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English Abstract
Publication of "An Official Record of the Emperor Showa Vol. 7" including the 2.26 Incident
This 908-page volume includes the important period before the Pacific War from 1936 to 1939. One of the key sections is the record related to the 2.26 Incident. According to this record, since the beginning, the Emperor Showa's intention for the 2.26 Incident to "suppress immediately" is clear and consistent. In contrast, military leaders were uneasy about the incident ringleaders' demands and action, and were unable to take unanimous action in response to the 2.26 Incident. This lack of consistent military leadership and disagreement predicts the start of war, its prolongation and the confusion at the end of the war.
『昭和天皇実録 第七』が刊行された。この巻は908ページから成り、1936年から1939年の太平洋戦争突入前の重要な時期を含んでいる。その最も重要な内容のひとつが、2.26事件に関するものである。その主な部分は、同書29ページから47ページまでである。
内容としては、『本庄日記』や『木戸幸一日記』がすでに刊行されていて、予想された通りであるが、改めて事件と天皇の考えと行動を理解することができる貴重な資料となっている。価格も安いので、ぜひ多くの人が読まれることを期待したい。
以下では、昭和天皇の以下の2つの重要な発言を取り上げたい。なお、これ以外に重要な内容としては、「陸軍大臣の辞表に対する御不満」(p.34、以下括弧内数字はページ数)もあるが、ここでは省略する。
2月26日
「侍従武官長拝謁、
午前七時十分、侍従武官長本庄繁に謁を賜い、事件発生につき恐懼に堪えない旨の言上を受けられる。これに対し、事件の早期終息を以て禍を転じて福となすべき旨の御言葉を述べられる。また、かつて武官長が斯様の事態に至る憂慮を言上したことにつき触れられる。以後、頻繁に武官長をお召しになり、事件の成り行きを御下問になり、事件鎮圧の督促を行われる。御格子までの間、武官長の拝謁は十四回に及ぶ。」(30、赤字は新保による)
朝日新聞東京版 1936年2月27日号外 (出所:聞蔵IIビジュアル) クリックしてご覧ください |
「股肱の老臣殺傷を御難詰、
なおこの日、天皇は武官長に対し、自らが最も信頼する老臣を殺傷することは真綿にて我が首を絞めるに等しい行為である旨の御言葉を漏らされる。また、御自ら暴徒鎮定に当たる御意志を示される。翌二十八日にも同様の御意志を示される。」(36)
この件について侍従武官長本庄繁は日記にこう記している。
「廿七日拝謁の折り、暴徒にして軍統帥部の命令に聴従せずば、朕自ら出動すべしと屡々繰り返され、其後二十八日も亦、朕自ら近衛師団を率ひて現地に臨まんと仰せられ、其都度左様な恐れ多きことに及ばずと御諌止申上ぐ。其当時陛下には、声涙共に下る御気色にて、早く鎮定する様伝へ呉れと仰せらる。真に断腸の想ありたり。」(『本庄日記』、235)
2月28日
「陸軍大臣の時局収拾案に逆鱗、
午後、侍従武官長本庄繁に謁を賜い、陸軍大臣川島義之・陸軍省軍事調査部長山下奉文より、首謀者一同は自決して罪を謝し、下士以下は原隊に復させる故、自決に際して勅使を賜わりたい旨の申し出があったことにつき、言上を受けられる。これに対し、非常な御不満を示され御叱責になる。ついで、第一師団長堀丈夫が部下の兵を以て部下の兵を討ち難いと発言している旨の言上を受けられる。これに対し、自らの責任を解さないものとして厳責され、直ちに鎮定すベく厳達するよう命じられる。」(40)
同じく『本庄日記』にはこう書かれている。
「陛下ニハ、非常ナル御不満ニテ、自殺スルナラパ勝手ニ為スベク、此ノ如キモノニ勅使杯、以テノ外ナリト仰セラレ、又、師団長ガ積極的ニ出ヅル能ハズトスルハ、自ラノ責任ヲ解セザルモノナリト、未ダ嘗テ拝セザル御気色ニテ、厳責アラセラレ、直チニ鎮定スベク厳達セヨト厳命ヲ蒙ル。」(278)
私の『昭和天皇独白録』のブログで示したように、昭和天皇は、田中内閣辞職事件以来、立憲君主制の立場を強く意識され、内閣の決定に対して反対する事は無くなった。これへの例外が、2.26事件に対する発言であり、終戦の聖断であった。
『独白録』にはこう書いてある。
「私は田中内閣の苦い経験があるので、事をなすには必ず輔弼の者の進言に俟ち又その進言に逆はぬ事にしたが、この時と終戦の時との二回丈けは積極的に自分の考を実行させた。」(38)それだけではなく、事件首謀者や軍首脳が、当時の日本の経済や、国際的な環境について十分な理解があったとは言えないことについては、すでに、直前のブログ(「2.26事件を国際金融・資本関係から考える、三谷太一郎「ウォール・ストリートと極東」を読む」、「2.26事件を金融・証券市場と経済の実態から考える、「日本証券史」を読む」)で論じた通りである。
(ブログのTOP、ブログの目次, 新保博彦のホームページ)
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