2020年12月2日水曜日

没後70年 吉田博展(2019-21)、図録の紹介

没後70年 吉田博展が開かれている。展覧会のweb siteは、次の様に紹介している。「世界を魅了した日本の木版画があります。洋画家としての素養を持ちながら版画家として新たな境地を切り開いた吉田博(1876~1950年)の木版画です。本展は、吉田博の没後70年にあたる節目に、後半生の大仕事として制作された木版画を一挙公開します。」

私が住む地域の展覧会は、まだ開催されていないが、公式図録を入手したので、さっそく紹介したい。左は表紙で、「剱山の朝」(図録p.46、以下同じ)という作品である。

公式図録の目次は次の通り。「プロローグ、第1章 それはアメリカから始まった、第2章 奇跡の1926年、第3章 特大版への挑戦、第4章 富士を描く、第5章 東京を描く、第6章 親密な景色:人や花鳥へのまなざし、第7章 日本各地の風景I 1926-1930、第8章 印度と東南アジア、第9章 日本各地の風景II 1933-1935、第10章 外地を描く、大陸を描く、第11章 日本各地の風景III 1937-1941、エピローグ」

なお、図録のページ数は256、吉田博の生涯、194の作品、写生帖、版木、資料、略年譜、主要参考文献、作品目録からなる。また、主な箇所は日本語と英語で表記されており、海外の読者も読めるようになっている。

右は「第3章 特大版への挑戦」の代表的な作品、「渓流」(80-1)である。「動く水の面白さに焦点をしぼる」と言う。私の以前のブログで指摘したように、「残念なことに、なぜか画集では半ページで印刷されている」が、本図録では2ページ見開きで掲載されている。ぜひ詳しく見ていただきたい。流れ落ちる⽔と渦巻く⽔が、信じられないような精細さで描かれている。

吉田博は、世界各地で活動しているので、目次の通り世界各地での作品が含まれている。また、交友の範囲も広いので、様々なエピソードがある。図録で紹介されたエピソードのいくつかを紹介しよう。ひとつは、東京裁判日本側のベン・ブルース・ブレイクニ弁護士との交友である。「昭和21(1946)年5月14日に東京裁判でブレイクニ弁護士は「戦争は国際法の法規から合法とされているので犯罪ではない。戦争は国家の行為で個人の行為ではないので、個人の責任を追及し、裁くのは間違いである」と主張した。また「真珠湾攻撃が殺人罪ならば、原爆を投下した者も殺人罪になるのではないか。原子爆弾は明らかにハーグ陸戦条約第4項が禁止する兵器だ」と指摘し原爆を告発した。」(14)詳しくは、私のブログを参照していただきたい。

もうひとつのエピソードが左の作品にある。作品名は「第2章 奇跡の1926年」の「光る海」。(61)この作品の左のページに、「ダイアナ妃と《光る海》の謎」というコラムがあり、ダイアナ妃の執務室の後ろの壁に、「光る海」が掛けられているのがわかる。監修者である、博の孫にあたる吉田司氏は、ダイアナ妃が吉田博の他の作品を購入している経緯から、この作品も同様に購入していた可能性を考察している。

第2章にある「光る海」のすぐ後ろのページに、「帆船」のシリーズがある。(64-68) 吉田司氏は、「③版画の特性を生かし同じ版で色を変え、時間の経過や天候の変化を色違いの別刷りとして制作した(「帆船」シリーズ、cat.nos 40-45)」(196)と述べている。

「帆船」では、帆船が画面の中心にあるが、「光る海」では、画面中央で海面に光が強くあたる様子が描かれている。海面の光の微妙な強弱をどのように表現されたのだろうか。

次は、裏表紙にも掲載された、「第8章 印度と東南アジア」の作品のひとつ、「フワテプールシクリ」(158)である。「イスラム建築の精緻なアラベスクから滲む光とその乱反射を表すために淡い同系色を幾度も摺り重ね、写生を超えた幻惑的な異空間を現出させている。」よく見る多数のイスラム教徒の礼拝ではなく、二人がじっと静かにたたずんでいる様子が印象的である。

インドの作品としては、「タジマハル」や「カンチェンジャンガ」、「ベナレスのガット」など多彩な作品が掲載されている。

最後に紹介する作品は、「第10章 外地を描く、大陸を描く」に掲載された「泰天(奉天?)市場」と「泰天大南門」の2枚(195)である。奉天は満洲の中核都市のひとつ、現在の瀋陽である。満洲は当時の中国で最も重工業が発展していた地域であるが、この2枚からは、その中心都市は賑やかで人々も美しく描かれているが、まだ経済発展がすみずみまで及んでいない様子もうかがえる。

私の以前のブログで、⽇本統治下にあった朝鮮の平壌にある「⼤同⾨」を紹介したが、同じような印象を持った。
これらの作品から、吉田博は、当時日本の影響下にあった地域の、普通の⼈々の⽇常生活を暖かいまなざしで描いているように思う。

最後に、吉田司氏による、「吉田博の木版画の特徴」の主な点を紹介したい。「①従来の版元制(出版元による分業=絵師・彫師・摺師が各工程を分担)と創作版画(画家自ら描き・彫り・摺る)を意識し、第三の道を模索して、自ら版元を兼ね「自摺」と称した私家版を出版した。・・・②これまで誰も作らなかった山桜を使った本格的な風景版画の特大版6点を含む、大判8点の制作に挑戦した。・・・③上記「帆船」の箇所で紹介した通り、④日本の伝統芸術である多色木版画に洋画の視点を加えた。・・・⑤「山と水の画家」とも言われ、山と水の表現に特徴がある。⑥モチーフ(題材)の豊富さに特徴がある。・・・」(196)

以上の紹介はごく一部の作品にすぎないが、この図録は、とても図録とは思えない充実した内容で2,200円、送料を入れても3,064円である。ぜひ入手されて、詳しく見ていただきたい。私は、コロナ対策を心がけながら、これから開催予定の展覧会に図録を持って出かけたいと思う。

追記:これまで私が作成した吉田博についてのブログは以下の通りです。(2021.10.23)

2020年11月9日月曜日

ロシアの写実画家 シーシキン

日本ではロシアの画家はまだあまりよく知られていない。2018-19年には、ロシア美術の殿堂・国立トレチャコフ美術館が所蔵する豊富なコレクションを紹介した「ロマンティック・ロシア展」も開かれたが、私は、その展覧会でも取り上げられたシーシキンを紹介したい。

シーシキンを含む当時のロシアの画家を紹介した文献は少ない。Britannicaによれば、Ivan Ivanovich Shishkinは、1932年1月13日 [25日, New Style]に生まれ,  1898年3月8日 [20日]に亡くなった。

上は最もよく知られた作品のひとつ「カバの森の中の小川」である。高くそびえる白樺の森の中を、女性が水をくみに行こうとしている。一本一本の白樺、森の中を流れる小川、川のほとりの草花も細かく丁寧に描かれている。白樺の森や林は、日本でもたくさん見られるので、日本的な風景の様な気がして、私が特に好きな作品のひとつである。

2枚目は「カマ川遠望」である。今度は絵の半分が空で、高い空には雲がかかり、一羽の鳥が飛んでいる。森の向こうには大河カマ川と、周辺には森林が広がる。これこそが、壮大なロシアの大地なのだろうか。

ところでシーシキンが加わったとされる移動派は、「ロシア初の独立芸術家団体。アレクサンドル2世治下の1870年に設立。・・・チェルヌイシェフスキーの社会主義思想の影響下で農奴制や資本主義を告発する作品を制作した。・・・1880年代に最大の評価を得て20世紀初めまでにロシアの主要美術学校の教職の大半を占めるに到り、1932年以降はソヴィエト社会主義リアリズムの先駆として権威化された。」(Artwords, 松本晴子)シーシキンと移動派は、どのような関係だったのだろうか?

紹介する最後の作品は、これまでの2作品とは異なって、ロシアらしい秋から冬の作品「初雪」である。この絵は、教育目的のwebsiteであるTanais Galleryから掲載した。このサイトでは多くの作品が見られるので、ぜひ訪問していただきたい。画像も拡大できる。

ロシアとは言え、まだ初雪なので、雪は深くなく、多くの木の枝には積もっていない。地上の雪も地面にふんわりと積もっているように見えるが、積もった雪の柔らかさが見事に表現されている。

ところで、シーシキンが参加した移動派が影響を受けた社会主義思想は、歪められた形ではあるとは言え、共産党とロシア革命によって受け継がれ、さらに戦間期のスターリン体制はロシア帝国による弾圧をはるかに上回る千万人を超える人々を虐殺した恐怖政治をもたらした。(私の書評論文「ネイマーク『スターリンのジェノサイド』」を参照)同じロシアの地で、かなり近い時期に生まれた、19世紀後半の一群の優れた芸術作品と、20世紀前半の殺戮の政治体制の関係をどのように理解したらいいのだろうか?

最後に、シーシキンの作品を見るにはどうしたら良いのだろうか。まず、書籍については、Kindle版はあるが解説が中心のドイツ語であり、印刷版は内容がよくわからないのに高すぎて手を出しにくい。安価にシーシキンの作品を見るには、意外にもYou Tubeが便利である。例えば、Ivan Shishkin: A collection of 352 paintings (HD)Ivan Shishkin: A collection of 172 sketches (HD)この2つのタイトルからわかるように、シーシキンの作品はとても多い。上記の3作品は、ほんの一部である。


2020年9月29日火曜日

原雅幸 3枚の写実絵画

 『写実絵画の新世紀 ホキ美術館コレクション』(別冊太陽、2016年)に掲載されている画家で、私が森本草介さんとともに好きな画家が原雅幸さんである。残念ながら、原さんの最近の公刊された画集を見つけられなかった。

そこで、このブログでは、原さんの同書に掲載されている3つの作品を紹介したい。まず原さんのプロフィールから。「一九五六年、大阪府泉南郡生まれ。一九七九年、多摩美術大学卒業。・・・一九九八年、渡英。二〇〇五年、エディンパラに移住。二〇〇六年、第一回リアリズムの世界(飯田美術 以後毎年)。二〇〇九年、ざ・てわざー未踏への具象ー展(日本橋三越)。」(同書、159ページ)

最初に紹介する作品は、上の「クリストファーロビンの聲」、「イギリス南東部のケントの風景」だそうだが、左側の大木から、木の葉、そして敷き詰められた落ち葉まで、ひとつひとつが細かく正確に描かれている。おそらく気の遠くなる作業だろう。このような森に入れば、落ち葉を踏みしめながら、森のずーっと先をめざして、そこに何が見えるかを楽しみに進むだろう。大樹の根の下には、たくさんのウサギの巣の穴が見え、一瞬クリストファー・ロビンの楽しそうな声が聞こえるようだと言う。左側の大木群の向こうにはぐっと開かれた場がありそうだが、そこから光が差し込む。森の多い日本では、この様な風景はあちこちに見られるように思える。

今度は、1枚目とも3枚目とも異なって全体が深い雲に覆われた暗い絵、「モンテプルチアーノ」である。「標高600メートル余りの小高い丘の上にある城壁に囲まれた美しいトスカーナの町」モンテプルチアーノ。トスカーナはよく知られているワインの産地だが、モンテプルチアーノは、イタリアの赤ワイン用ブドウ品種名でもある。丘の上の教会か修道院に、原さんは神を見たというが、私には信仰と権威と権力の象徴であるように見える。全体の色調は暗いが、右上の雲間から差し込む、最初の絵と同様な太陽の強い光が、緑の大地を明るく照らしている。

最後の1枚は「羊のいる風景」、今度は、おそらく原さんが住んでいる、「スコットランド南部の早春の風景」である。最初の絵とは異なってスコットランドなので、早春とは言えかなり寒いはずだが、森と草原の全体に深く光が差し込んでいるから、とても暖かそうに感じる。木々や木の葉だけでなく、草を無心に食んでいる羊の毛までひとつひとつが細かく描かれていて、暖かさをいっそう強く感じる。

『写実絵画の新世紀』を見ればすぐにわかるように、写実絵画と言っても、写実の方法も対象も画家によってとても異なる。ほんとうに写実絵画という分類が出来るだろうかとさえ思える。
原さんは、「ただ美しい風景では自分の絵にできない。何か気になるものが潜む風景でしか私の絵にならない」(58)と語る。私は、原さんの何か気になるものが潜む風景になぜか共感し、そこにいるかのようにさえ感じられる。
多くの方にも、『写実絵画の新世紀』では、見開き2ページで大きく細かく見ることにできるので、この3作品をぜひ見ていただきたいと思う。

なお、森本草介さんの絵と画集についても、私のブログであわせてご参照ください。:森本草介『光の方へ』(2018.12.4)

2020年9月13日日曜日

縦型ディスプレイを購入、とても快適、おすすめです

画面右側の縦型のディスプレイを購入した。機種は、マウスコンピューター iiyama モニター ディスプレイ XUB2792HSU-B1Dである。解像度はフルHD, 1920x1080px、左のディスプレイも同じ解像度である。この数値から見ると、高さはほぼ倍に、横幅は半分になっている。並べて見ると、机の上はアンバランスで、何か不自然な感じはするが、後に見るように、使い勝手はとても良い。

歳を取るにつれ、画面の文字がどんどん見にくくなり、まずWindowの設定で、全体を125%の設定にした。それはそれでとても良かったが、今度は縦型のデータが見にくくなってきた。
そこで、縦型に設置できるディスプレイを探して、この製品を購入した。ちなみに縦型にできる機能を、マウスコンピュータではピボット機能と呼んでいる。なお、2つの画面ともChromeでは100%の表示である。

設置してまずは驚いた。こんなに下の方までよく見える。右は私のwebsiteだが、スマホでも比較的見やすいように、横幅を800pxに設定しているので、ぴったりで作業がとてもやりやすい。最初の画像にあるように、横型だと横幅に十分な余裕があるが、作成が進むと、かなり下までスクロールする必要がある。

左は、私のブログである。横幅は960pxに設定している。ちょうど1回分が収まってくれる。今も新ディスプレイで作業しているが、とてもやりやすい。
他方、左側に置く横型のディスプレイでは、これまで通り主な作業である文書・表の作成やメールの読み書き等を行っているが、特に問題はない。

ディスプレイは、テレビもそうだが、高性能のものがどんどん安くなっている。まずは2つを並列して使い、場合によっては並列し、ひとつは縦型にするととても仕事が進む。ぜひお薦めしたい。
なお、2画面や縦型の設置の作業はとても簡単である。

2020年8月11日火曜日

疫病と闘い続ける北斎

YouTubeチャンネルを開設しました。新保博彦のチャンネルです。以下の内容を含む「北斎の須佐之男命厄神退治之図と晩年の大作群」を作成しました。(2023.5.22)

現代に生きる我々は、新型コロナの拡大に苦しんでいる。しかし、過去の人々は、我々以上に様々な疫病に苦しんでいた。日本を代表する画家北斎は、当時の人々とともに疫病との闘いに一貫して挑み続けていた。いくつかの代表的な作品を紹介したい。


まず、「須佐之男命厄神退治之図」(1845年)である。この図は、私のブログ「北斎晩年最大の傑作、須佐之男命厄神退治之図 No.1」(2017年1月23日)で紹介したが、もう一度掲げたい。

凸版印刷によれば、同社は、「関東大震災で焼失した「須佐之男命厄神退治之図」の残された白黒写真から、凸版印刷の最先端デジタル技術を活用し、撮影された当時の彩色された絵馬を原寸大で推定復元しました。」

絵馬では、中央やや右上の白い装束を着た須佐之男命」が、朱色と思われる服をまとい、腕には疱瘡の痕が見える疱瘡神(疱瘡(天然痘)を疱瘡をもたらすと信じられた疫神)、紫の衣をまとった梅毒の厄神、風邪をはやらせる疫病神、風邪の神などと闘おうとしている。この創作意図が明白で、壮大なスケールの作品は、北斎の作品のひとつの集大成とも言えるだろう。
すみだ北斎美術館

もうひとつ有名なのが、⾁筆「朱描鍾馗(しゅがきしょうき)図」(絹本⼀幅)である。北斎は同様の作品を何度も描いたが、右は、弘化3(1846)年の作品である。春朗の落款を持つ(最初期の)唯一の肉筆画の作品は『もっと知りたい葛飾北斎』p.15に掲載されている。

この作品について、すみだ北斎美術館は次のように説明している。「中国の厄病除けの神とされる鐘馗を描いた図です。当時流⾏った疱瘡には⾚いものが効くという俗信があったため、端午の節句にも疱瘡除けの願いを込めて鐘馗の幟が飾られていました。・・・数え87歳のときに描いた作品です。」
北斎が、この種類の画を何度も描き続けたのは、当時の様々な疫病が繰り返し人々を苦難に陥れたと言うことだろう。

日本美学研究所
もうひとつ疫病に対して北斎が闘ったと考えられる作品が、肉筆画「鎮西八郎為朝図」(1811年頃)である。この作品は大英博物館が所蔵している。為朝も、北斎によって何度も描かれており、有名なのは『鎮西八郎為朝外伝 鎮西弓張月』である。

「源為朝は平安時代の勇猛な武将で古来より為朝の名を記した札を家に貼ると為朝の武威を恐れ 疫病が退るとされてきました」(築地・波除神社
右は波除神社の「疫病除け神符」である。

このように、北斎を疫病と闘い続ける絵師としてみてみると、万能の天才北斎のもうひとつの姿が見えてくるように思われる。

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2020年7月16日木曜日

NODA・MAP『贋作 桜の森の満開の下』が8月14日再登場

NODA・MAP「贋作 桜の森の満開の下」が、WOWOWで8月14日に再登場する。6月にはシネマ歌舞伎「野田版 桜の森の満開の下」が衛星劇場で放映されていたので、両者をほぼ同時に見ることができる機会を得られそうだ。私は両者をともに録画済みだが、また楽しみがひとつ増えた。

「遡ること1989年。かねてより自身を「安吾の生まれ変わり」と公言してはばからなかった野田は、敬愛する作家・坂口安吾の「桜の森の満開の下」と「夜長姫と耳男」を主な下敷きとして、そこに幾つもの安吾作品のエッセンスを散りばめるという大胆な剽窃(=remix)によって、野田にしか描くことのできない壮大な戯曲を書き下ろした。それが『贋作 桜の森の満開の下』の誕生だ。」(nodamap.com)

贋作版はこうして30年もの長い歴史があるが、その中にはパリ国立シャイヨー劇場での公演もあった。贋作版もシネマ歌舞伎版もともに、舞台や衣装の美しさはともにすばらしいが、贋作版は、豊かに舞い散る桜と、随所に使われるテープがとても印象的だ。

贋作版は耳男が妻夫木聡、夜長姫が深津絵里だが、この二人の演技がすばらしい。野田は妻夫木を「弱っちい、翻弄される側の人間」などと評している。深津は、耳男の耳を切り落とすよう命じたり、最後の場面では人々を次々と殺すように命じたり、その優しい表情とは全く異なる妖しさを見事に演じている。

贋作版、テレビから
ところで、前回のWOWOWの放送の最後の部分に、野田や出演者のインタビューがあったが、そこで野田は鬼について次のように述べている。
それは、贋作版の最後の天皇の御幸と鬼の行列がクロスする場面に、人間と鬼の関係がよく表れていると言う。「作った人間と、土の下に埋もれたものとしての鬼」である。
シネマ版、テレビから

ただ、シネマ版では、鬼達の衣装は画像のように、歌舞伎らしい豪華さだが、このような交錯は表れず、鬼は花道を通って去っていく。シネマ版の演出者は、どのように考えているのだろうか?

ところで、小松和彦氏は、鬼を次のように説明している。「「鬼」は「人間」の反対概念である。すなわち、日本人が抱く「人間』概念の否定形、つまり反社会的・反道徳的「人間」として造形されたものなのである。」『鬼と日本人』、p.6)確かに、私達の周りには様々な鬼がいる。


こう書いてしまうと、ストーリーが明解のように聞こえるが、実はそうではない。この点を、妻夫木は次のように語っている。野田作品は「言葉にならない何かを表現している」。59公演をこなした自分にも観客にも、何もかもがすばらしいにもかかわらず、演劇から得られる「感動の意味がわからない」と言う。「贋作 桜の森の満開の下」の底流には、先ほどの野田のストーリーがあるのだろうが、この舞台には、様々なストーリーが織り込まれているので、ストーリーがとても複雑だからだろう。その複雑さからいろいろな意味を見出せるのが、この劇の豊かさになっているのだろうと思う。

お盆のひとときにぜひ観ていただきたい舞台(録画)である。

なお、シネマ歌舞伎『野田版 桜の森の満開の下』については、左のタイトルをクリックして、私のブログを参照してください。

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2020年6月1日月曜日

スペイン・インフルエンザ、中国での実態

スペイン・インフルエンザについての世界統計
私の一連のスペイン・インフルエンザについてのブログで、取り上げた発展途上国はインドであり、インドはこのパンデミックの最大の被害国であった。では、もうひとつの大国中国はどうだったのだろうか?
私のブログでは、スペイン・インフルエンザについての世界的な統計として検討した2つの論文、Niall P. A. S. Johnson, Juergen Mueller (2002)と、K. D. Petterson and G. E. Pyle (1991)は、ともに中国の死者を400万人から950万人と推計している。

1918年からの数年間に、中国社会では何が起きたのだろうか?1911年に始まった辛亥革命は、250年間以上続いた清王朝を倒し共和制の新しい時代を切り開いた。1919年には中国北京の大学生を中心として起こった民族運動である五四運動が起こり、1921年には中国共産党が設立された。このように激しく揺れ動いた社会で、スペイン・インフルエンザには十分に目が向けられなかった可能性がある。

中国の都市を捉えた『流行性感冒』
内務省『流行性感冒』(1922年)は中国にも着目しているが、対象となったのは都市が中心で、感染爆発が起きているようには見えない。
「満洲地方に於ては大正八年十一月又は十月下旬より本病患者の発生を見十二月に入りて稍々流行激げしき地方もありたるも多くは激げしき流行を見ずして翌九年一月下旬又は二月上旬に終熄せり、一般に病勢は先年のものに比して軽症にして患者に対する死亡率は約二%乃至五%位にあり。」
この後、山東について触れ、次に以下のように記述している。
「支那地方に於ける状況 二、三の地方を除き流行一般に軽微にして或は患者発生なき地方もありき。・・・香港に於ける患者概数は一月一日より二十三日迄に四万五千人発生し人口の約一割に当れり。」(以上、p.69-72)

飯島渉氏の『感染症の中国史』
飯島渉氏の『感染症の中国史』(中公新書、2009年)は、次のように書いている。「中国でもインフルエンザの流行が確認できますが、その実情はよくわかっていません。世界各地のインフルエンザの流行状況との比較から、中国でも1000万人近くの死者が発生したとされる場合もあります。しかし、中国海関などの資料を勘案すると、それは過大な数字で、中国での死者は100万人程度にとどまったのではないかと考えられます。」(p.195)
同書は、1919年の中国の感染症については、コレラを中心に記述している。飯島氏は、当時の中国ではコレラの蔓延がより重要な課題だったとされているようである。特に、詳しい調査の対象となっているには、上海共同租界と香港、そしてコレラ蔓延の経路となった主要鉄道路線周辺である。

What happened in China during the 1918 influenza pandemic?
最後に、海外の論文をみてみよう。K.F. Cheng, P.C. Leung, What happened in China during the 1918 influenza pandemic?, International Journal of Infectious Diseases (2007) 11, 360—364である。
この論文には、2つのデータが掲載されている。まず香港と上海の死者だが、『流行性感冒』と同様に少なく、十分な調査とは言えない。もうひとつの調査は、熱河省 (Rehe County)のデータで、感染者6200人、死者151人、患者に対する死者比率は2.4%となっている。

なお、この論文は中国で感染者と死者が少ない事実について、2007年の論文ではあるが、「伝統的な漢方薬 (traditional Chinese medicine (TCM))が重要な役割を果たしたかもしれない」 (p.363)と述べている。しかし、この結論を明確に証明するデータは掲載されておらず、また中国のスペイン・インフルエンザ以後の感染症の歴史をみても、この推論を証明するのは困難だと思われる。

以上いくつかの重要な文献を検討してきたが、スペイン・インフルエンザの中国での影響を十分に明らかにすることはできなかった。そもそもデータが、一部の大都市の断片的なものにとどまっており、さらに、人々の多くが住む地方についてはほとんどデータが無い。
第1次世界大戦後の中国の実情についての中国での研究は、中国共産党の設立と発展が中心で、より広範囲な経済と社会の研究は大きく立ち後れている。中国におけるスペイン・インフルエンザの影響についても明らかにされるのは、まだ先のようである。

さらに詳しくは、書評論文「スペイン・インフルエンザに関する3つの基本文献の紹介論文】(クリックしてください)をご参照ください。

2020年5月14日木曜日

スペイン・インフルエンザ:朝鮮・台湾とインド

私は、私のブログ「『流行性感冒 「スペイン風邪」大流行の記録』(1922年)」で、朝鮮と台湾について改めて検討するとしていたが、その課題を、私のブログ「脇村孝平『飢饉・疫病・植民地統治-開発の中の英領インド」で行ったインドとの比較で行いたい。

さらに詳しくは、書評論文「スペイン・インフルエンザに関する3つの基本文献の紹介論文】(クリックしてください)をご参照ください。

まず、『流行性感冒 「スペイン風邪」大流行の記録』の調査を表1にまとめた。人口については、速水融『日本を襲ったスペイン・インフルエンザー人類とウイルスの第一次世界戦争』から補った。
表1によれば、朝鮮における死者と対人口死者率(パーミル)は、内地人が3,900人と11.7、朝鮮人で180,500人と10.8になる。台湾では、『流行性感冒』自体の試算では、内地人が630人と3.93、本島人が23,600人と6.89になる。速水氏の人口データで計算した対人口死者率(パーミル)は表の最下段に記載した。

次に先の速水氏の試算を表2で紹介しよう。速水氏は、「超過死亡(excess death)」という方法を適用される。「ここでいう超過死亡とは、ある感染症が流行した年の死亡者数を求めるに際し、その病気やそれに関連すると思われる病因による平常年の死亡水準を求め、流行年との差をもってその感染症の死亡者数とする考え方である。」(237、以下数字は上掲書ページ数)
この方法によって計算された朝鮮での死亡者と対人口死者率(パーミル)は、内地人が3,400人と10.0、本地人(朝鮮人)が230,800人と13.8となる。『流行性感冒』の調査より朝鮮人の死者が増加する。

速水氏によると、台湾では、表3のように内地人の死者と対人口死者率(パーミル)は、1,400人と9.6、本島人(台湾人)が47,500人と13.6となる。『流行性感冒』に比較して、朝鮮と同様に大幅に増加する。

以上の検討をまとめてみよう。『流行性感冒』は、日本本土について、死者が389,000人、対人口死者率(パーミル)が6.75と推計していた。速水氏は超過死亡という方法で、その数値を見直し、それぞれ453,000人と8.10とみなした。
速水氏のデータに基づけば、第1に、朝鮮と台湾の両地域は、日本本土(内地)に比較して、内地人と現地人の両方で対人口死者率(パーミル)が、高くなっていることがわかる。第2に、朝鮮と台湾の両地域で、内地人対現地人の対人口死者率(パーミル)が、後者が前者の1.4倍前後となっている。
この理由について、速水氏は「それを通じて言えることは、内地人と現地人の死亡率の間に、ある程度の較差があったことである。これは、直接には、医療や予防の面で、また間接には、日常生活の水準において、日本人が現地人よりはるかに恵まれた環境にあったことを示しているだろう。」(速水著、p.421)
スペイン・インフルエンザは、地域、人種や民族の違いには関係なく甚大な被害をもたらした。しかし、日本から現地に渡った人々は官僚や企業経営者、管理職などが多く、生活水準も高かった。これに対して、朝鮮・台湾は日本の統治下に入ってそれほど時間が経っておらず、両地域の工業化や近代化、公衆衛生の普及も始まったばかりだったことが、上記の格差に反映していると言えるだろう。

最後に、朝鮮と台湾の状態を、脇村孝平『飢饉・疫病・植民地統治-開発の中の英領インド』と比較してみよう。脇村氏は、K. D. Petterson and G. E. Pyle (1991)に基づいて、スペイン・インフルエンザによる死者が1250万~2000万人、対人口死者率(パーミル)が42~67と推定していた。対人口死者率は、日本と日本の統治下の地域に比較して大幅に高い。また、コミュニティー別にみると、ヒンドゥー(低カースト)の対人口死者率(パーミル)が約900と、現地人が異常に高く、ヨーロッパ人は40台で、その格差は日本と朝鮮・台湾と比較して著しく大きかった。
これらの数値は、第1次世界大戦直後の、イギリスのインド統治と、日本の朝鮮・台湾統治の違いの重要な一面を表している。


2020年5月10日日曜日

脇村孝平『飢饉・疫病・植民地統治-開発の中の英領インド』

これまでの5回のブログで、スペイン・インフルエンザについての最も重要な3つの著作を紹介してきたが、今回はこのインフルエンザで最も深刻な影響を受けたインドに関する数少ない日本語の貴重な文献を紹介したい。脇村孝平『飢饉・疫病・植民地統治-開発の中の英領インド』(名古屋大学出版会、2002年)である。

目次は以下の通り。
序論 飢饉・疫病と社会経済史
第Ⅰ部 飢饉と疫病の時代
第1章 英領インドにおける飢饉と疫病、第2章 飢饉・マラリアと死亡率、第3章 マラリアと植民地的開発、第4章 インフルエンザ・パンデミックとインド、第5章 植民地的開発・エンタイトルメント・疾病環境
第Ⅱ部 飢饉・疫病と植民地統治
第6章 飢饉救済政策の制度化、第7章 植民地主義と疾病・医療、第8章 植民地統治と公衆衛生
結語、あとがき、図表一覧、索引

まず、著者の本書全体の視角を紹介しよう。「(1)英領期インドの飢鍾と疫病という現象を,「生活水準」という概念に関連づけて究明する、(2)疾病史を環境史の文脈で位置づけ直す、(3)「災害管理」(disaster management)という問題に着目する、(4)「帝国医療」(imperial medicine)という問題設定から,この時期のインドにおける疫病への対応を考える」(本文序論から要約)この視角から第4章も検討されている。


著者の検討範囲は長い期間におよぶが、インド史が専門ではない私はその全体をコメントできないので、スペイン・インフルエンザに関する第4章を中心に紹介したい。
スペイン・インフルエンザは、世界各地とほぼ同じ時期にインドを襲った。まず注目したいのは、表1(原表4-1)に示した地域別の実情である。Annual Report of the Sanitary Commissioner with the Government of India, 1918のデータに基づいている、この文献は、オリジナルが公開されている。この表によれば、英領インド全体で死亡者が709万人、100万人を超えているのが連合州(現在のウッタル・プラデーシュ州、ウッタラーカンド州)とボンベイ(ムンバイ)である。州内の都市と農村の格差についても著者は言及している。なお、死亡者については、超過死亡者という方法が採られている。

次にThe Statesman (Weekly Edition)による表2(原表4-3)は、各コミュニティー別の死亡率を示している。ヒンドゥー(低カースト)が898.38(パーミル、以下同じ)、 ジャイナ教徒が465.70、この2つが特に高く、対照的にヨーロッパ人が43.41 と著しく低い。植民地での支配者と被支配者との大きな違いが示されている。ただし、インドの主要なコミュニティーの数値が非常に高く、先の表1のインド全体の数値と整合的かについてやや疑問が残る。
1918年には、食料穀物価格が、モンスーンの不調と第一次世界大戦によるインフレによって、急激に上昇した。その結果として生じた「食糧不足の状況はインフルエンザの被害を増幅したであろうが,他方でインフルエンザの影響が農業活動を困難にしたことも確かであろう。」(本書、p.124)こうして、食糧不足が低所得階層に大きな被害をもたらしたと著者は指摘する。

ところで、「インドにおけるインフルエンザの人的被害は未曾有の規模であったが,当時の植民地政府の公文書類の中でインフルエンザの影響についてふれたものは意外に少ない。また,当時の状況を知るために,新聞のいくつかを通読してみても, これまた意外にその情報は限られている。」(125)戦争という異常な事態と、インフルエンザの影響が短期間に集中したことが、このような事態を生み出したと著者は見ている。
そして、著者は「当時のイギリス植民地政府の公衆衛生政策の無策,特に農村における無策が大きな影響を与えたことは間違いないと言えるであろう。」(129-30)と結んでいる。

ところで、イギリス植民地政策の結果としてのインドのこの状況は、日本の朝鮮・台湾の統治政策との比較検討を課題としている。著者は、第8章 植民地統治と公衆衛生の特に3で日本との比較を試みているが、この興味深い課題については次のブログで検討したい。

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最後に、著者がこの章の付表として掲載している「表3 世界におけるインフルエンザ大流行(1918~19年)の推定被害状況(死亡者数と死亡率)」を掲載しておこう。表は、K. D. Petterson and G. E. Pyle, 'The Geography and Mortality of the 1918 Influenza Pandemic', Bulletin of the History of Medicine, 65, 1991, pp. 14-15に基づいている。

この表と、私が先にブログの速水融『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』(2)に掲載したNiall P. A. S. Johnson, Juergen Mueller(2002)の表とあわせて参照していただきたい。インドについては、表3のPetterson & Pyleが、死者が1250万~2000万人、対人口死者率 (パーミル) が42~67と、幅を持たせた推計を行っている。このように主要な研究でも実態はまだ十分に解明されていない。今後の研究が待たれる。
100年前のインドの状況は、今回のコロナ・ウイルスが途上国に及ぼす大きな影響を推測させる。多くの方々が、その課題にぜひ関心を持っていただきたいと思う。そのために、脇村氏のこの著作はとても参考になる。

さらに詳しくは、書評論文「スペイン・インフルエンザに関する3つの基本文献の紹介論文】(クリックしてください)をご参照ください。

この著作は高価なので、この著作の元となった論文はここからダウンロードして読むこともできます。

2020年5月3日日曜日

『史上最悪のインフルエンザー忘れられたパンデミック』(2)

原書表紙
『史上最悪のインフルエンザー忘れられたパンデミック』(1)では統計的な数値を中心に紹介したので、(2)では、それ以外の特に重要な箇所を紹介したい。

第5章 スパニッシュ・インフルエンザ、合衆国全⼟を席巻の、最後の節「都市問題と流行の絡み合い」で、著者クロスビーは、感染の急速な拡大と都市を結びつけている。アメリカの有力な都市には、海外からの移民や、アメリカの地方都市からの職を求めて移動してきた多数の人々が、密集して暮らしていた。そこでの衛生環境は決して良いとは言えず、さらに移民の多くは各自治体から出される指示や注意が理解されていなかった。こうして、都市はインフルエンザが急速に拡がる条件がそろっていた。この状態は、今日のニューヨークをはじめとする先進各国の中核都市での状態と酷似しているのだろう。

アメリカの大都市とともに、インフルエンザが猛威を震った場所がある。第12章 サモアとアラスカは、サモアについてその状態を詳しく伝えている。
「・・・人口は少なく、外界からたまに特別な接触があった以外は隔絶された状態を続けていた太平洋の小さな島々がある。これらの島々の原住民たちは、1918年のインフルエンザ・パンデミツクによって世界で最もひどい痛手を受けた人々だった。」(287)
ほとんど援助らしいものを受け取ることができなかった、ドイツ領有下の西サモアに対して、アメリカの支配下にあった東サモアに対してインフルエンザの持ち込みをふさぐためあらゆる手を打ったと言う。「もし、かつて帝国主義がほんの少しでも正当化されるような政策をおこなった国家があったとしたら、1918ー19年のアメリカン・サモアがまさにそれであり、サモア群島の住民たちも十分それを知っていた。」(298)

クロスビー(Alfred W. Crosby)
第7章 サンフランシスコ
本書でスペイン・インフルエンザに対する方策として詳しく述べられているのは、サンフランシスコにおけるマスクの着用である。流行当初から医療現場ではマスクは着用されていたが、サンフランシスコ理事会は全会一致で法的拘束力を持った着用条例を採択した。
1か月ほどで流行が下火になったため条例は解除されたが、その後再び流行が始まり、着用を改めて促す動きに対して、反マスク同盟が組織されるなど、市民の対立が深刻になった。当時は、マスクの着用でさえ、なかなか理解されなかったのである。
この章での検討をふまえて、著者は次のようにまとめている。「アメリカ社会は、特に都市においては、スパニッシュ・インフルエンザ・パンデミックに遭遇してどのようにふるまったのだろうか?もし、この問いがインフルエンザの予防と治療という点に関するものならば、答えはひとこと、「非常にお粗末に」である。しかし、1918-19年当時は、そのような目的を達成できる手段はごく限られたレベルのもの以外どこにもなかったのであるーそれは現在でもそう変わりはないのだが。」(149)

第15章 ⼈の記憶というもの──その奇妙さについて
速水氏の『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』は、アメリカでスペイン・インフルエンザが忘れられた理由について、クロスビーが記述した箇所を以下の様に簡潔にまとめている。
「一、第一次世界大戦に対する関心が、スペイン・インフルエンザより勝っていた。二、スペイン・インフルエンザによる死亡率は、高いとは言えなかった。三、スペイン・インフルエンザは突然やってきて、人々をなぎ倒しはしたが、あっという間に去り、戻ってこなかった、四、スペイン・インフルエンザは、超有名な人物の命を奪わなかった。」(速水、429-30)

クロスビーの『史上最悪のインフルエンザー忘れられたパンデミック』は、スペイン・インフルエンザから約70年が経過した1989年(最初の版は1976年刊)に、早くもその事実と人々の対応を詳細に記述した。先に紹介した速水氏の著作とともに、今日のコロナ・ウイルスを我々がどのように理解し、立ち向かうべきなのかを深く考えさせてくれる。ふたつの著作とも大著であるが、このStay Homeの期間に、ぜひ多くの方が読んでいただきたいと思う。

上の写真はクロスビー(Alfred W. Crosby)である。ワシントン・ポストの"Alfred Crosby, environmental historian of ‘Columbian exchange,’ dies at 87"と題する記事を利用させていただいた。

さらに詳しくは、書評論文「スペイン・インフルエンザに関する3つの基本文献の紹介論文】(クリックしてください)をご参照ください。


『史上最悪のインフルエンザー忘れられたパンデミック』(1)

1918年のスペイン・インフルエンザについての一連の貴重な文献を紹介するブログの第3回目として、今回はクロスビー『史上最悪のインフルエンザー忘れられたパンデミック』(西村秀一訳、みすず書房、2004年、原著は1989年刊)を紹介したい。
本書は、スペイン・インフルエンザについての最も詳細な著作であるとの評価が高く、本文が435ページ、参考文献と索引が付く大著である。

目次は以下の通りである。
第1部 スパニッシュ・インフルエンザ序論、第1章 ⼤いなる影
第2部 スパニッシュ・インフルエンザ第⼀波――1918年春・夏、第2章 インフルエンザウイルスの進撃、第3章 3か所同時感染爆発──アフリカ、ヨーロッパ、そしてアメリカ
第3部 第⼆波および第三波、第4章 注⽬しはじめたアメリカ、第5章 スパニッシュ・インフルエンザ、合衆国全⼟を席巻、第6章 フィラデルフィア、第7章 サンフランシスコ、第8章 洋上のインフルエンザ──フランス航路、第9章 ⽶軍ヨーロッパ遠征軍とインフルエンザ、第10章 パリ講和会議とインフルエンザ
第4部 測定、研究、結論、そして混乱、第11章 統計、定義、憶測、第12章 サモアとアラスカ、第13章 研究、フラストレーション、ウイルスの分離、第14章 1918年のインフルエンザのゆくえ、
第5部 結び、第15章 ⼈の記憶というもの──その奇妙さについて

まず、第11章 統計、定義、憶測の付録として掲載されている統計から紹介したい。上記書は、大部分が様々な資料からの詳細な個々の事実の記述であるので、これらの統計から、当時のアメリカでの実情についての概観を得たい。
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統計は3つからなっている。表1は、インフルエンザおよび肺炎による死亡者数,人口1000人あたりを示している。左端の欄の死亡者総数は他の表に比べても少ないので、おおよその傾向として理解しなければならない。
2年にわたってアメリカを襲ったスペイン・インフルエンザは、1918年の9-12月の死亡者が、全登録州で人口1000人あたり4.8人と最も多く、1919年にはしだいに少なくなった。地域別に見ると、時期的な傾向は変わらないが、ペンシルバニア州(北東部、最大の都市フィラルデルフィア)の死亡率が、1918年の9-12月に7.3とかなり高い。

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次に、インフルエンザおよび肺炎による死亡者数の実数から、平常時のインフルエンザおよび肺炎による推定死亡者数を引いた超過死亡者数と、人口10万人あたりの数に換算した超過死亡者数表3で見てみよう。
超過死亡者と言う方法は、前回のブログで紹介した速水氏の『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』でも採用された方法で、死亡者を過大に評価する可能性を排除し、より正確な実態を把握できる。
なお、p.409の注は、「パンデミックによる「超過死亡」(Excess Mortality)  パンデミックがあったときの(インフルエンザ以外の死因を含めたすべての)ある期間内の死亡者数のうち、パンデミックがなかったと想定した場合にくらべての死亡者数の増加分をいう。」と説明している。
表1と比べ調査された期間は短いが、表1と同様に1918年9月から12月で、人口10万人あたりの数に換算した超過死亡者数が合計で440人と最も多く、翌年前半には89人まで低下した。地域的な違いについては、表1と同様である。

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最後に表2 登録地域における,インフル工ンザならびに肺炎による死亡、死亡者と1000人あたりの換算数を示してみよう。
まず、死亡者の実数は1918ー19年の合計のみ掲載した。また、表には特に注目すべき年齢層のみ示したが、1歳未満を中心とする5歳未満合計と、25-29歳を中心とするその前後の層の死亡者が非常に多いという特徴が明らかになる。
次回のブログで紹介するが、アラスカなどでは、多くの若い成人層が亡くなって孤児が増えたという悲惨な結果も生まれた。また、多数の若い成人層の死亡は、おそらく経済活動にも深刻な影響を与えたであろう。
以上3つの表から得られた特徴は、日本でも同様で、スペイン・インフルエンザが同じような影響を各国に及ぼしていることがわかる。

前回のブログでは、Niall P. A. S. Johnson, Juergen Mueller (2002)で、世界全体の状況を示したが、そこでのアメリカの死者は675,000人、人口1000人あたりの死亡者は6.5人と見做している。この数値を念頭に、上記の3つの表を比較・参照していただきたい。
なお、アメリカの死亡率は、日本とドイツを除く先進工業国とほぼ同じ水準である。世界の死者数が約5000万人、最大で1億人で、インドをはじめとする発展途上国が著しく多かったことも、あわせて念頭に置いておいていただきたい。

次回のブログでは、『史上最悪のインフルエンザ』の他の興味深い章について紹介したい。

さらに詳しくは、書評論文「スペイン・インフルエンザに関する3つの基本文献の紹介論文】(クリックしてください)をご参照ください。


2020年4月28日火曜日

速水融『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』(2)

Pandemic Influenza: The Inside Storyから
速水融『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』(1)で取り上げられなかったいくつかの点について紹介したい。

まず、スペイン・インフルエンザの世界的な影響である。このテーマを明らかにすることで、日本の位置がわかる。速水氏は冒頭で以下の様に述べておられる。
「スペイン・インフルエンザによる死亡者は、世界全体で二〇〇〇万から四五〇〇万、日本では内地だけでも筆者の計算では五〇万人近くに達する。当時の世界の人口は二〇億たらず、日本内地が五五〇〇万人であったことを思うと、約一~二パーセントである。」(13)ただ、なぜかここではこの数値の出所が示されていない。


そこで、速水氏の著作が刊行される前に発表されたNiall P. A. S. Johnson, Juergen Mueller (2002)がまとめたデータを一覧にして検討したい。
論文は5つの表を作成しているが、右の表では、主要国のデータを中心にまとめた。インフルエンザの影響を最も深刻に受けたのは、インドである。死者が1850万人で人口1000人に対する死者比率が60.5(原表では6.1)に達する。中国は多くの文献で不正確で、この論文も人数を幅広く推測している。
(なお、世界合計の人口1000人に対する死者比率は~25-50(原表では~2.5-5.0))
上記論文は、日本については『流行性感冒』の数値を採用している。右の表では、主に英米をはじめとする主要先進国のデータを掲載したが、日本の死亡率はドイツを除く先進各国と、ほぼ同じ水準である。後発資本主義国日本が、先進資本主義各国の水準にインフルエンザを何とかおさえ込んだと言えるだろう。

Wikipediaから
次に、もうひとつの論点であるスペイン・インフルエンザに対する各国の対応である。日本については『流行性感冒』がまとめた対応策を同書を取り上げたブログで詳しく紹介した。
ここでは、アメリカの各都市の対応を比較した興味深い論文があるので紹介しよう。
Howard Markel, MD, PhD他6名の、Nonpharmaceutical Interventions Implemented by US Cities During the 1918-1919 Influenza Pandemicである。論文では、主にセントルイス、ニューヨーク、デンバー、ピッツバーグが比較され、セントルイスが早くから実施した学校閉鎖や公共の集会の中止などの非医学的な介入が、インフルエンザの抑え込みに対して効果があったことが示されている。
日本について、速水氏が指摘するように、「こういった事態に、東京府、東京市は何もしなかったのか。何をすべきか分からなかった、というのが実相であろう。」(163)しかし、このセントルイスの対応と、『流行性感冒』に示された日本の対応策にはそれほど大きな違いは無かった。日本においても非医学的な介入が一定の効果を示したと推測される。

「人々はインフルエンザにどう対したか?」
上の問いについて速水氏は、「未曾有の大量の死者をもたらしたスペイン・インフルエンザに対し、政府や医学界は何も対策を講じなかったのか。
答えはイエスでもあり、ノーでもある。・・・何とかやりくりして、最悪の事態を回避した。何の準備もなかった当時のことを考慮すれば、これには「天晴れ」印を付したいくらいである。スペイン・インフルエンザによる死亡者数が、人口の〇・八パーセントでとどまったのも、いく分かはこういった対策が効いたのかもしれない。」(432-3)と述べている。

「教訓」
速水氏は続ける。「以上のように、スペイン・インフルエンザの病原体は、当時の専門研究者にとっても想定し得る範囲外のものであり、そうである以上、流行を食い止める方法を見つけることは不可能であった。・・・しかし、この過程に、日本の研究者はなんら関与していない。」
「結論的にいえば、日本はスペイン・インフルエンザの災禍からほとんど何も学ばず、あたら四五万人の生命を無駄にした。」(435-6)
速水氏のこの箇所での結論は、前段の評価とは異なって大変厳しい。しかし、日本の当時の実情についての包括的な調査の実施、それによる死亡率を含む影響の解明、低い死亡率に抑えようとした日本の様々な対応策を、当時の先進資本主義国と比較してみると、後発資本主義国日本が大きく遅れているとは言えない。
ただし、日本でスペイン・インフルエンザが長く忘れられ、研究も遅れてしまったのは事実である。その主な理由としては、直後に日本を襲った関東大震災や、急速な経済発展を達成し海外進出を加速した日本で、先進各国との競争と対抗が大きな課題となったことなどが挙げられるだろう。

ともあれ、速水氏の『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』は、戦後日本での初めてのスペイン・インフルエンザの包括的な研究であり、豊富な実情の資料の発掘とともに、「超過死亡(excess death)」という方法による、その影響の見直しを提示された。コロナウイルスの終わりがなかなか見えにくい今こそ、多くの方に読んでいただきたい基本的な文献である。

なお、次回のブログでは、クロスビー『史上最悪のインフルエンザ』を取り上げたい。

さらに詳しくは、書評論文「スペイン・インフルエンザに関する3つの基本文献の紹介論文】(クリックしてください)をご参照ください。


2020年4月27日月曜日

速水融『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』(1)

速水 融『日本を襲ったスペイン・インフルエンザー人類とウイルスの第一次世界戦争』(藤原書店、2006年) は、戦後日本で最初のスペイン・インフルエンザについての本格的な研究である。速水氏は、当時の広範囲な新聞を収集し、状況を再現しようとされている。以下に掲載した新聞は一例で、多数の新聞記事が掲載されている。

それとともに、速水氏は『日本帝国死因統計』等の文献と、超過死亡概念を用いて、前回のブログで紹介した『流行性感冒 「スペイン風邪」大流行の記録』の死亡者数を、見直そうとされている。

目次は以下の通りである。
序章 “忘れられた”史上最悪のインフルエンザ
第1章 スペイン・インフルエンザとウイルス、第2章 インフルエンザ発⽣―⼀九⼀⼋(⼤正七)年春―夏、第3章 変異した新型ウイルスの襲来―⼀九⼀⼋(⼤正七)年⼋⽉末以後、
第4章 前流⾏―⼤正七(⼀九⼀⼋)年秋―⼤正⼋(⼀九⼀九)年春、第5章 後流⾏――⼤正⼋(⼀九⼀九)年暮―⼤正九(⼀九⼆〇)年春
本文中に掲載された新聞の一例、p.103
第6章 統計の語るインフルエンザの猖獗(しょうけつ、(好ましくないものが)はびこって勢いが盛んであること) 第7章 インフルエンザと軍隊、第8章 国内における流⾏の諸相、第9章 外地における流⾏
終章 総括・対策・教訓
あとがき、資料 1 五味淵伊次郎の⾒聞記、資料 2 軍艦「⽮矧」の⽇誌、新聞⼀覧、図表⼀覧

まず、このブログでは、速水氏の理論を詳細に展開している第6章を紹介しよう。速水氏が採用した方法は次の通りである。「有効な方法とは、「超過死亡(excess death)」概念の適用である。ここでいう超過死亡とは、ある感染症が流行した年の死亡者数を求めるに際し、その病気やそれに関連すると思われる病因による平常年の死亡水準を求め、流行年との差をもってその感染症の死亡者数とする考え方である。」(237、以下数字は本書ページ数)この方法を用いた統計は、『日本帝国死因統計』で、そこでの流行性感冒、肺結核等8項目が病因の範囲とされた。

図6-1 月別インフルエンザ死亡者数
この方法によって算出された大正7(1918)年10月に始まる「前流行」のインフルエンザ死亡者は260,647人、翌大正8(1919)年12月に始まる「後流行」では186,673人、合計で453,152人となり、『流行性感冒』の388,000人を上回る。この超過死亡数に依拠した月別のグラフが、左の図6-1 月別インフルエンザ死亡者数(全国)〔1918年一1920年〕である。前流行は大正7年10月に始まり、翌11月に14万人近くまで急激に増加してピークに達し、その後減少に転じる。後流行では、大正8年12月に始まって翌年1月に8万人近くに急増し、その後しだいに減少する。

図6-3 年齢別インフルエンザ死亡率
速水氏は次に男女別を考察されているが、大きな差は見られない。これに対して、図6-3 年齢別インフルエンザ死亡率(全国・男女別)〔1918年一1920年〕では、顕著な特徴を見出せる。なお、分母は国勢調査の年齢別人口である。
この図によれば、死亡率が高い山は2つある。ひとつは5歳までの乳幼児で、もうひとつは25歳から34歳までの生産の担い手である。現在流行しているコロナ・ウイルスでの高齢者に死亡者が多いという特徴とは異なっている。

図6-7-3 府県別インフルエンザ死亡率
府県別インフルエンザ死亡率も重要な特徴を明らかにしている。「前流行」期の死亡率上位五県を取り出すと、香川県・福井県・岩手県・青森県・岐阜県となる。同様に「後流行」期の死亡率上位五府県をみると、兵庫県・大阪府・徳島県・山梨県・沖縄県となる。
以上を、全期間としてまとめたのが、図6-7-3 府県別インフルエンザ死亡率(全期間)である。図で9%以上となっているのが、青森県、兵庫県、大阪府、香川県、徳島県である。大阪府・兵庫県と四国2県が大きな中心地となっている。

以上の分析を詳しく行った上で、速水氏は、「「前流行」の猖獗した県では住民の多くが免疫抗体を持ったので、「後流行」では比較的被害を受けずに済んだこと、逆に、「前流行」では、多くの死亡者を出すほど猖獗しなかった県では、抗体を持った者が少なく、「後流行」で多くの死亡者を出したことを物語っている。そうすると、「前流行」と「後流行」は同一のウイルスによってもたらされた可能性が強いと言えるのではなかろうか。」(260-1)という、もうひとつの重要な結論を導き出されている。

以上で、主に第6章を紹介したが、次回のブログでは、スペイン・インフルエンザの世界的な影響、各国の対応策と日本に関する速水氏の見解などについて検討したい。

さらに詳しくは、書評論文「スペイン・インフルエンザに関する3つの基本文献の紹介論文】(クリックしてください)をご参照ください。