ロシアのウクライナ侵攻は、人々にロシア(ソ連)とドイツ、そしてその狭間で生き残りに苦闘しているウクライナ、ポーランド、バルト3国などの、特に戦間期の歴史と経済に関心を向かわせている。まず、ナチス・ドイツであるが、その経済を理解するためには、日本と比較するのが良い。その比較を通じて、ドイツを正確に理解できるだけではなく、教科書的な理解とはとは全く異なる日本が見えてくる。論文は、「誤りだった戦前の日独同盟:全く異質な日独経済システム」で、以下はごく簡単な論文の紹介である。ぜひ論文そのものもあわせてご参照ください。【論文(1)(2)」統合版】←クリックしてください。
1 ドイツの対外経済構造
独日の比較は、対外経済構造について貿易と国際収支で行い、さらに国内の有価証券市場についても行う。ただし後者はスペースの都合で省略する。
以下の表はドイツの国際収支を簡略化して示している。(図自体も簡略にしている)貿易のうち輸出が最も多かったのは、1929年の137億マルクで、その年以降減少に転じ、特に1932年からは激減している。1934年の42.6億マルクは、1929年の1/3以下である。
次に重要なのは、長期資本取引である。1920年代後半は10億マルクを超える流入が継続し、利子支払いが大きいとは言え、ドイツ経済の復興に大いに貢献した。しかし、1931年以降は、恐慌に見舞われたアメリカからの流入が止まり、ドイツ経済は困難に陥る。
ナチスが政権を取って以降、生存圏構想が浮かび上がったものの、少なくとも長期資本取引の極端な減少のデータからは、相対的に優位な経済的地位にあるドイツから、生存圏とされる国々に投資が行われたとは言えず、投資全体が急激に縮小した。
ナチスは政権を確立して以降、国際収支のデータが示すように、貿易や資本の面で、世界経済との結びつきを弱め、独自の勢力圏の確立に向かって進もうとする。しかし、独自の勢力圏であるはずの東南欧の生存圏とされる国々との経済的な相互的な結びつきは強まってはいない。そうではなく、ドイツの政策は、周知のように周辺諸国を軍事的に支配しようとするものであった。
2 日本の対外経済構造
日本の貿易は、大恐慌の影響を受けて1930-34年には一時的な停滞がもたらされたが、その後急激な拡大を見せたことがわかる。日本は第1次世界大戦までには資本輸入国であったが、戦間期に輸出国に変わろうとしていた。長期資本については、本土ベースでは、戦間期では一貫して純流出であった。1930年代後半には、流出額で年平均約6.8億円の純流出にまで増大した。相手国・地域としては、朝鮮・台湾、そして満州・中国であった。
3 まとめ
以上の検討から、戦間期のドイツと日本の対外経済構造が、非常に異なっていることが明らかになった。ナチス・ドイツは、社会主義ソ連と同様に、内外にわたって経済の土台となる市場の機能を禁止あるいは制限し、対外的には閉鎖的・自給自足的な経済構造を構築しようとした。これに対して、日本では、市場が重要な役割を果たし続け、対外的な経済構造は、ますます対立が深刻になっていたアメリカや中国とも緊密な関係が続いていた。
日本の経済は、もともとドイツとの経済関係は緊密ではなく、経済構造も著しく異なっていた。これに対して、日米間の経済関係はますます深くなっており、また日米間では経済構造も企業活動も同じ特徴を持っていて、日米間の経済・政治関係を発展させることは、両国にとって非常に有意義な戦略だった。対米関係の強化・連携と比較して、日独伊三国同盟は、現実の経済とは乖離し、将来の発展も見通せない、非現実的な戦略だったと言わざるを得ない。
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