公開する、市場中心型コーポレート・ガバナンスを持つ企業であった。
朝鮮窒素肥料 興南工場、Wikipedia
最も代表的な企業は、日本窒素肥料とその子会社朝鮮窒素肥料である。日本窒素肥料は1908年に野口遵によって設立された。同社は、1923年に世界で初めてカザレー式合成アンモニアの製造を開始した。1927年には朝鮮窒素肥料が設立され、世界最大規模の化学コンビナート興南工場が設立された。
建設中の水豊ダム、Wikipedia


その傘下にある朝鮮鴨緑江水力発電と満州鴨緑江水力発電は、1937年に鴨緑江下流の平安北道新義州府の日満国境で、水豊(スプン、Supung)発電所の建設に着手し、1944年3月に竣工した。水豊発電所は出力10万kWの発電機を七つ持つ世界最大級の発電所であった。朝鮮に進出した日本企業は、朝鮮経済の発展と近代化に大きく貢献した。

多くの朝鮮人が日本企業の経営に参加していた。金秊洙、朴興植、韓相龍、閔奎植、閔大植、方義錫、玄俊鎬などの朝鮮人企業家が有名である。朝鮮人は株主としても重要な役割を担っていた。当然のことながら、朝鮮人が経営に参加する企業も、市場中心型コーポレート・ガバナンスを持っていた。朝鮮人経営者が中心の、朝鮮を代表する企業である京城紡織も同様であった。

本論文で取り上げた代表的な朝鮮人系企業には、一部の韓国人研究者が主張するような、民族資本買弁資本は存在しなかった。朝鮮人が活躍の場を広げ、その結果経済発展をめざそうとすれば、日本企業とのCollaborationAllianceを進めようとするのは当然の結果であった。戦間期の朝鮮人系企業の歩みは、後進国企業がめざす、最も一般的な歩みのひとつであった。

朝鮮人企業家の活動に注目したエッカートの優れた研究は、今でも朝鮮研究の出発点あるいは土台となっている。ただし、エッカートやエッカートを翻訳した朱益鍾は、両社に共通する市場中心型コーポレート・ガバナンスについては、残念ながら十分に検討していない。同時に、エッカートや朱益鍾が朝鮮殖産銀行を含む銀行の役割を過大に評価し過ぎている。さらに朱益鍾は、京城紡織の財務情報を検討しているが、それを日本企業と比較していないため、その最も重要な共通点についての評価が不十分であるように思われる。

戦間期朝鮮人企業の本格的な研究はますます広がりを見せるだろう。その結果、日本の投資、日本企業の活動の朝鮮経済の発展への貢献、日本企業と朝鮮とのCollaborationやAllianceが具体的に明らかになるだろう。

関連する私のブログ
エッカート『日本帝国の申し子』、Carter J. Eckert, Offspring of Empire
イザベラ・バード『朝鮮紀行』を読む (1)、Isabella Bird Bishop, Korea And Her Neighbours
イザベラ・バード『朝鮮紀行』を読む (2)、Isabella Bird Bishop, Korea And Her Neighbours

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2014年9月7日日曜日

日本を代表する企業家、鮎川義介、Aikawa Yoshisuke

(写真は、山口県山口ブランドストーリーから)

日本を代表する企業家の一人は、左の写真の鮎川義介(あいかわよしすけ)である。

国立国会図書館には、鮎川義介関係文書(MF)(寄託)があるが、そこでの彼の紹介を要約すると次の通りである。
1880.11.6 山口生まれ。
1903.7 東京帝国大学工科大学機械科卒、
1910.6 戸畑鋳物株式会社創立、専務取締役、
1928.12 久原鉱業を改組して日本産業株式会社創始、その傘下に日産自動車、日本工業、日立製作所、日産化学等145社を置く日産コンツェルンを形成。
1937.11 日本産業株式会社満洲国に移駐。1937.12〜42.12満洲重工業株式会社総裁、
1945.12 準A級戦犯の容疑を受け巣鴨プリズンに拘置、1947.8釈放。1947.9公職追放、
1967.2.13 死去。

鮎川義介の最もユニークな構想は、「公衆持株会社」であった。それは、日本産業から満洲重工業までの経営に一貫して適用していた。公衆持株会社は、「旧資本主義を「デモクラタイズ」して公衆を基調とする大資本団を構成」しようとするものであった。これらの企業の株式は分散し、多くの株主によって支えられた。会社にとって必要な資金は、株式や社債などの発行を通じて市場から調達された。このような企業の形態は、当時の日本企業や日本の海外進出企業では一般的であった。これは、戦後に一般的になった日本的経営やメインバンク・システムとは大きく異なる。専門的な用語では、このような企業はBerle and Means type companyと呼ばれる。なお、この特徴は、満洲重工業を初めとする新興財閥に共通していた。(詳しくは、私の著書を参照してください)

満洲重工業は、南満洲鉄道とともに満洲(現在の中国東北部)を代表する企業となった。
満洲重工業の設立に当たって、満洲開発のためには、外資特にアメリカ資本の導入が不可欠と考えられていた。1937年10月に閣議決定された「満洲重工業確立要綱」には、外資導入について明確に述べられている。「五、前記諸事業の開発経営に付ては外国資本の参加を認め外国の技術設備と共に努めて外資の導入を図るものとす、右は本案の要件として特に重きを置くものとす」。市場を基礎として活動する満洲重工業は、当然資本の国籍を問わずに、必要な資本を調達しようとした。

満洲開発に外国資本の導入が不可欠であるとの彼の考えは、一貫していて、後の1941年の「日米戦争回避策」にも盛り込まれていた。要約は以下の通りである。(全文はここをクリックしてください、国会図書館によるコピーをそのまま利用しています)
1 米国は、満洲国と蒙疆での日本の至上指導権を承認する。
2 中国を門戸開放させ、従来の外国租界は全廃する。
3 中国の鉄道を一元的経営管理下に置き、この支配権を日本の手中に収める。日本は将来の事態の推移によって順次撤兵し、支配権を委譲する。
4 米国は、蒋介石政権と汪兆銘政権との提携の斡旋工作を行い、日本と協力して中国の政治的独立を完成させる。
5 満洲と接する地域をソ連より切り離し、無兵備の緩衝的中立国を形成させる。
6 南方諸領は、適宜独立国群を構成させる。
7 以上、日米間に確約成功の場合は、日本は独伊等の枢軸より手を引く。この場合日米通商条約を復活するのはもちろん、米国は50億ドルの借款に応諾する。
8 本協定に基づき、日米は新たに強力な太平洋連盟結成の中核となる。

これらの文書から、日本では太平洋戦争に突入するかどうかをめぐって直前まで激しく議論していたこと、鮎川義介をはじめ多くの企業家や政治家が日米戦争回避に動いていたことがよくわかる。
「日米戦争回避策」をはじめとする鮎川義介文書は、上記の鮎川義介関係文書(MF)(寄託)で読むことができる。
また、以上については、私の次の論文で詳しく検討している。HPに公開する予定なので、ご参照ください。

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2014年9月3日水曜日

「IMARI/伊万里 ヨーロッパの宮殿を飾った日本磁器」を見る、IMARI/ Japanese Porcelain

8月16日(土)から11月30日(日)まで、大阪市立東洋陶磁美術館で、特別展「IMARI/伊万里 ヨーロッパの宮殿を飾った日本磁器」が開かれているので、さっそく行ってきた。
4つの時期に分けて、伊万里の貴重な作品群が、伊万里とヨーロッパの関係の詳しい説明とともに展示されている。
以下の説明文と画像は、展覧会会場で販売されているパンフレットに基づいた。パンフレットは2,300円だが、全258ページ、多数の写真と詳しい解説があってとても見応え、読み応えがある。

第1章 伊万里、世界へ 1660~1670年代

「中国の明・清王朝交代に伴う内乱により、・・・景徳鎮磁器の海外輸出が激減すると、オランダ東インド会社は景徳鎮磁器に代わるものとして有田の磁器に目をつけました。
中国の技術を取り入れ技術革新を進めた有田の磁器は、オランダ東インド会社による厳しい品質基準の注文を受け、・・・景徳鎮磁器に勝るとも劣らない品質の磁器を作り出しました。」

左図:染付芙蓉手花盆文皿、18 (番号は展覧会作品番号)

以下、すべての写真をクリックしていただくと画像が大きくなりますので、ぜひご覧ください。


第2章 世界を魅了したIMARI、1670~1690年代

「この時期、伊万里はヨーロッパ輸出の最盛期を迎えました。なかでも、オランダ東インド会社からの注文により、1670年代頃に温かみのある乳白色の素地に型づくりの精緻な白磁(「乳白手(にごしで)」)に繊細な色絵を施した色絵磁器が柿右衛門窯でつくられました。
これが今日典型的な「柿右衛門様式」として知られているものです。」

右図:色絵花鳥文六角壺、59


第3章 ヨーロッパ王侯貴族の愛した絢爛豪華、1690~1730年代

「1670年から輸出用として一世を風靡した柿右衛門様式の色絵磁器は1690年代には早くも姿を消すことになります。
それに代わって新たに登場したのが、絢爛豪華な「金襴手(きんらんで)様式」です。
・・・
ヨーロッパの宮殿や邸宅の室内装飾品として大型の壺や瓶の注文が増え、高さ90cmを超えるものも見られます。」

左図:色絵龍虎文大壺、89


第4章 輸出時代の終焉、1730~1750年代

「1684年以降、ヨーロッパへの輸出を再開した中国景徳鎮磁器との競争の結果、伊万里は最終的に景徳鎮に敗れることになります。
・・・
1757年、オランダ東インド会社による伊万里の公式な輸出は幕を閉じました。
そして、伊万里のヨーロッパ輸出の立役者であった同社も1799年に解散となりました。」

右図:色絵傘美人文大壷、166


展覧会では、長期間にわたる伊万里の発展の歴史と、その技術の高さだけではなく、伊万里とヨーロッパ、東インド会社との深い相互関係を知ることができた。

ところで、展覧会が開かれた中之島は、今どんどん変わっている。公園自体が整備されたし、京阪電鉄も乗り入れて、とても便利になっている。淀屋橋、北浜も近く、展覧会の後ともに訪れるところもたくさんある。
ぜひこの特別展をご覧になるようにお薦めしたい。

これらの画像をさっそくPinterestに掲載しました。これで見ていただいた方が美しく見えます。

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2014年5月15日木曜日

ファブレットASUS Fonepad Note 6と、スマホ電話SIM フリーDataでスマホを開始、その2

「ファブレットASUS Fonepad Note 6と、スマホ電話SIM フリーDataでスマホを開始」を、このブログに記載してから、意外にもかなりのアクセスがあったので、その後を書いておきたい。

1) まず電話だが、通常の電話回線を使う楽天電話を使っている。楽天電話の説明によると、ドコモなどに比較すると、半額になっているという。この契約には無料分が無いので、電話の使い方をよく考えるようになった。
そして、学生との連絡は主にLINEで行っているので、学生との話はLINE電話を使っている。この場合は無料になる。ただし、LINE電話はインターネット回線を使っているので、通話品質は決して良くない。
こうして、全体として見れば、おそらくドコモでの通話料よりは安くなると思われる。

2) 私にとって、本や資料を読むのは仕事だが、私の本を含むKindle Bookを読むのに、ASUS Fonepad Note 6のディスプレイが6インチであるのはとても助かる。字が小さい場合は、横にすればほとんど問題ない。7インチあればベストだが、7インチでは電話を別に持つ必要があるので、今回の選択は良かったと思う。

3) 現在作成中の文書等について言えば、Word、Excelはそのまま読めるし、その他(たとえば一太郎)はWordに変換すれば良い。データは、PCからGoogle Driveに転送し、スマホでダウンロードすれば簡単だ。もちろん、写真も同様だ。
Google Driveは、これ以外にも実に多様な使い方ができる。たとえば、フォームを使って作成した、ゼミのメンバーの就活報告や欠席連絡などでもとても便利である。
さらに、上記のファイルの簡単な修正なら、スマートフォンでOfficeSuite ProPolaris Officeを使えばできる。

4) 最後に、改めてドコモと話合った経緯を紹介したい。ドコモ担当者は、なぜ高額な定額通信料を払わなければならないについて、アンドロイド等の基本ソフトや、アプリの更新が頻繁に行われるので、どうしてもハイスピードで常時インターネットに接続しておく必要があると説明した。
私のスマートフォンでも、確かにアンドロイドやアプリの更新は頻繁に行われている。しかし、Wifiで接続している場合に行われている場合がほとんどで、何も問題ない。

このように、私のいわゆる格安スマホは、予想以上に快適に使うことできている。これからも多くの格安スマホが登場し、その市場が活気づくのを期待したい。

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2014年5月14日水曜日

四国大学経営情報学部創設時の面々大集合


(左の写真はクリックすると大きく表示されます)

5月11日、四国大学経営情報学部が設立された際に参画し、今では退職された先生方お二人と、私を含む退職まであと数年の2名が、大阪に集まった。集まったのは、これで2回目、次回は卒業生にも参加してもらおうということになった。

右は創設時学部長だった田中宏先生、ご専門は経営工学である。すでに大学からは退いておられるが、自動車、自転車、徒歩で全国を回られ、84歳とはとても思えないお元気さである。そして、写真を写したときは気がつかなかったが、なんとお若い!ピースをされておられる。

その横には、四国大を去られるときには、就職センター長として一貫して大学と社会の結びつきを強められた竹内準治先生。長らく中小企業診断士として社会でご活躍になっていたが、四国大学では経営学を担当された。80歳になられる今年3月までは、甲子園大学の教授として、甲子園大学の発展に貢献された。

中央左は、岡山理科大教授の澤江隆一氏、大学HPによると、「理論計算機科学および数理物理における等質空間の研究」が専門とある。それは一体何か、私には未だにわからないので、次回は数学の講義をしてもらおうと思っている。意外に彼はおしゃれで、写真からはわからないが、髪を伸ばし後ろで束ねている。

この日は設立当時の話や、ともに活躍された先生方について、また1期生の活躍の話題で盛り上がった。そして、先日亡くなれた前理事長の佐藤久子先生の生前のご活躍にも話が及んだ。この場を借りて改めて先生のご冥福をお祈りしたい。
地方の大学の発展が以前よりも難しくなりつつある今、四国大学は大胆な改革に取り組んでいるようだ。私達が勤務していた当時無かった看護学部が設立されている。私達も、四国大学のいっそうの発展を応援していこうということで会は終わった。

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2014年5月5日月曜日

マンキュー先生による「どのようにうまく書くか」, How to Write Well, GREG MANKIW'S BLOG

どのようにうまく文章を書くか、とても難しい。英語となるとさらに難しい。GWで机を整理していたら、以前に印刷していたN. Gregory MankiwHow to Write Wellという短い文章が出てきた。とてもうまく書けているので、Beyond Wordsさんの訳語を併せて掲載したい。何よりも私が学んでいきたいと思う。

ERP Writing Guidelines (「大統領経済報告」作成のためのガイドライン)

・Stay focused. Remember the take-away points you want the reader to remember. If some material is irrelevant to these points, it should probably be cut.
* 焦点を絞る。読者に記憶して欲しい事柄を覚えておく。資料がその事柄と無関係ならば、おそらくはカットされるべきである。
・Keep sentences short. Short words are better than long words. Monosyllabic words are best.
* 一文を短くする。長い単語よりも短い単語がよい。単音節の単語がベストである。
The passive voice is avoided by good writers.
* いい書き手は受動態を使わない。
・Positive statements are more persuasive than normative statements.
* 規範的記述(「どうあるべきか」:訳者補足)よりも実証的記述(「どうなっているか」:訳者補足)の方がより説得力をもつ。
・Use adverbs sparingly.
* 副詞を控えめに使う。
・Avoid jargon. Any word you don’t read regularly in a newspaper is suspect.
* ジャーゴン(専門用語)を避ける。新聞であまり見ないような単語はその可能性がある。
・Never make up your own acronyms.
* 独自の略語を作り出さない。
・Avoid unnecessary words. For instance, in most cases, change
* 不必要な単語は使わない。例えば、ほとんど場合は以下のようにすべきである。
 o “in order to” to “to”
 o “whether or not” to “whether”
 o “is equal to” to “equals”
・Avoid “of course, “clearly,” and “obviously.” Clearly, if something is obvious, that fact will, of course, be obvious to the reader.
* 「当然」や「明らかに」、「疑いもなく」という表現を避ける。明らかに疑いもない事実は、当然、読者にとっても疑いのない事実だから。
・The word “very” is very often very unnecessary.
* 「とても」という言葉は、かなり頻繁にかなり不必要である。
・Keep your writing self-contained. Frequent references to other works, or to things that have come before or will come later, can be distracting.
* 自己完結する文章にする。他の文書や、以前の文書、将来発表される文書に頻繁に言及することは、読者の気を逸らせてしまう。
・Put details and digressions in footnotes. Then delete the footnotes.
* 細目や余事は脚注に載せる。その後、脚注は削除する。
・To mere mortals, a graphic metaphor, a compelling anecdote, or a striking fact is worth a thousand articles in Econometrica.
* 普通の人間にとって、生き生きとしたメタファーや、印象的な逸話、衝撃的な事実は、Econometrica(経済学の学術雑誌)に掲載される論文にあるからこそ意味がある。
・Keep your writing personal. Remind readers how economics affects their lives.
* 人間的な文書を書く。経済学が人生に影響を与える読者がいることを覚えておく。
・Remember two basic rules of economic usage:
* 経済学上の用法の2つの基本的なルールを覚えておく。
 o “Long run” (without a hyphen) is a noun. “Long-run” (with a hyphen) is an adjective. Same with “short (-) run.”
 o ハイフンがない「Long run」は名詞である。ハイフンがある「Long-run」は形容詞である。「short(-)run」も同様。
 o “Saving” (without a terminal s) is a flow. “Savings” (with a terminal s) is a stock.
 o 末尾に「s」がつかない「Saving」は流れるもの。末尾に「s」がつく「Savings」は蓄えるもの。
・Buy a copy of Strunk and White’s Elements of Style. Also, William Zinsser’s On Writing Well. Read them—again and again and again.
* Strunk and White’s Elements of Styleを買っておくこと。William ZinsserのOn Writing Wellでもいい。それを繰り返し、繰り返し、繰り返し読むこと。
・Keep it simple. Think of your reader as being your college roommate who majored in English literature. Assume he has never taken an economics course, or if he did, he used the wrong textbook.
* シンプルに書く。英文学を専攻している大学時代のルームメイトを読者だと考える。彼が経済学の単位を取っていないと想定する。もし取っていたとしても、間違った教科書を使っていたと考える。

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2014年4月11日金曜日

ファブレットASUS Fonepad Note 6と、スマホ電話SIM フリーDataでスマホを開始




4月10日に、スマホ電話SIM フリーData(右下の画像)がようやく到着し、SIMフリーのASUS Fonepad Note 6(左の画像)に差し込んで、ようやくスマートフォンに移行できた。ASUS Fonepad Note 6は、いわゆるファブレットの代表的な製品のひとつである。

長い間、スマートフォンに移行しなかったのは、通信各社の高すぎる料金体系にどうしても納得できなかったからだ。
家と職場でPCを使い、スマートフォンが必要なのは、短期・長期の移動の場合だけだった。また、その場合も、愛用しているKindleがあるので、Wifiがあればメールのやりとりは十分にできる。このような条件の人はかなりの人数になると思う。
通信各社の現在の料金体系は、スマートフォンですべてを済まそうし、いつでもスマートフォンを使う人々を中心に作られている。最先端の投資を優先する通信会社の立場に立てば、競争上やむを得ないかもしれないが、そこにベンチャー企業や他業種の企業の参加の可能性がある。

長い間、通信可能なSIMフリーのハードウェアを捜してきたが、ようやく上記のような適当な組み合わせが見つかったので、購入することにした。

ところで、4月のはじめに流通業のイオンが、独自のプランを発表した。Nexus 4をベースにした組み合わせだ。残念なことに、それはハードウェアが少し古いという問題がある。それでも、このようなスマートフォンが、流通業のイオンから出されたことは本当にすばらしい。ぜひ多くの購入者が利用されることを期待したい。それがまた、新たな試みを生み出すだろう。

なお、私の組み合わせを試してみようと言う人に注意する点を挙げておこう。SIMカードだが、MNP(携帯電話番号ポータビリティ)を利用とする人は、SIMカードを購入する場合には、当然ながらそれに対応したカードを選ばなくてはならない。たとえば、b-mobileで選ぼうとする場合には、b-mobileで販売している右の写真の製品を選ばなくてはならない。そして購入する際に、MNP予約番号を取得しておく必要がある。
私は、うっかりAmazon専用タイプを購入したため、SIMカード1枚を無駄にしてしまった。

なお、上記のスマートフォンは通話、メール、ネット検索とも問題なく活躍している。

その2は、1か月後の状態を記載しています。あわせてお読みください。


(参考記事、2014.4.13追記)上記の製品を選択する際に参考になる

6型のファブレット対決 Fonepad、G Flex、Z Ultra、最強は? (2014年03月25日、文:小林 誠、ASCII.jp編集部)
6型のファブレット対決 Fonepad、G Flex、Z Ultra、最速は? (2014年03月31日、文:小林 誠、ASCII.jp編集部)

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2014年3月6日木曜日

『伊藤若冲 動植綵絵 調査研究篇』、Jakuchu Itoh

伊藤若冲には、一般向けの多数の解説書とともに、その調査研究をまとめた貴重な研究文献がある。
伊藤若冲・動植綵絵 : 全三十幅、伊藤若冲 [画] ; 宮内庁三の丸尚蔵館, 東京文化財研究所, 小学館編集、小学館, 2010.1である。これは動植綵絵全三十幅そのものと、 調査研究篇からなっている。
非常に専門的な内容ではあるが、若冲を理解する上では重要なので、多くの人が読んでほしい書籍である。高価ではあるが、その価格にふさわしい内容となっている。

この調査研究篇の冒頭で、太田彩氏は次のように述べている。「宮内庁三の丸尚蔵館で所蔵する伊藤若冲の『動植綵絵』全30幅は、・・・平成11年度から16年度の6か年をかけて、本格的な解体修理を行なった。その際に、すでに公表した裏彩色の使用が確認されるなど、この美しい作品の描法の秘密が明らかになった」
「本書は、修理の際の調査、そして修理後も続行した絵具の調査と高精細画像による細部の調査を総合して、『動植綵絵』の描写について、絵具の種類、その用い方、描写方法など、できるだけ多くの図版を用いて視覚的に紹介し、同時に調査内容とその結果を紹介することを目的に企画したものである。」

この書籍で、若冲の描画技術が、具体的に視覚的によくわかる。左上は、『動植綵絵』のうち最も有名な「老松白鳳図」であるが、その裏彩色を見たのが、右の図である。表から描くだけではなく、裏からも別の描きかたをすることで、非常に多彩な表現が可能になる。また、以下のように金泥などを使わずに金色にみせるということもできている。

特に、ここで注目されるのは、この図の金色である。「金(金茶)部分では裏面に裏彩色として、黄土あるいは代赭などを塗り、表面にCa系白色顔料を薄くあるいは線描きすることで、絹を通して裏面の黄(茶) 色を透けて見せ、絹の光沢感を利用して金色として認識させるという、高度な描写が行なわれている。金泥などの材料をいっさい使わずに、これだけ美しい金色を見せることのできる彩色は、若冲の高い描写技術を裏付けるもののひとつである。」(調査研究篇、p.101)

もうひとつを紹介してみたい。「紅葉小禽図」である。
この図は、『動植綵絵』の最後の時期に書かれている。この図に近寄って、紅葉の色をよく見ると、まさに紅葉の最中の葉や、もう紅葉が終わり、散りそうになっている葉など、多彩に描き分けられているのがわかる。その違いを生み出しているのが、やはり右の裏彩色の図である。


「薄墨で描かれた葉、印章の横の枝から離れた1枚を除いて、ほとんどの紅葉に裏彩色がある。裏彩色の色は赤、資色みがかった赤、ピンク色みのある赤、黄色などで、絵具の厚みの差も加わってさまざまである。」(調査研究篇、p.91)

若冲の作品の科学的研究は、こうして画期的に前進した。非常に長い間、低い評価しか与えられなかった作品群が一気に甦った。
この再評価は、江戸時代の文化や社会の再評価をさらに進めるだろう。

同じようなことが他の文化の分野にとどまらず、経済や企業活動についても言える。
これまでの常識を絶えず科学的に再検証していく動きは止まることはないだろう。

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2014年2月22日土曜日

アマデウス、Amadeus

「エッカート『日本帝国の申し子』、Carter J. Eckert, Offspring of Empire」を今年1月4日に書いて以来、この時期は大学教員にとって最も忙しい時期だったので、残念ながらこのブログに新たなページを書くことができなかった。それでも、忙しい時期の少しの空いた時間に、気分転換にブルーレイを見たり、音楽を聴くことは楽しみである。
やはりこの時期にもう一度見て聞きなおしたのは、アマデウスだった。アマデウスは、私の最も好きな映画で、おそらくこれまで最も繰り返し見た作品だろう。
アマデウスは、1984年の第57回アカデミー賞の作品賞と、F・マーレイ・エイブラハムの主演男優賞、ミロシュ・フォアマンの監督賞、ピーター・シェイファーの脚色賞、など多数の賞を獲得している。
この映画の最大の見所は、モーツァルトの並外れた天才ぶりと、モーツァルトの才能を目の当たりにした、モーツァルトが登場する前にウィーンで活躍していたサリエリの心の葛藤だろう。サリエリはモーツァルトの才能に嫉妬し、殺人さえもを試みる。
ストーリーはもちろん創作だが、あまりにもよくできているために、史実であるかのように錯覚する。

「アマデウス」では、モーツァルトの作品があらゆる場面で演奏されており、モーツァルトを理解できる最も重要な作品ともなっている。
そこで、モーツァルトの三大オペラから取られ、この映画で用いられている、私の最も好きな有名な曲を紹介してみたい。何かの機会にお聞きいただければ幸いです。ちなみに、以下で画像として紹介するCDは各オペラの代表的なハイライツCDである。

第27章、フィガロの結婚(1786)「フィナーレ:ま、お静かに、ちょっと待ってくれー誰か来ーい、武器を持って来い、FINALE: Pace, pace, mio dolce - Gente! all'armi! (Tutti)で、モーツァルトの作品の中でも最も美しいひとつとされる合唱が歌われる。「神がこの小男を通じて、天上から世界に歌いかけていた」とサリエリはつぶやく。

第30章、ドン・ジョバンニ(1787)、「ドン・ジョヴァンニ、晩餐に招かれたので参った、“Don Giovanni, a cenar teco m'invitasti,  (騎士長、ジョヴァンニ、レボレロ、合唱)。
サリエリは「舞台に現れる死んだ騎士長の姿、・・・あの恐ろしい亡霊は墓から甦った父レオポルド」だとし、「恐ろしくもすばらしい作品だった」と言う。この曲で、サリエリは殺人を具体的に考えたことになっている。
そして最後に、第39章、魔笛(1791)、「恋人か女房があればいいが(パパゲーノ)、Ein Mädchen oder Weibchen (Papageno)
この曲が演奏されている途中に、「アマデウス」でのモーツァルトは倒れる。エマヌエル・シカネーダーのすすめで、「魔笛」にはこの曲を含め一般の聴衆が楽しめる趣向が凝らされている。その意味で、この3つのオペラで、最も多彩な曲で構成されていて楽しい。

また、これからも何度も聞き続けていくのだろう。

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2014年1月4日土曜日

エッカート『日本帝国の申し子』、Carter J. Eckert, Offspring of Empire

追記 (2021.3.24)
この書評をさらに詳しくした書評は以下の通りです。ぜひご参照ください。
書評 エッカート『日本帝国の申し子 (Book Review: Carter J. Eckert, Offspring of Empireここをクリックしていただくと論文が読めます

追記 (2019.3.11)
『日本帝国の申し子』に掲載された、朝鮮人企業家の貴重な写真を最下段に掲載しました。

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2014年の最初に取り上げるのは、以下の著作である。近年、日韓が歴史問題できわめて厳しく対立しているが、その解決のためには、安易な政治的な妥協ではなく、事実に基づいて当時の歴史を具体的に明らかにすること以外に、よりよい方法は無いと思う。

戦間期の朝鮮の経済と日朝間の経済関係を理解しようとする場合、まず読むべき文献は、Carter J. EckertのOffspring of Empire: the Koch'ang Kims and the Colonial Origins of Korean Capitalism, 1876-1945, University of Washington Press, 1991 (小谷まさ代訳『日本帝国の申し子:高敞の金一族と韓国資本主義の植民地起源 1876-1945』、草思社、2004年)である。

まず、簡単にエッカートの主張の重要な点を簡単に紹介しておきたい。
彼が主に取り上げたのは、植民地期朝鮮の最も重要な企業のひとつである京城紡織である。京城紡織は、1919年に設立され、終戦直前まで朝鮮人が経営する企業で最大の企業であり続けた。この企業を率いたのは、タイトルにあるように、高敞の金一族である。京城紡績については、詳しい社史があり、そこに財務諸表も掲載されているので、発表する予定の私の論文で詳しく検討する予定である。

韓国の萌芽派の趙璣濬は、「京紡は、朝鮮の資本(民族資本)と朝鮮の工業技術のみに基づいて経営された。 」と述べたが、エッカートは次のように反論している。「京紡という企業は植民地の権力構造から孤立し、日本の資本主義と対立していたのではない。それどころか両者との緊密な関係のなかで成長を遂げ、一九四五年には、日本から朝鮮、アジア大陸にまで広がる帝国主義経済ブロックの重要な一部となっていたのである。」(日本語訳, p.96-97)
その資金、原材料、人的な緊密な関係については、本書各章で詳しく検討されているので参照していただきたい。

そして、エッカートは、以下のように述べている。「金一族の例は氷山の一角であり、一九四五年以前に出現した数多くの資本家のなかでも、とくに目立つ存在であるというにすぎない。・・・・・。金一族ほどの地位は獲得していなくても、のちに韓国で大きな成功を収めた実業家は枚挙にいとまがない。・・・・・。筆者の主導でおこなった最近の調査では、韓国財閥の上位五〇グループの創始者のうち、じつに六〇パーセント近くが、植民地時代に何らかのビジネス体験をしていたという結果が出ている。」(日本語訳, p.327)

ところで、京城紡織は、1930年代の後半から積極的に満州、中国への進出を試みていた。1939年には、南満紡績が京城紡績の子会社として設立された。その公称資本金は、京城紡績を上回っていた。その特徴については、「朝鮮で日本資本が新会社を設立する場合には、株主や役員に朝鮮人が含まれていることが多かった。しかし満洲での金一族はそのような巧妙な手口を用いる必要がなかった。彼らは南満紡績の設立にあたって中国資本を求めたりはせず、京紡が株の大半を保有し、役員は全員が朝鮮人だったのである。」とエッカートは言う。(日本語訳, p.233)
彼が指摘している日本資本の特徴は非常に重要なので、私の論文で詳しく紹介したい。

そして結論では、「植民地時代におこなわれた工業化の遺産は、朝鮮の資本家階級を生み育てたことにとどまらない。植民地化は戦後の経済発展に必要な社会基盤を残したのみならず、この時代の資本主義発展は(少なくとも急速な工業化を促進したという意味での)成功モデルとして、のちの経済発展に影響を与えることになったのである。」(日本語訳, p.329)と述べられている。

エッカートの研究は、京城紡織をはじめとする広範囲で膨大な資料を基に、多岐にわたって検討されている画期的な研究である。なお、日本語翻訳は、p.342-438を、原注の翻訳、参考文献の紹介に当てていて、研究書としても非常に役に立つ内容となっている。戦間期の日朝関係に関心を持つ多くの人々に、まず読んでいただきたい文献である。
私も、戦間期の朝鮮で活動していた日本企業と朝鮮人系企業、そしてその相互関係を、『大陸企業便覧』などを用いて、エッカートとは少し異なった視点で検討したいと思っている。
また、韓国でようやくエッカートの完全な翻訳が出たが、その翻訳者である朱益鍾氏の『大軍の斥候 : 韓国経済発展の起源』、金承美訳、日本経済評論社, 2011年についても、近く検討してみたい。






















左上の写真
写真内の右上:東京留学中の金性洙(左)と金秊洙、左上:1921年の金性洙、左下:1921年の金秊洙(エッカート著の冒頭写真集2ページ目)
右上の写真
写真内の上:1930年代の永登浦にあった京城紡織株式会社の航空写真、下:1930年代の京紡の役員、後列(左から):金在洙、李康賢、崔斗善、尹柱福、前列(左から)閔ピョンス、玄俊鎬、金秊洙、朴興植(エッカート著の冒頭写真集5ページ目)

ここに掲載された戦間期朝鮮の優れた企業家達の朝鮮経済発展への貢献が、一日も早く具体的な事実に基づいて正しく再評価されることを期待したい。

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