2021年2月3日水曜日

『回顧 入江泰𠮷の仕事』

ずいぶん遅れてしまったが、貴重な写真集『回顧 入江泰𠮷の仕事』(写真:入江泰𠮷、編集:入江泰𠮷記念奈良市写真美術館、光村推古書院)を紹介します。
「奈良大和路をこよなく愛し、数多くの作品を残した写真家・入江泰𠮷(一九〇五~一九九二)」(はじめに)の作品を、時代順に紹介した写真集である。

目次は以下の通り。
はじめに
第一章 写真家への歩み「文楽」(一九四〇年代~)
第二章 新たな道を求めて(一九四五年~)、交友録、佐渡旅情
第三章 古都の暮らし、人(一九五〇年代~)
第四章 奈良大和路の写真家として(一九五〇年代後半~)
第五章 新たな大和路を求めて(一九七〇年~)、造形
第六章 十二人目の練行衆(一九四六~一九八〇年頃)、京都の庭
第七章 花は美の究極である(一九八〇年頃~一九九一年)
第八章 大和路に魅せられて(一九七五年頃~一九九一年)
解説、入江泰吉 略年譜、あとがき

まず、圧倒的な存在感を示しているのが、第2章に掲載されている「東大寺戒壇堂広目天像」(25ページ、以下数字は同書ページ数)。広目天は、西方にあって仏法を守護する四天王のひとつ。同書の表紙ともなっている。

右は、第5章の「雪の飛火野」(178-9)。「この時期、写真の世界にも変化が訪れていた。昭和二十六年頃からカラーフィルムによる写真の普及が進んでいた。私の周囲の写真仲間も、その多くがカラー写真に移行しつつあった。Lかし、私にはカラー写真に踏み切ることに躊躇があった。長年なじんできたモノクローム写真には、容易に捨てがたい愛着があったのだ。」(160)

こう言っていた入江が、カラー写真に取り組んだ1枚。その頃の写真の中でも、とりわけ明るく華やかで、いつもの飛火野とは違う1枚である。

「お水取り」の名で親しまれる東大寺二月堂の修二会(しゅにえ)での、「お松明」(268-9)と名付けられた1枚。第6章に掲載されている。この章では、章のタイトル「練行衆」たちのモノクローム写真が多い。

会は天平勝宝4年(752)に始まり、われわれが日常に犯しているさまざまな過ちを、懺悔するために、また、二月堂に上堂する練行衆の道明かりとして灯されると言う。(東大寺「修二会」)
僧が松明を持って走る回廊から、炎が激しく流れ、その強烈な明るさと熱さが写真からでも十分に伝わってくる。

写真のテーマは大きく変わって、第7章は花、「ライフワークである大和の風景と関連して、もうひとつ私が長く取リ組んできたテーマに「万葉の花」がある。・・・花の写真を写す時、私は花がいちばん生き生きと美しく続く一瞬に賭けることにしている。」(293)

第7章でもひときわ美しいのが、「うめ」(294)。入江が亡くなる前の年の作品である。奈良公園には、片岡梅林をはじめとして梅が咲き誇るところがいくつかある。私も写真を撮りに何度か出かけた。
入江の写真集には、中西 進『入江泰吉 万葉花さんぽ (小学館文庫) 』という作品もある。

第7章と第8章は晩年の作品で、花を除くのが最後の章、第8章である。この章は、入江のよく知られた写真が多く掲載されている。

「風景写真とひとロにいうが、大和路の場合は、それほど風光明媚な景観とはいいがたい。だが、そのさりげない景貌に、風景の「風」の趣が醸されているのである。」(314)

左の写真は「これはこれはとばかりに花の吉野山」(316-7)と題されている。4月になると、吉野山は全山で、下千本から順番に桜が豪華絢爛に咲き誇る。

吉野の桜は、「「花見」のためではなく、山岳宗教と密接に結びついた信仰の桜として現在まで大切に保護されてきました。」(吉野町)奈良の風景は、どこかで信仰と結びつくことが多い。

この写真集は384ページで、ほぼすべてのページに多数の写真が掲載されており、それが時代順に並べられているので、入江がどのように写してきたかがとてもよく理解できる。また、ところどころに入江の書いた文章も掲載されているので、彼の写真家としての考えもよく理解できる。また、「交友録」(第2章)や「京都の庭」(第6章)などのコラム的な作品の紹介も、とても興味深い。ぜひ多くの方にお薦めしたい写真集である。

入江泰𠮷の他の写真集についての紹介は次の通りです。こちらもご覧ください。


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