2022年4月6日水曜日

コンクエスト『悲しみの収穫』:ソ連によるウクライナでのジェノサイドを告発する(2)

前回のスナイダー『ブラッドランド』に引き続き、スターリンによるウクライナでのジェノサイドについてのもうひとつの研究である、ロバート・コンクエスト(Robert Conquest)『悲しみの収穫 - ウクライナ大飢饉』(原著"THE HARVEST OF SORROW"、1986年、白石治朗訳、2007年、ページ数は 638p)を紹介したい。
コンクエストは、1917年、イギリス生まれの優れたソヴィエト史家であり、詩人、小説家でもある。原著ではコンクエストは、スタンフォード大学フーバー研究所の東ヨーロッパコレクションのシニアリサーチフェローなどとして紹介されている。

同書は3部構成で、第一部 主役たちー党、農民、国家、第二部 農民蹂躙、第三部 飢饉テロである。本ブログは、主に第3部を紹介する。

この著作の課題についいて、コンクエストは次のように書いている。「一九二九年から一九三二年までの間に、スターリンの指導のもとでソヴィエト共産党が、・・・ソ連邦全体の農民にたいしておこなった二つの攻撃という点に絞られる。つまり、富農撲滅運動と農業集団化の二つである。」、「つぎに、一九三二年から三三年までの間では、ウクライナおよび主としてウクライナのクゥバーニ川方面で集団化された農民が辛酸をなめた飢饉テロについて述べる。それは、農民にたいしてその能力以上に穀物の供出を割当て、最後の一握りの食糧さえも取りたて、しかも外部からの、それもソ連邦の他の地域からの、飢餓を防ぐための支援を断ち切ったためにおきたことであった。」(12)

スターリンによる穀物徴発による飢餓と、ウクライナ民族主義の弾圧

1932年に入って本格的な穀物徴発が次々と行われるようになった。この年末には、「人々は、すでに餓死しつつあった。しかし、モスクワは、要求の手をゆるめるどころか、いまこそ飢餓によるテロの道に突入していった。」(373)「人々は、冬中、死につつあったが、報告書はどれもみんな、実際に大量死がはじまるのは、一九三三年三月の初めからとしている。」(405-6)そして、つぎつぎと人肉食いにまで陥っていた。その凄惨な様子は、第十二章が詳しく描き出している。この極限状態に至って、ようやく穀物徴発は緩められていった。

また同時に、これまでも、そしてこの飢餓の最中にも、飢餓の責任を負わせる形で、ウクライナ民族主義への弾圧は執拗に続けられた。ウクライナ民族主義の粛清は、その後も「全滅のウクライナ」をめざして続けられた。「ウクライナにおいてソ連邦がとった行動にジェノサイドの罪があることは確かであろう。この協定文を起草したラファエル・レムキン教授は、少なくともそのように考えていた。」(454)とコンクエストは言う。

子供達の犠牲(第15章)

コンクエストはこの飢饉で多くの犠牲者を出した子供達を特に取り上げている。子供達を死に追いやった飢餓の描写はさらに読むのが辛くなる。「無理のないところ、私の結論はこうである。七〇〇万人の餓死者のうち、およそ三〇〇万人が子供であり、それも主として小さな子供であった。」(492)

ワシントンのホロドモール犠牲者追悼碑
飢饉の死亡者数(第16章)

何度かの国勢調査や、後の人口調査などから導き出した、コンクエストの死亡者についての結論は次の通りである。「農民の死亡者、一九三〇~三七年:一、一〇〇万人、この時期に逮捕され、その後、強制収容所で死亡したもの:三五〇万人、計一、四五〇万人。この合計のうち、富農撲滅運動によって死亡したもの六五〇万人。カザフ人の悲劇で死亡したもの:一〇〇万人、一九三二~三三年の飢饉で死亡したもの、ウクライナにおけるもの:五〇〇万人、北カフカースにおけるもの:一〇〇万人、その他の地域におけるもの:一〇〇万人」。(507-8)

(上の画像は、ワシントンのホロドモール犠牲者追悼碑、「ホロドモール」は飢えを意味するホロド(holod)と、絶滅や抹殺を意味するモル(mor)の合成語である。」)

飢饉情報の隠蔽

飢饉の情報は様々なルートで西欧、アメリカに伝わっていた。しかし、「アメリカ合衆国は、当時、ソ連邦と国交を結んでおらず(一九三三年十一月まで)、国務省は国交樹立のための準備をするよう命じられていた。こうした背景のなか、飢饉テロにかんする報告は、当局によって無益なものと受けとめられていた。」(516)多くの人が隠蔽に関わったが、「最大の嘘つき」はニューヨーク・タイムズのW・デュランティで、彼は、「ソ連の欺瞞にたいする西ヨーロッパ最大の協力者として、スターリン自身をインタビューするとか、スターリンに称賛されるとか、あらゆる種類の特典を与えられていた。」(530)以上のコンクエストの指摘は、スナイダーのものとも一致する。

コンクエストの結論:飢饉の原因

コンクエストの飢饉の原因についての結論は、次の通りである。「一、飢饉は、スターリンとその仲間たちによる穀物のあまりにも過度の徴発にその原因があった。二、ウクライナの党のリーダーたちは、当初、スターリンとその仲間たちに徴発目標があまりにも高すぎることを明白にしていた。三、徴発目標は、それにも拘わらず飢餓が始まるまで強制されていた。四、ウクライナのリーダーたちは、スターリンとその仲間たちにこの点を指摘していたし、スターリンたちには他のものからも真実を知らされていた。五、それでも穀物の徴発は続けられた。」(546-7)

なお、エピローグでは、その後の推移が書かれている。その後、ウクライナの解体がめざされたが、ウクライナの自主独立を潰すことは一時的にしかできなかった。そして、コンクエストは次のように結ぶ。「ウクライナの自由は、世界全体の政治的、道徳的問題の鍵であり、鍵となるべきものである。」(578)1986年に書かれたこの言葉は、今そのまま生きている。

ロシアによるウクライナ侵攻:歴史は繰り返そうとしている

ソ連とロシアの専制がやや緩み、過去の政策の反省と修正が行われたのは、スターリン批判が行われた1956年からの一時期と、1980年代後半からのペレストロイカの時期である。これらの時期には、ソ連時代の犯罪を記録した文献も一部は公開された。しかし、2000年になると、ソ連KGB出身のプーチンが権力を掌握し、あらゆる批判を押さえ込んで、再びウクライナや周辺諸国を支配下に置こうとしてきた。歴史は繰り返されようとしている。


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