2020年8月11日火曜日

疫病と闘い続ける北斎

YouTubeチャンネルを開設しました。新保博彦のチャンネルです。以下の内容を含む「北斎の須佐之男命厄神退治之図と晩年の大作群」を作成しました。(2023.5.22)

現代に生きる我々は、新型コロナの拡大に苦しんでいる。しかし、過去の人々は、我々以上に様々な疫病に苦しんでいた。日本を代表する画家北斎は、当時の人々とともに疫病との闘いに一貫して挑み続けていた。いくつかの代表的な作品を紹介したい。


まず、「須佐之男命厄神退治之図」(1845年)である。この図は、私のブログ「北斎晩年最大の傑作、須佐之男命厄神退治之図 No.1」(2017年1月23日)で紹介したが、もう一度掲げたい。

凸版印刷によれば、同社は、「関東大震災で焼失した「須佐之男命厄神退治之図」の残された白黒写真から、凸版印刷の最先端デジタル技術を活用し、撮影された当時の彩色された絵馬を原寸大で推定復元しました。」

絵馬では、中央やや右上の白い装束を着た「須佐之男命」が、朱色と思われる服をまとい、腕には疱瘡の痕が見える疱瘡神(疱瘡(天然痘)を疱瘡をもたらすと信じられた疫神)、紫の衣をまとった梅毒の厄神、風邪をはやらせる疫病神、風邪の神などと闘おうとしている。この創作意図が明白で、壮大なスケールの作品は、北斎の作品のひとつの集大成とも言えるだろう。
すみだ北斎美術館

もうひとつ有名なのが、⾁筆「朱描鍾馗(しゅがきしょうき)図」(絹本⼀幅)である。北斎は同様の作品を何度も描いたが、右は、弘化3(1846)年の作品である。春朗の落款を持つ(最初期の)唯一の肉筆画の作品は『もっと知りたい葛飾北斎』p.15に掲載されている。

この作品について、すみだ北斎美術館は次のように説明している。「中国の厄病除けの神とされる鐘馗を描いた図です。当時流⾏った疱瘡には⾚いものが効くという俗信があったため、端午の節句にも疱瘡除けの願いを込めて鐘馗の幟が飾られていました。・・・数え87歳のときに描いた作品です。」
北斎が、この種類の画を何度も描き続けたのは、当時の様々な疫病が繰り返し人々を苦難に陥れたと言うことだろう。

日本美学研究所
もうひとつ疫病に対して北斎が闘ったと考えられる作品が、肉筆画「鎮西八郎為朝図」(1811年頃)である。この作品は大英博物館が所蔵している。為朝も、北斎によって何度も描かれており、有名なのは『鎮西八郎為朝外伝 鎮西弓張月』である。

「源為朝は平安時代の勇猛な武将で古来より為朝の名を記した札を家に貼ると為朝の武威を恐れ 疫病が退るとされてきました」(築地・波除神社)
右は波除神社の「疫病除け神符」である。

このように、北斎を疫病と闘い続ける絵師としてみてみると、万能の天才北斎のもうひとつの姿が見えてくるように思われる。

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2020年7月16日木曜日

NODA・MAP『贋作 桜の森の満開の下』が8月14日再登場

NODA・MAP「贋作 桜の森の満開の下」が、WOWOWで8月14日に再登場する。6月にはシネマ歌舞伎「野田版 桜の森の満開の下」が衛星劇場で放映されていたので、両者をほぼ同時に見ることができる機会を得られそうだ。私は両者をともに録画済みだが、また楽しみがひとつ増えた。

「遡ること1989年。かねてより自身を「安吾の生まれ変わり」と公言してはばからなかった野田は、敬愛する作家・坂口安吾の「桜の森の満開の下」と「夜長姫と耳男」を主な下敷きとして、そこに幾つもの安吾作品のエッセンスを散りばめるという大胆な剽窃(=remix)によって、野田にしか描くことのできない壮大な戯曲を書き下ろした。それが『贋作 桜の森の満開の下』の誕生だ。」(nodamap.com)

贋作版はこうして30年もの長い歴史があるが、その中にはパリ国立シャイヨー劇場での公演もあった。贋作版もシネマ歌舞伎版もともに、舞台や衣装の美しさはともにすばらしいが、贋作版は、豊かに舞い散る桜と、随所に使われるテープがとても印象的だ。

贋作版は耳男が妻夫木聡、夜長姫が深津絵里だが、この二人の演技がすばらしい。野田は妻夫木を「弱っちい、翻弄される側の人間」などと評している。深津は、耳男の耳を切り落とすよう命じたり、最後の場面では人々を次々と殺すように命じたり、その優しい表情とは全く異なる妖しさを見事に演じている。

贋作版、テレビから
ところで、前回のWOWOWの放送の最後の部分に、野田や出演者のインタビューがあったが、そこで野田は鬼について次のように述べている。
それは、贋作版の最後の天皇の御幸と鬼の行列がクロスする場面に、人間と鬼の関係がよく表れていると言う。「作った人間と、土の下に埋もれたものとしての鬼」である。
シネマ版、テレビから

ただ、シネマ版では、鬼達の衣装は画像のように、歌舞伎らしい豪華さだが、このような交錯は表れず、鬼は花道を通って去っていく。シネマ版の演出者は、どのように考えているのだろうか?

ところで、小松和彦氏は、鬼を次のように説明している。「「鬼」は「人間」の反対概念である。すなわち、日本人が抱く「人間』概念の否定形、つまり反社会的・反道徳的「人間」として造形されたものなのである。」『鬼と日本人』、p.6)確かに、私達の周りには様々な鬼がいる。


こう書いてしまうと、ストーリーが明解のように聞こえるが、実はそうではない。この点を、妻夫木は次のように語っている。野田作品は「言葉にならない何かを表現している」。59公演をこなした自分にも観客にも、何もかもがすばらしいにもかかわらず、演劇から得られる「感動の意味がわからない」と言う。「贋作 桜の森の満開の下」の底流には、先ほどの野田のストーリーがあるのだろうが、この舞台には、様々なストーリーが織り込まれているので、ストーリーがとても複雑だからだろう。その複雑さからいろいろな意味を見出せるのが、この劇の豊かさになっているのだろうと思う。

お盆のひとときにぜひ観ていただきたい舞台(録画)である。

なお、シネマ歌舞伎『野田版 桜の森の満開の下』については、左のタイトルをクリックして、私のブログを参照してください。

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2020年6月1日月曜日

スペイン・インフルエンザ、中国での実態

スペイン・インフルエンザについての世界統計
私の一連のスペイン・インフルエンザについてのブログで、取り上げた発展途上国はインドであり、インドはこのパンデミックの最大の被害国であった。では、もうひとつの大国中国はどうだったのだろうか?
私のブログでは、スペイン・インフルエンザについての世界的な統計として検討した2つの論文、Niall P. A. S. Johnson, Juergen Mueller (2002)と、K. D. Petterson and G. E. Pyle (1991)は、ともに中国の死者を400万人から950万人と推計している。

1918年からの数年間に、中国社会では何が起きたのだろうか?1911年に始まった辛亥革命は、250年間以上続いた清王朝を倒し共和制の新しい時代を切り開いた。1919年には中国北京の大学生を中心として起こった民族運動である五四運動が起こり、1921年には中国共産党が設立された。このように激しく揺れ動いた社会で、スペイン・インフルエンザには十分に目が向けられなかった可能性がある。

中国の都市を捉えた『流行性感冒』
内務省『流行性感冒』(1922年)は中国にも着目しているが、対象となったのは都市が中心で、感染爆発が起きているようには見えない。
「満洲地方に於ては大正八年十一月又は十月下旬より本病患者の発生を見十二月に入りて稍々流行激げしき地方もありたるも多くは激げしき流行を見ずして翌九年一月下旬又は二月上旬に終熄せり、一般に病勢は先年のものに比して軽症にして患者に対する死亡率は約二%乃至五%位にあり。」
この後、山東について触れ、次に以下のように記述している。
「支那地方に於ける状況 二、三の地方を除き流行一般に軽微にして或は患者発生なき地方もありき。・・・香港に於ける患者概数は一月一日より二十三日迄に四万五千人発生し人口の約一割に当れり。」(以上、p.69-72)

飯島渉氏の『感染症の中国史』
飯島渉氏の『感染症の中国史』(中公新書、2009年)は、次のように書いている。「中国でもインフルエンザの流行が確認できますが、その実情はよくわかっていません。世界各地のインフルエンザの流行状況との比較から、中国でも1000万人近くの死者が発生したとされる場合もあります。しかし、中国海関などの資料を勘案すると、それは過大な数字で、中国での死者は100万人程度にとどまったのではないかと考えられます。」(p.195)
同書は、1919年の中国の感染症については、コレラを中心に記述している。飯島氏は、当時の中国ではコレラの蔓延がより重要な課題だったとされているようである。特に、詳しい調査の対象となっているには、上海共同租界と香港、そしてコレラ蔓延の経路となった主要鉄道路線周辺である。

What happened in China during the 1918 influenza pandemic?
最後に、海外の論文をみてみよう。K.F. Cheng, P.C. Leung, What happened in China during the 1918 influenza pandemic?, International Journal of Infectious Diseases (2007) 11, 360—364である。
この論文には、2つのデータが掲載されている。まず香港と上海の死者だが、『流行性感冒』と同様に少なく、十分な調査とは言えない。もうひとつの調査は、熱河省 (Rehe County)のデータで、感染者6200人、死者151人、患者に対する死者比率は2.4%となっている。

なお、この論文は中国で感染者と死者が少ない事実について、2007年の論文ではあるが、「伝統的な漢方薬 (traditional Chinese medicine (TCM))が重要な役割を果たしたかもしれない」 (p.363)と述べている。しかし、この結論を明確に証明するデータは掲載されておらず、また中国のスペイン・インフルエンザ以後の感染症の歴史をみても、この推論を証明するのは困難だと思われる。

以上いくつかの重要な文献を検討してきたが、スペイン・インフルエンザの中国での影響を十分に明らかにすることはできなかった。そもそもデータが、一部の大都市の断片的なものにとどまっており、さらに、人々の多くが住む地方についてはほとんどデータが無い。
第1次世界大戦後の中国の実情についての中国での研究は、中国共産党の設立と発展が中心で、より広範囲な経済と社会の研究は大きく立ち後れている。中国におけるスペイン・インフルエンザの影響についても明らかにされるのは、まだ先のようである。

さらに詳しくは、書評論文「スペイン・インフルエンザに関する3つの基本文献の紹介【論文】(クリックしてください)をご参照ください。

2020年5月14日木曜日

スペイン・インフルエンザ:朝鮮・台湾とインド

私は、私のブログ「『流行性感冒 「スペイン風邪」大流行の記録』(1922年)」で、朝鮮と台湾について改めて検討するとしていたが、その課題を、私のブログ「脇村孝平『飢饉・疫病・植民地統治-開発の中の英領インド』」で行ったインドとの比較で行いたい。

さらに詳しくは、書評論文「スペイン・インフルエンザに関する3つの基本文献の紹介【論文】(クリックしてください)をご参照ください。

まず、『流行性感冒 「スペイン風邪」大流行の記録』の調査を表1にまとめた。人口については、速水融『日本を襲ったスペイン・インフルエンザー人類とウイルスの第一次世界戦争』から補った。
表1によれば、朝鮮における死者と対人口死者率(パーミル)は、内地人が3,900人と11.7、朝鮮人で180,500人と10.8になる。台湾では、『流行性感冒』自体の試算では、内地人が630人と3.93、本島人が23,600人と6.89になる。速水氏の人口データで計算した対人口死者率(パーミル)は表の最下段に記載した。

次に先の速水氏の試算を表2で紹介しよう。速水氏は、「超過死亡(excess death)」という方法を適用される。「ここでいう超過死亡とは、ある感染症が流行した年の死亡者数を求めるに際し、その病気やそれに関連すると思われる病因による平常年の死亡水準を求め、流行年との差をもってその感染症の死亡者数とする考え方である。」(237、以下数字は上掲書ページ数)
この方法によって計算された朝鮮での死亡者と対人口死者率(パーミル)は、内地人が3,400人と10.0、本地人(朝鮮人)が230,800人と13.8となる。『流行性感冒』の調査より朝鮮人の死者が増加する。

速水氏によると、台湾では、表3のように内地人の死者と対人口死者率(パーミル)は、1,400人と9.6、本島人(台湾人)が47,500人と13.6となる。『流行性感冒』に比較して、朝鮮と同様に大幅に増加する。

以上の検討をまとめてみよう。『流行性感冒』は、日本本土について、死者が389,000人、対人口死者率(パーミル)が6.75と推計していた。速水氏は超過死亡という方法で、その数値を見直し、それぞれ453,000人と8.10とみなした。
速水氏のデータに基づけば、第1に、朝鮮と台湾の両地域は、日本本土(内地)に比較して、内地人と現地人の両方で対人口死者率(パーミル)が、高くなっていることがわかる。第2に、朝鮮と台湾の両地域で、内地人対現地人の対人口死者率(パーミル)が、後者が前者の1.4倍前後となっている。
この理由について、速水氏は「それを通じて言えることは、内地人と現地人の死亡率の間に、ある程度の較差があったことである。これは、直接には、医療や予防の面で、また間接には、日常生活の水準において、日本人が現地人よりはるかに恵まれた環境にあったことを示しているだろう。」(速水著、p.421)
スペイン・インフルエンザは、地域、人種や民族の違いには関係なく甚大な被害をもたらした。しかし、日本から現地に渡った人々は官僚や企業経営者、管理職などが多く、生活水準も高かった。これに対して、朝鮮・台湾は日本の統治下に入ってそれほど時間が経っておらず、両地域の工業化や近代化、公衆衛生の普及も始まったばかりだったことが、上記の格差に反映していると言えるだろう。

最後に、朝鮮と台湾の状態を、脇村孝平『飢饉・疫病・植民地統治-開発の中の英領インド』と比較してみよう。脇村氏は、K. D. Petterson and G. E. Pyle (1991)に基づいて、スペイン・インフルエンザによる死者が1250万~2000万人、対人口死者率(パーミル)が42~67と推定していた。対人口死者率は、日本と日本の統治下の地域に比較して大幅に高い。また、コミュニティー別にみると、ヒンドゥー(低カースト)の対人口死者率(パーミル)が約900と、現地人が異常に高く、ヨーロッパ人は40台で、その格差は日本と朝鮮・台湾と比較して著しく大きかった。
これらの数値は、第1次世界大戦直後の、イギリスのインド統治と、日本の朝鮮・台湾統治の違いの重要な一面を表している。


2020年5月10日日曜日

脇村孝平『飢饉・疫病・植民地統治-開発の中の英領インド』

これまでの5回のブログで、スペイン・インフルエンザについての最も重要な3つの著作を紹介してきたが、今回はこのインフルエンザで最も深刻な影響を受けたインドに関する数少ない日本語の貴重な文献を紹介したい。脇村孝平『飢饉・疫病・植民地統治-開発の中の英領インド』(名古屋大学出版会、2002年)である。

目次は以下の通り。
序論 飢饉・疫病と社会経済史
第Ⅰ部 飢饉と疫病の時代
第1章 英領インドにおける飢饉と疫病、第2章 飢饉・マラリアと死亡率、第3章 マラリアと植民地的開発、第4章 インフルエンザ・パンデミックとインド、第5章 植民地的開発・エンタイトルメント・疾病環境
第Ⅱ部 飢饉・疫病と植民地統治
第6章 飢饉救済政策の制度化、第7章 植民地主義と疾病・医療、第8章 植民地統治と公衆衛生
結語、あとがき、図表一覧、索引

まず、著者の本書全体の視角を紹介しよう。「(1)英領期インドの飢鍾と疫病という現象を,「生活水準」という概念に関連づけて究明する、(2)疾病史を環境史の文脈で位置づけ直す、(3)「災害管理」(disaster management)という問題に着目する、(4)「帝国医療」(imperial medicine)という問題設定から,この時期のインドにおける疫病への対応を考える」(本文序論から要約)この視角から第4章も検討されている。


著者の検討範囲は長い期間におよぶが、インド史が専門ではない私はその全体をコメントできないので、スペイン・インフルエンザに関する第4章を中心に紹介したい。
スペイン・インフルエンザは、世界各地とほぼ同じ時期にインドを襲った。まず注目したいのは、表1(原表4-1)に示した地域別の実情である。Annual Report of the Sanitary Commissioner with the Government of India, 1918のデータに基づいている、この文献は、オリジナルが公開されている。この表によれば、英領インド全体で死亡者が709万人、100万人を超えているのが連合州(現在のウッタル・プラデーシュ州、ウッタラーカンド州)とボンベイ(ムンバイ)である。州内の都市と農村の格差についても著者は言及している。なお、死亡者については、超過死亡者という方法が採られている。

次にThe Statesman (Weekly Edition)による表2(原表4-3)は、各コミュニティー別の死亡率を示している。ヒンドゥー(低カースト)が898.38(パーミル、以下同じ)、 ジャイナ教徒が465.70、この2つが特に高く、対照的にヨーロッパ人が43.41 と著しく低い。植民地での支配者と被支配者との大きな違いが示されている。ただし、インドの主要なコミュニティーの数値が非常に高く、先の表1のインド全体の数値と整合的かについてやや疑問が残る。
1918年には、食料穀物価格が、モンスーンの不調と第一次世界大戦によるインフレによって、急激に上昇した。その結果として生じた「食糧不足の状況はインフルエンザの被害を増幅したであろうが,他方でインフルエンザの影響が農業活動を困難にしたことも確かであろう。」(本書、p.124)こうして、食糧不足が低所得階層に大きな被害をもたらしたと著者は指摘する。

ところで、「インドにおけるインフルエンザの人的被害は未曾有の規模であったが,当時の植民地政府の公文書類の中でインフルエンザの影響についてふれたものは意外に少ない。また,当時の状況を知るために,新聞のいくつかを通読してみても, これまた意外にその情報は限られている。」(125)戦争という異常な事態と、インフルエンザの影響が短期間に集中したことが、このような事態を生み出したと著者は見ている。
そして、著者は「当時のイギリス植民地政府の公衆衛生政策の無策,特に農村における無策が大きな影響を与えたことは間違いないと言えるであろう。」(129-30)と結んでいる。

ところで、イギリス植民地政策の結果としてのインドのこの状況は、日本の朝鮮・台湾の統治政策との比較検討を課題としている。著者は、第8章 植民地統治と公衆衛生の特に3で日本との比較を試みているが、この興味深い課題については次のブログで検討したい。

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最後に、著者がこの章の付表として掲載している「表3 世界におけるインフルエンザ大流行(1918~19年)の推定被害状況(死亡者数と死亡率)」を掲載しておこう。表は、K. D. Petterson and G. E. Pyle, 'The Geography and Mortality of the 1918 Influenza Pandemic', Bulletin of the History of Medicine, 65, 1991, pp. 14-15に基づいている。

この表と、私が先にブログの「速水融『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』(2)」に掲載したNiall P. A. S. Johnson, Juergen Mueller(2002)の表とあわせて参照していただきたい。インドについては、表3のPetterson & Pyleが、死者が1250万~2000万人、対人口死者率 (パーミル) が42~67と、幅を持たせた推計を行っている。このように主要な研究でも実態はまだ十分に解明されていない。今後の研究が待たれる。
100年前のインドの状況は、今回のコロナ・ウイルスが途上国に及ぼす大きな影響を推測させる。多くの方々が、その課題にぜひ関心を持っていただきたいと思う。そのために、脇村氏のこの著作はとても参考になる。

さらに詳しくは、書評論文「スペイン・インフルエンザに関する3つの基本文献の紹介【論文】(クリックしてください)をご参照ください。

この著作は高価なので、この著作の元となった論文はここからダウンロードして読むこともできます。

2020年5月3日日曜日

『史上最悪のインフルエンザー忘れられたパンデミック』(2)

原書表紙
『史上最悪のインフルエンザー忘れられたパンデミック』(1)では統計的な数値を中心に紹介したので、(2)では、それ以外の特に重要な箇所を紹介したい。

第5章 スパニッシュ・インフルエンザ、合衆国全⼟を席巻の、最後の節「都市問題と流行の絡み合い」で、著者クロスビーは、感染の急速な拡大と都市を結びつけている。アメリカの有力な都市には、海外からの移民や、アメリカの地方都市からの職を求めて移動してきた多数の人々が、密集して暮らしていた。そこでの衛生環境は決して良いとは言えず、さらに移民の多くは各自治体から出される指示や注意が理解されていなかった。こうして、都市はインフルエンザが急速に拡がる条件がそろっていた。この状態は、今日のニューヨークをはじめとする先進各国の中核都市での状態と酷似しているのだろう。

アメリカの大都市とともに、インフルエンザが猛威を震った場所がある。第12章 サモアとアラスカは、サモアについてその状態を詳しく伝えている。
「・・・人口は少なく、外界からたまに特別な接触があった以外は隔絶された状態を続けていた太平洋の小さな島々がある。これらの島々の原住民たちは、1918年のインフルエンザ・パンデミツクによって世界で最もひどい痛手を受けた人々だった。」(287)
ほとんど援助らしいものを受け取ることができなかった、ドイツ領有下の西サモアに対して、アメリカの支配下にあった東サモアに対してインフルエンザの持ち込みをふさぐためあらゆる手を打ったと言う。「もし、かつて帝国主義がほんの少しでも正当化されるような政策をおこなった国家があったとしたら、1918ー19年のアメリカン・サモアがまさにそれであり、サモア群島の住民たちも十分それを知っていた。」(298)

クロスビー(Alfred W. Crosby)
第7章 サンフランシスコ
本書でスペイン・インフルエンザに対する方策として詳しく述べられているのは、サンフランシスコにおけるマスクの着用である。流行当初から医療現場ではマスクは着用されていたが、サンフランシスコ理事会は全会一致で法的拘束力を持った着用条例を採択した。
1か月ほどで流行が下火になったため条例は解除されたが、その後再び流行が始まり、着用を改めて促す動きに対して、反マスク同盟が組織されるなど、市民の対立が深刻になった。当時は、マスクの着用でさえ、なかなか理解されなかったのである。
この章での検討をふまえて、著者は次のようにまとめている。「アメリカ社会は、特に都市においては、スパニッシュ・インフルエンザ・パンデミックに遭遇してどのようにふるまったのだろうか?もし、この問いがインフルエンザの予防と治療という点に関するものならば、答えはひとこと、「非常にお粗末に」である。しかし、1918-19年当時は、そのような目的を達成できる手段はごく限られたレベルのもの以外どこにもなかったのであるーそれは現在でもそう変わりはないのだが。」(149)

第15章 ⼈の記憶というもの──その奇妙さについて
速水氏の『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』は、アメリカでスペイン・インフルエンザが忘れられた理由について、クロスビーが記述した箇所を以下の様に簡潔にまとめている。
「一、第一次世界大戦に対する関心が、スペイン・インフルエンザより勝っていた。二、スペイン・インフルエンザによる死亡率は、高いとは言えなかった。三、スペイン・インフルエンザは突然やってきて、人々をなぎ倒しはしたが、あっという間に去り、戻ってこなかった、四、スペイン・インフルエンザは、超有名な人物の命を奪わなかった。」(速水、429-30)

クロスビーの『史上最悪のインフルエンザー忘れられたパンデミック』は、スペイン・インフルエンザから約70年が経過した1989年(最初の版は1976年刊)に、早くもその事実と人々の対応を詳細に記述した。先に紹介した速水氏の著作とともに、今日のコロナ・ウイルスを我々がどのように理解し、立ち向かうべきなのかを深く考えさせてくれる。ふたつの著作とも大著であるが、このStay Homeの期間に、ぜひ多くの方が読んでいただきたいと思う。

上の写真はクロスビー(Alfred W. Crosby)である。ワシントン・ポストの"Alfred Crosby, environmental historian of ‘Columbian exchange,’ dies at 87"と題する記事を利用させていただいた。

さらに詳しくは、書評論文「スペイン・インフルエンザに関する3つの基本文献の紹介【論文】(クリックしてください)をご参照ください。


『史上最悪のインフルエンザー忘れられたパンデミック』(1)

1918年のスペイン・インフルエンザについての一連の貴重な文献を紹介するブログの第3回目として、今回はクロスビー『史上最悪のインフルエンザー忘れられたパンデミック』(西村秀一訳、みすず書房、2004年、原著は1989年刊)を紹介したい。
本書は、スペイン・インフルエンザについての最も詳細な著作であるとの評価が高く、本文が435ページ、参考文献と索引が付く大著である。

目次は以下の通りである。
第1部 スパニッシュ・インフルエンザ序論、第1章 ⼤いなる影
第2部 スパニッシュ・インフルエンザ第⼀波――1918年春・夏、第2章 インフルエンザウイルスの進撃、第3章 3か所同時感染爆発──アフリカ、ヨーロッパ、そしてアメリカ
第3部 第⼆波および第三波、第4章 注⽬しはじめたアメリカ、第5章 スパニッシュ・インフルエンザ、合衆国全⼟を席巻、第6章 フィラデルフィア、第7章 サンフランシスコ、第8章 洋上のインフルエンザ──フランス航路、第9章 ⽶軍ヨーロッパ遠征軍とインフルエンザ、第10章 パリ講和会議とインフルエンザ
第4部 測定、研究、結論、そして混乱、第11章 統計、定義、憶測、第12章 サモアとアラスカ、第13章 研究、フラストレーション、ウイルスの分離、第14章 1918年のインフルエンザのゆくえ、
第5部 結び、第15章 ⼈の記憶というもの──その奇妙さについて

まず、第11章 統計、定義、憶測の付録として掲載されている統計から紹介したい。上記書は、大部分が様々な資料からの詳細な個々の事実の記述であるので、これらの統計から、当時のアメリカでの実情についての概観を得たい。
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統計は3つからなっている。表1は、インフルエンザおよび肺炎による死亡者数,人口1000人あたりを示している。左端の欄の死亡者総数は他の表に比べても少ないので、おおよその傾向として理解しなければならない。
2年にわたってアメリカを襲ったスペイン・インフルエンザは、1918年の9-12月の死亡者が、全登録州で人口1000人あたり4.8人と最も多く、1919年にはしだいに少なくなった。地域別に見ると、時期的な傾向は変わらないが、ペンシルバニア州(北東部、最大の都市フィラルデルフィア)の死亡率が、1918年の9-12月に7.3とかなり高い。

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次に、インフルエンザおよび肺炎による死亡者数の実数から、平常時のインフルエンザおよび肺炎による推定死亡者数を引いた超過死亡者数と、人口10万人あたりの数に換算した超過死亡者数を表3で見てみよう。
超過死亡者と言う方法は、前回のブログで紹介した速水氏の『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』でも採用された方法で、死亡者を過大に評価する可能性を排除し、より正確な実態を把握できる。
なお、p.409の注は、「パンデミックによる「超過死亡」(Excess Mortality)  パンデミックがあったときの(インフルエンザ以外の死因を含めたすべての)ある期間内の死亡者数のうち、パンデミックがなかったと想定した場合にくらべての死亡者数の増加分をいう。」と説明している。
表1と比べ調査された期間は短いが、表1と同様に1918年9月から12月で、人口10万人あたりの数に換算した超過死亡者数が合計で440人と最も多く、翌年前半には89人まで低下した。地域的な違いについては、表1と同様である。

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最後に表2 登録地域における,インフル工ンザならびに肺炎による死亡、死亡者と1000人あたりの換算数を示してみよう。
まず、死亡者の実数は1918ー19年の合計のみ掲載した。また、表には特に注目すべき年齢層のみ示したが、1歳未満を中心とする5歳未満合計と、25-29歳を中心とするその前後の層の死亡者が非常に多いという特徴が明らかになる。
次回のブログで紹介するが、アラスカなどでは、多くの若い成人層が亡くなって孤児が増えたという悲惨な結果も生まれた。また、多数の若い成人層の死亡は、おそらく経済活動にも深刻な影響を与えたであろう。
以上3つの表から得られた特徴は、日本でも同様で、スペイン・インフルエンザが同じような影響を各国に及ぼしていることがわかる。

前回のブログでは、Niall P. A. S. Johnson, Juergen Mueller (2002)で、世界全体の状況を示したが、そこでのアメリカの死者は675,000人、人口1000人あたりの死亡者は6.5人と見做している。この数値を念頭に、上記の3つの表を比較・参照していただきたい。
なお、アメリカの死亡率は、日本とドイツを除く先進工業国とほぼ同じ水準である。世界の死者数が約5000万人、最大で1億人で、インドをはじめとする発展途上国が著しく多かったことも、あわせて念頭に置いておいていただきたい。

次回のブログでは、『史上最悪のインフルエンザ』の他の興味深い章について紹介したい。

さらに詳しくは、書評論文「スペイン・インフルエンザに関する3つの基本文献の紹介【論文】(クリックしてください)をご参照ください。