2016年3月7日月曜日

2.26事件を金融・証券市場と経済の実態から考える、「日本証券史」を読む

English Abstract
"A History of Japanese Securities" illuminates the actual conditions of the financial and securities market and economy in the period of the 2.26 Incident

In the 1930s, based on the development of heavy and chemical industrialization and extensive overseas investment, the Japanese economy favorably developed and financial and securities markets continued to support this development. Regarding stock prices, the index, which set July 1928 to 100, fell sharply as a result of the Great Depression that began in 1929. However, recovery began in 1932 and the rise continued after that. Neither the ringleaders of the 2.26 Incident nor the military leaders disturbed by the rebellion could understand the actual economic conditions. Both leaders were unable to develop an appropriate counterproposal for the economic policy administration.

2.26事件から80年を契機にして、事件の研究が続々と発表されている。私も事件を改めて理解したいと思い、様々な研究を参照してみた。しかし、最も注目されている筒井清忠氏の研究を含め2.26事件の主要な研究の多くが、あまりにも当事者周辺の研究に偏りすぎていているのではないかとの疑問を抱き続けている。

そこでまず、事件の背景のひとつとなる当時の国内の金融・証券市場と経済の実態について、「日本証券史」によって考えてみたい。「日本証券史」は」有沢広巳氏が監修し、そうそうたるメンバーによって編集され執筆された、コンパクトではあるが優れた文献である。

ここで注目する「第III編 昭和期-終戦まで」での、いくつか重要な論点を紹介したい。総説(上)では、新興財閥が牽引した重化学工業化、満洲への投資の急伸(140-2)、財閥の株式公開(176-81)、軍部と財閥の和解(180-1)、企業設立ブームと景気の急速な回復(181-3)、新興財閥と公開株式会社(186-91)、満洲経営と資本市場(191-5)など、どれをとっても重要な検討と結論をみることができる。私が別のデータを基礎に検討した内容と、基本的には一致している。

これらの基本的な主張とともに、興味深い研究が含まれている。それが、まず「投信の発足」である。
1941年11月、まさに太平洋戦争が開始されようとしていた時期に、野村証券が提出した投資信託承認申請書が認可された。認可にあたって大蔵省は次のように述べている。
「本制度は株式に対する新たな固定的投資家層を開拓することにより、浮動株を減じ、株価の安定に資し、株式投資の健全化に向かって一歩進むるとともに、産業資金の流通にも役立つこととなろう。また証券の民衆化、国民貯蓄の増強にも役立ち、さらに中小投資家が危険分散的に証券投資をなし、また証券投資につき専門家的知識を利用し、かつその管理を専門家に委ね得ることとなり、多大の便益があるものと考える」(217)戦争中も好調を維持し、「三年八カ月にわたって設定総額は五億二千八百五十万円にのぼった(受益者延べ人員十五万六千人)。」(218)と言う。

クリックして拡大してご覧ください

もうひとつ注目する項目が、「戦前の株価」である。
「資本主義経済は、企業の活動を中心にして動いている。その企業の成果・内容を評価する市場が株式市場であり、評価を縮約的に示すものが株価にほかならない。その意味で一国経済の動きは株価に反映される。」(240)
右の図(241)は、明治維新以降の株価指数と景気循環を一覧にしている。1930年代をみると、1930年から38年5月までは上昇局面で、株価もほぼそれと同様の動きを示している。

私の著書から引用して詳しく検討してみよう。
以下は、「日米コーポレート・ガバナンスの歴史的展開」第2章の表2.2である。
クリックして拡大してご覧ください
この表からは、いくつかの重要な事実が明らかになる。第1に、左から3つめの覧に示されているように、株式時価総額/GNPは、どの時期でもほぼ100%前後で一貫して高い。この水準は戦後よりも高く、戦前の株式市場の重要性を示している。
第2に、株価であるが、1928年7月を100とする指数が1929年に始まる世界恐慌の結果として大幅に下落する。しかし、1932年には回復を始め、その後上昇を続けているのである。「日本証券史」でのデータよりも上昇は長く続いていることが示されている。

1930年代には、日本の重化学工業化の進展と海外への活発な投資によって、経済は順調に発展し、金融・証券市場はその発展を支え続けていたのである。
これまで明らかになった資料や諸研究によって、2.26事件の指導者や、その勃発に動揺した軍の首脳達のかなりの人々が、以上の経済の実態を正確に理解できておらず、経済政策において当時の政権に対して優れた対案を用意していたとはとても言えないように思われる。

次のブログでは、「2.26事件について考える」という関心の下で、国際的な金融・資本関係における当時の日本の動きについて見ていきたい。あわせてご検討いただければ幸いです。

ブログのTOPブログの目次新保博彦のホームページ

2016年2月22日月曜日

歌麿の「深川の雪」の再発見と三部作、Rediscovered the Major Utamaro Work Fukagawa in the Snow

ぜひクリックし、拡大して見てください。

















以下の内容を踏まえたYouTube動画を作成しました。「岡田美術館で歌麿の「雪月花」三部作を見る」、ぜひご覧ください。https://youtu.be/c2GCTUIQYKw (2023.9.23)

English Abstract
Rediscovery of Kitagawa Utamaro's "Fukagawa in the Snow" and his triptych

"Fukagawa in the Snow" was rediscovered in 2012, and exhibited after restoration at the Okada Museum of Art in 2014. The exhibition’s pictorial record introduces not only "Fukagawa in the Snow," but also Utamaro’s triptych, including "Cherry Blossoms at Yoshiwara" at the Wadsworth Atheneum Museum of Art and "Moon at Shinagawa" at the Freer Gallery of Art. With the rediscovery and exhibition of "Fukagawa in the Snow" as a starting point, we hope that interest in Utamaro’s triptych increases. We also hope that the publication of these works will soon occur so that we can enjoy the high definition pictures of the triptych.

喜多川歌麿の「深川の雪」が2012年に再発見され修復の後、2014年に岡田美術館で公開された。当時忙しく見落としていたが、このたび岡田美術館から図録を購入できたのでぜひとも紹介したい。図録は、日英両国語で作成されていて、海外にもこの作品を伝えようという、美術館の強い意志が感じられる。

私はこのブログで、喜多川歌麿を以下の2回取り上げたが、この三部作によって、改めて歌麿の作品のすばらしさを感じることができた。
 「世界で最も美しい画本:喜多川歌麿、Kitagawa Utamaro (2013.5.2)
 「「浮世絵の至宝 ボストン美術館秘蔵 スポルディング・コレクション名作選」」 (2012.7.29)
  (クリックでそれぞれのページへ)

「深川の雪」は、「江戸随ーの芸者の町、深川の大きな料亭の二階座敷で、辰巳芸者と呼ばれた芸者や飲食の用意をする女性たちが、子どもや猫とともに多彩に描き出されている。・・・制作時期は、享和年間から文化初年(1802~06年)ころ、歌麿最晩年と推定されている。」(p.7)198.8×341.1 cmの大きな画面いっぱいに描かれている。
中央に降り積もる雪からからわかるように時期は冬、登場人物は27名の女性と子供のみである。画面上下には、うすい青色の雲がかかっている。それぞれの女性の着物は、色や模様など豪華に細密に描き分けられている、岡田美術館の図録は一人一人を切り取った画像も掲載しているが、女性の仕草や表情は、歌麿の他の浮世絵と同じように微妙に違っている。そして、それらの人々が、座敷のあちこちで様々なドラマを繰り広げている。

もうひとつは、アメリカ・コネチカット州ハートフォードにあるワズワース・アセーニアム美術館が所蔵している「吉原の花」である。寛政3~4年(1791~92)頃の作品である。(186.7×256.9 cm)
「吉原遊廓の大通り、仲の町に面した引手茶屋と路上を行き来する女性や子供、総計52人もの群像がはなやかに描かれている。・・・、贅沢を禁止する寛政の改革を風刺しているようにも思われる。」(9)
三部作の中では、全体としての金色と思われる色を中心とした色調と、女性達の衣装の多彩さなどから、最も豪華に見える。その豪華さと、武家の女性の参加が、解説にあるように、幕府の改革への批判となっているのだろう。満開に咲き誇る桜の下、二階立ての建物の上の階で、賑やかな宴会が開かれている。楽器の音、人々の歌い声や話し声までもが伝わってきそうである。

最後に、アメリカ・ワシントンD.C.のフリーア美術館が所蔵する「品川の月」である。「土蔵相模とうたわれた品川の有名な妓楼(食売旅籠)の二階座敷の様子を、まるで芝居の舞台でもあるかのように、広く、深く見渡した画面になっている。・・・天明8年(1788)頃の制作と考えられ、三部作のうちでもっとも早期の作品である。」(8)(147.0 x 319.0 cm)
この作品のみ、部屋の外にある海の遠くまで見渡せていて、海には何艘もの船が見える。海の彼方には月が浮かんでいる。遠近法が使われていて、画面の奥行きを最も強く感じられる。ここでも登場人物は女性と子供であるが、左上の奥の部屋には男性と思われる影が見える。

三部作が、場所、季節、登場人物などを意図的に描き分けているため、これらがひとつの構想で描かれた作品であることを推測させる。これらの作品を通じて、歌麿は大首絵とは異なった壮麗な世界を描いたのである。

三部作の制作を依頼したのは、栃木の豪商「釜伊」こと釜屋善野伊兵衛だと言われる。(4)幕府から、浮世絵に対して様々な弾圧を受けていた歌麿が栃木でこのような大作を完成させたこと、栃木の有力者があえてそれを支援した事実はとても興味深い。なお、今栃木市役所に三部作の高精細画像が展示されているという。残念ながら、図録の「深川の雪」以外の画像の解像度は小さいので、ぜひそれらの画像で見てみたい。

インターネットでの三部作についての記事を調べてみたが、上記のアメリカの2つの美術館を含め非常に少ない。「深川の雪」の再発見と、展覧会開催の機会に、歌麿のこの三部作への関心がいっそう高まることを期待したい。また、できるだけ早く、三部作すべての高精細な画像を楽しめる出版物が登場することも望みたい。

2016年2月19日金曜日

葛飾応為初の作品集『北斎娘・応為栄女集』、Katsusika Oh-i

葛飾北斎の娘応為の初の作品集『北斎娘・応為栄女集』が、久保田一洋氏編著で刊行された。目次は以下の通りである。
一 応為栄女、図版1-11
二 北斎娘辰女、図版12-15
三 北斎と応為、図版16-30
四 特別掲載(富士越龍図)、図版31
五 資料、図版32-33
六 論考・年譜・参考文献
なお、表紙(左)は応為の代表作である、「三曲合奏図」、裏表紙(右)は「関羽割臂図」である。

まず、応為の最も特徴のある作品のひとつでよく知られた「吉原格子先之図」である。明るく照らされた遊郭の中には、豪華な衣装を身につけた花魁が見える。右端の花魁のみくっきりと姿が見え、その他の花魁の姿や顔は格子が邪魔している。中を覗きこんでいる人々が持っている提灯のほのかな明かりだけが、遊郭の周囲を照らし出している。その人々の表情はわからない。明かりと暗闇のコントラストが、とても鮮やかである。
他の浮世絵作品にはあまり見られない独創的な構図と色使いである。

同じような構想で描かれたもうひとつの代表作が、「夜桜美人図」である。灯籠が明るく灯す火が、絵筆を走らす女性の上半身と足下を、満天の星が輝く夜の中で浮かび上がらせる。灯籠の周辺と足下には、桜が美しく咲いている。また、この画像からはわかりにくいが夜空の星が、その明るさによって異なった色で描き分けられている。
以上の2つの作品で、ともに描かれているのは、夜と闇、その中のわずかな明かりによって、人々の表情、活動や生活が表れてくる。応為がどうしてこのようなテーマと描き方をするようになったのか、まだ解明すべき点が多いが大変興味深い。最近になって、これらの作品がしばしば取り上げられるようになった。

以上の応為の作品とわかっているものとは別に、北斎と応為の共作とみなされる作品が第三章で紹介されている。
まず「端午の節句図」(右)、「商家図」(左)などのライデン国立民族学博物館所蔵の作品群である。
久保田一洋氏は「出来上がった作品の作者について、現在定まった見解を見いだすのは難しい。シーボルトは、北斎によると記録しているが、平成十九年「北斎展」(江戸東京博物館他)では「北斎工房」による作品に帰され、北斎真筆で疑いないとした旧来の視点は薄らいでいる。・・・ここでは十五点のうち三点を、北斎工房のなかでも応為が関与した可能性ある作品として掲げた。」(82)その詳しい根拠については、本書をご覧いただきたい。

最後に特別掲載の富士越龍図」である。北斎の絶筆と言われる「富士越龍図」は図版30として別に掲載されている。久保田氏は、図版30について、「本図はその落款に、描かれた日と北斎の生年が記されている。・・・しかし九十歳の北斎が、正月早々ここまで描いたというよりも、応為が描き上げたようにも思われる。」(99)と推論する。この推論を踏まえて、特別掲載の「富士越龍図」についても同様の推測を行っている。本書では詳しい検討が行われているので、参照していただきたい。

こうして、本書はこれまでまとまった紹介の無かった葛飾応為の作品と確認できるものだけではなく、彼女と北斎の共作とみなされるものまで幅広く収録した貴重な文献となっている。個々の作品についても詳しい検証が行われている。葛飾応為の作品は、この本を通じて、浮世絵の新しい世界を生み出したものとしていっそう注目されるだろう。

最近、喜多川歌麿の「深川の雪」が再発見され、「品川の月」「吉原の花」とともに、歌麿のもうひとつの世界が大いに注目されている。次々と発見されたり、公開されたりする作品と、再評価の新たな視点の登場が、浮世絵の世界をますます豊かにしている。今後のいっそうの展開がとても楽しみである。
歌麿の「深川の雪」の再発見と三部作、Rediscovered the Major Utamaro Work Fukagawa in the Snow (2016.2.22)

私のブログでの、北斎の晩年の傑作の紹介
北斎晩年最大の傑作、須佐之男命厄神退治之図 No.1 (2017.1.23)

ブログのTOPブログの目次新保博彦のホームページ

2016年2月17日水曜日

投資の2つのバイブル(2): 「敗者のゲーム」 、Winning the Loser's Game

前回のブログを引き次いで、今回のブログは、もうひとつの投資のバイブルとして評価の高いチャールズ・エリスの『敗者のゲーム 原著第6版』(Winning the Loser's Game, 6th edition: Timeless Strategies for Successful Investing)を取り上げたい。このブログでもできるだけエリスの記述を忠実に整理して紹介することにしたい。

工リスは1937年生まれ、1972年にグリニッジ・アソシエイツを設立。以後、30年にわたり代表パートナーとして、投資顧問会社や投資銀行などの経営・マーケティング戦略に関する調査、コンサルティングに従事する。2001年6月代表パートナーを退任。現在、ホワイトヘッド財団理事長。この間、イェール大学財団基金投資委員会委員長、米国公認証券アナリスト協会会長、バンガード取締役などを歴任している。

第1部「資産運用でまず押さえるべきこと」の冒頭で右の図 ウィルシャ-5000インデックスに勝てなかった株式ファンドの比率が示される。「年間成績では約6割のマネジャーが市場平均を下回る。10年では7割、20年では8割のマネジャーが市場に負けている。」(19-20)期間が長ければ長いほど、この傾向が顕著になることがわかる。

その背景についてこう続ける、「過去50年において、アクティブ運用を「敗者のゲーム」に変えてきた背景をここで整理してみよう。
・ニューヨーク証券取引所の1日の売買高は2000倍以上に増加、各国主要市場においても同様、
・投資家の構成は個人投資家90%から、機関投資家90%へと変化、・・・」(31-2)などが挙げられている。

このような条件の下では、インデックス・ファンドは、少ないコストで優れた結果をもたらす。その理由は以下の通りだと言う。
「第一に、証券市場は誰もが参加でき、自由で競争的な市場であり、・・・特定のファンド・マネジャーが競争相手に継続的に勝ち続けるのは難しい。
第二に、このような市場は「効率的市場」と言うことができる。
第三に、こうした「効率的市場」においては、株価は過去・現在・将来に関するその企業のあらゆる情報を「織り込んで」いる。
第四に、「効率的市場」における価格形成が常に正しいとは限らない。・・・総体としての投資家も、しばしば判断を間違える。しかしその場合も、いずれはさまざまな情報に基づく売買が始まり、行きすぎの訂正が起こる。その意味で十分「効率的」と言える。」(68-70)

第2部「運用を少し理論的に見てみよう」では、収益率が幅広く検討され、株式と他の投資が比較される。
図8-1は、アメリカ資本市場の投資リターンの実績を示している。年率リターン(1926~2012年)が、株式9.7%、債券5.4%、短期財務省証券3.9%、
インフレーション3.0%である。「インフレ調整後で、十分に長い期間で見ると、投資収益率が、実は一定しているという点が明確になってくる。」(92)
なお、興味深いのは、「1930~1955年、そして1965~1985年という長い間、株価はほとんど上
昇していないが、この間の配当再投資による資産増加は非常に大きい。」と言うことも図15-2(148)で示されている。

これらを踏まえて、成功する運用基本方針策定のポイント(5段階)が、次のように示される。
「〈第1段階〉自分自身の長期運用目的の確認と、その達成のために望ましい資産配分比率の策定:株式・債券などへの配分。
〈第2段階〉株式ポートフォリオの構成の決定:成長株対割安株、大型株対小型株、国内株対海外株など。
〈第3段階〉アクティブ対パッシブ比率の決定:多くの投資家にとっては、長期的にはパッシブがお勧め。
〈第4段階〉個別ファンドの選択、〈第5段階〉アクティブな運用。」(116-7)
このように、様々な投資目的を持つ個々の投資家にとって必要な基本的な指針を明確にし、その中でのインデックス・ファンドの重要性を説いている。

第3部「個人投資家への助言」では、個人投資家が持つ様々な問題に答えている。個人投資家のための十戒(150-153)、投資信託どう選ぶ(第16章)、生涯を通じた投資プラン(第18章)などである。
終章でエリスは、「私の関心は、市場に勝とうとして虚しい努力を続ける「敗者のゲーム」から、長期資産配分と運用基本政策の確立・堅持という「勝者のゲーム」へと移っていった。」(217)と述べている。この本のねらいと結論が、この短い文章に良く表されていると思う。

インデックス・ファンドは、1971年にウェルズ・ファーゴ銀行が年金向けとして株式インデックス・ファンドを立ち上げたのが始まりといわれている。現在では多数のインデックス・ファンドが販売されている。さらに、証券取引所に上場し、株価指数などに代表される指標への連動を目指す投資信託ETF (Exchange Traded Funds)も急激に取引を拡大している。

エリスの著作は、叙述と結論がとても明解で、それを説明する資料もわかりやすい。その意味でも、投資のバイブルと呼ばれるにふさわしい書籍である。この本も、多くの人にぜひお薦めしたい一冊である。
ところで最後に、本ブログで取り上げた2冊の書籍の問題提起が深まり、個人投資家に役立つ投資プランが作成できるようになるためには、株式市場と投資信託、企業のデータなどの長期にわたって自由に使えるようなデータベースが作成されることが求められているように思われる。その登場を期待したい。

ブログのTOPブログの目次新保博彦のホームページ

2016年2月16日火曜日

投資の2つのバイブル(1): ウォール街のランダム・ウォーカー、A Random Walk Down Wall Street: The Time-Tested Strategy for Successful Investing

立春のここ数日気温が乱高下するように、日本の株式市場が乱高下している。こうした時にこそ、改めて投資についての基本的な著作を読むのが良いように思われる。このブログでは、投資のバイブルとしての評価が高い2つの著書を、できるだけそれぞれに沿って紹介したい。ただし、両書とも、論点は多岐にわたり、取り上げている資料も豊富なので、ここでは最も核心的な部分のみが取り上げられていると理解していただきたい。
また、これら著作は、実際の投資に役立つだけではなく、経済と市場の仕組み、現代の経済史などを理解するためにもとても役に立つ。ぜひお薦めしたい本である。

まず、バートン・マルキールの『ウォール街のランダム・ウォーカー 原著第10版』(A Random Walk Down Wall Street: The Time-Tested Strategy for Successful Investing)である。もうひとつはチャールズ・エリスの『敗者のゲーム 原著第6版』である。この2冊の著者は、経歴が違っているので、基本的な主張は共通しているが、取り上げている材料や叙述のスタイルが違う。その点の比較も興味深い。
マルキールは、1932年生まれ、現在はプリンストン大学教授、大統領経済諮問委員会委員、アメリカン証券取引所理事等を歴任、世界的な投信会社パンガード・グループなどの社外重役としても活躍している。一方、工リスは1937年生まれ、1972年グリニッジ・アソシエイツを設立。以後、30年にわたり代表パートナーとなり、2001年6月代表パートナーを退任。現在、ホワイトヘッド財団理事長である。

まず、マルキールは冒頭で、タイトルにあるランダム・ウォークとは、「「物事の過去の動きからは、将来の動きや方向性を予測することは不可能である」ということを意味する言葉である。」(19)と説明する。
第1部「株式と価値」の第2章から第4章は、チューリップ・バブルから始まる歴史的な検討である。とても興味深い章で、『敗者のゲーム』には無い章である。是非とも読んでいただきたいが、このブログではスペースが限られているので、別の機会に取り上げたい。

図はクリックすると拡大できます
第2部「プロの投資家の成績表」の最後の章で、投資信託の実績が歴史的に検証される。
右の図は、表2 株式投信上位20ファンドのその後の成績と、表3 90年代の花型ファンドの凋落状況、(231-2)を結合したものである。どの場合も最初の10年は、上位20ファンド平均が上回るが、その後S&P500平均が上位20ファンドを上回る。投資信託の設定数は非常に多いので、多くのファンドがS&P500平均を下回っていることが推測される。
厳密にこの図を見れば、上位20ファンドは十分健闘していると言える。ただし、著者も言っているように、それを個人投資家が見つけ出すのは至難の業ではある。

第3部「新しい投資テクノロジー」では、現代のポートフォリオ理論が検討される。この部分も研究者マルキールらしい章である。
「行動ファイナンス学派によれば、市場株価は実にあやふやなもので、株価が過剰反応することは例外的なことではなく、むしろいつもそうなのだ。その上、投資家は合理的に期待される行動から規則正しいパターンで逸脱し、非合理的な売買の聞には強い相関関係があると言うのだ。」このような主張に対して、著者は、「そういった非合理的な行動がもたらす株価形成上の歪みは、必ず合理的な投資家の裁定行為(アーピトラージ)によって矯正される」(293-4)と批判する.。

これらの批判を踏まえて著者は、市場の「効率性」を説明する。「それは何も「市場は常に正しい」ということではないのだ。私や他の効率市場論者の多くは、市場の効率性を論ずる時に主として次の二つの基準を重視している。第一は、市場が新しい投資情報をどの程度速やかに、かつ適切に織り込むかである。この点に関して市場は驚くほど迅速で、かつおおむね正しい。・・・第二の、より重要な基準は、金融市場全体について当てはまることだが、より大きなリスクをとらない限り、平均以上のリターンを得ることができない場合に、市場は効率的と言うのだ。」(333-4)

図はクリックすると拡大できます
第4部「ウォール街の歩き方」ではまず、4つの時代区分で見たアメリカの株と債券のリターンが比較される。この部分も第1部と同様の、詳細な歴史的な分析である。
表では、3つの時代で、普通株(S&P500)は、最もリターンが大きいが、2000年代の第Ⅳ期では、債券(高格付け,長期社債)を下回っている。また、第Ⅱ期では、普通株のリターンは物価上昇を下回っていることがわかる。(381)この事実から、著者は長期的な投資方針を立てることが必要だと主張している。

これらの検討を踏まえて、著者は本書を以下のような明解な結論で締めくくる。
「さて、ウォール街をどのように歩き出せばいいのか。それには、大別すると三通りの歩き方がある。私はそれを次のように呼ぶことにしたい。第一のアプローチは思考停止型の人の歩き方(No-Brainer Step)である。第二のアプローチは手作り型の人の歩き方(Do-It-Yourself Step)である。そして、最後のアプローチは専門家任せの歩き方(Substitute Player Step)である。
第一のアプローチをとる場合は、様々な資産クラスと同じ動きをするように設計された、いろいろなタイプのインデックス・ファンドを買うだけでいいのだ。」(432)
「どうしても自分で有望銘柄を探したいという人には(第2のアプローチの場合)、ポートフォリオの中心部分はインデックス・ファンドで運用し、残りを個別銘柄に賭けるという混合スタイルを強く勧めたい。」(454)

ところで、訳者の井手正介氏は、この本を推奨しつつ、日本の金融市場と企業の活動を踏まえて、「効率性の低い市場においても、インデックス・ファンドのメリットは大きいのだ。市場平均をそっくり持つ代わりに、パフェットにあやかってROEが高いのに低い評価しか得ていない「割安優良銘柄」、すなわち「バリュー株」を選んで、そのインデックス・ファンドを作ればいい。」(481)と提案されている。
日本の市場にあわせた非常に興味深い提案ではあるが、20%という比較的数が少ない株式が、高ROE、低PERと言う特徴に対して適切な評価を得ることができるかどうか、今後も検証していく必要があるだろう。このようなファンドが生まれ、市場での評価が高くなり、企業へのフィードバックが強くなり、企業活動の改善が図れればなお良いだろう。

ブログのTOPブログの目次新保博彦のホームページ

2016年2月4日木曜日

東洋経済とダイヤモンドの大学ランキング2015

恒例の大学ランキングが発表されている。『週刊東洋経済臨時増刊 本当に強い大学2015』(2015年5月27日号)と、『週刊ダイヤモンド』 2015年11月7日号である。それぞれが独自の立場で、有益なデータを公表している。

クリックして拡大すると鮮明になります
まず、週刊東洋経済であるが、毎年発表されるランキングで重視してきたのは、「教育力」、「就職力」、「財務力」の三つだったが、今回「国際力」が加わった。各項目について2~4の指標を採用、計12指標を偏差値に換算し、その合計を平均したものを総合ポイントとしてランキングしている。
その結果、上位10位11大学に7旧帝大、早慶、そして青森中央学院大学と豊田工業大学がランクインした。どの力で各大学が評価されたのかが具体的にわからないが、4つの総合力で評価しているため、旧帝大や早慶が順当にランクインされた。一方で、青森中央学院大学では、14年に看護学部を設置し志願者が異常値といえるほど激増、高い外国人学生比率も寄与し、豊田工業大学では、就職率や自己資本比率の高さが際立つと言う。
財務力については、志願者数増減率(%}、経常利益率(2013年度、%)、自己努力収入比率(2013年度、%)、自己資本比率(2013年度、%)が検討されているが、必ずしも財務データとは言いにくい数値が含まれている。また、例年掲載される大学四季報は巻末にあるが、やや扱いが小さくなっている。詳細な財務データよりも、将来的な発展要因と一般の人々へのわかりやすさを狙った企画にシフトしていると言えるだろう。

クリックして拡大すると鮮明になります
次に、刊ダイヤモンドである。同誌は、グローバル教育力、就職力、研究力の3つの指標を、それぞれ45, 30, 25点ずつで評価し、その合計点でランキングを作成している。上位10位には、7旧帝大と慶應大学(早稲田大学は11位)、東京工業大学と秋田の国際教養大学がランクインしている。図の通り、国際教養大学は、グローバル教育力が非常に評価が高い。
週刊ダイヤモンドは財務力が総合評価には含まれていないので、巻末で私立大学のみの財務力ランキングを掲載している。そこでは、収入(億円):帰属収入、利益率(%):(帰属収入ー消資支出)÷帰属収入、自己資金比率(%):(資産ー負債)÷資産が、それぞれ40, 30, 30点で評価され合計されている。その結果、帝京大学、聖路加国際大学、近畿大学、川崎医科大学、川崎医療福祉大学が上位を占めている。総合ランキングとの関係は明らかではない。

ところで、週刊東洋経済も指摘しているように、赤字に陥っている私学は、やや減少しているとは言え全私学の三分の一である。両誌は、この問題にももっと焦点を当てるべき、あるいは別に企画すべきだと思われる。ここで、経営的な危機に陥っている大学に対して、両誌の調査が示唆していることなどをまとめておきたい。
第1に、求められているのは、時代の変化に対応した特色ある大学作りである。週刊東洋経済の調査での青森中央学院大学、豊田工業大、週刊ダイヤモンドでの国際教養大学のように、他に例をみない大学・学部作りができれば、2つの大学のように東北地方という地理的なハンディを負っているにもかかわらず、旧帝大と競争できているのである。
第2に、両誌に対してを含め社会に積極的に情報を公開し、公開された情報を改革に生かすことも求められている。特に、経営危機に陥っている大学ほど、経営状態の正確な把握、詳細な財務諸表の公表が必要である。そして、経営改革を進めるためには、周辺企業の経営者、周辺自治体関係者、会計士、弁護士、コンサルタントなどの経営の専門家を積極的に経営に参加させるべきだろう。その結果、大学との直接の利害関係を持たない外部理事の比重を高め、内部関係者の比重を下げることは、一般の企業の場合と同様に不可欠な課題となっている。いわゆるガバナンス改革である。
第3に、そのようにしても、経営危機に陥った中小大学で単独での生き残りは非常に難しい。では何が可能か。大学が持つ経営資源の有効な活用をめざして大学間の連携を強化し大学の再編・統合をめざすことである。大学には研究や教育の重要な経営資源がある。図書館、IT関連設備、グラウンド、教室などはどこにでもあるその一例である。これらを共有する仕組みを作り、大学間の信頼関係を醸成し、連携から再編・統合への踏み出すことが必要だろう。これは、中小の大学の学生生活の充実や教職員の仕事環境の改善にも、直ちに貢献できると思われる。

ブログのTOPブログの目次新保博彦のホームページ

2016年1月26日火曜日

日本で戦前から活動する社会事業財団を紹介します。Japanese Foundations since the Inter-war Period

最近、私は日本を中心として戦前から活動する社会事業財団について調べているが、調査中にいただいた各財団の貴重な文献を簡単に紹介したい。いずれも貴重だが、残念ながら公共の図書館にはあまり所蔵されていない。

まず、戦前で個人が設立した最大の財団である原田積善会を紹介したい。1920年に左の写真の原田二郎が、1020万円を拠出して、最初の大型財団原田積善会が創設された。
「原田二郎は、1849年10月10日、松阪市殿町で同心(清一郎)の長男として生れた。東京に遊学ののち、大蔵省に勤め、31才で横浜の第74国立銀行(現在の横浜銀行の前身)の頭取となり手腕を発揮するが、事情があって職を辞し松阪に戻った。
その後37才で東京に居を移して療養生活(胸部疾患)を送ったのち、1902年54才の時、明治の元勲の一人である井上馨 の依頼を受け、家運の傾きかけた大阪の鴻池家とその経営する鴻池銀行(後の三和銀行の前身)の整理、再建に当った。
1919年に鴻池の建て直しに成功してその職を去ったが、翌1920年原田二郎家を絶家のうえ全財産を拠出し、積年の計画であった原田積善会を設立。その後10年間財団の代表者として運営に当ったが、1930年5月5日、82才で死去した。」(原田積善会HPより、一部省略、改行などの修正を加えた)

会の事業支出は、最初の年度の1920年には15.9万円であったが、年々増加し、1936年以降は年間100万円を超え、全年度の合計が2116万円に達した。当初の資産の2倍を超える規模となった。
会の資産は、1920年に1360万円であったが、10年後の1930年には2610万円、1943年には5000万円を超えている。3.7倍である。このような急増の背景には、積極的な投資活動があった。
原田積善会の壮大な事業そのものだけではなく、それを支える投資活動、さらには情報公開の適切さは、この会の創設者とそれを後継した人々の先駆的な精神と、当時のそれらを支える社会の特徴を良く表している。
右は、送っていただいた、原田積善会が刊行された『原田積善会90年のあゆみ』(2011年)である。会は何度も同様の資料を公刊されているが、これが最も新しい。なお、戦前の『財団法人原田積善会事業概要』などは、近代デジタルライブラリーで読むことができる。これらで、どのような事業が行われているかをご覧いただきたい。
また、私のWebsiteでの論文「日本の財団:戦前と戦後」でこれらを全体として検討しているので、ご参照ください。
(右上が森村市左衛門)
戦前から活動している財団としてはもうひとつ紹介しておきたいのが、森村豊明会である。
我が国最初の近代的財団は森村豊明会で、1914年に森村市左衛門の寄付で創設された。その創設には、直前のアメリカの財団の影響があると言う(林雄二郎・山岡義典 『日本の財団』、中公新書)。
森村豊明会は、日本女子大学教育学部とそれに付属する幼稚園と小学校の新設資金などの拠出を第1番目の寄付の対象とするなど活発に活動した。
「森村市左衛門は、1839年、江戸京橋で代々続く武具商の家に長男 として生まれました。
市左衛門は、弟の豊を慶応義塾で英学を学ばせ、1876年に豊を始め、大倉孫兵衛、廣瀬実栄、村井保固、新井領一郎、大倉和親らと共に森村組(現森村商事㈱)を設立して、1878年ニューヨークに森村ブラザーズを開き、日本の陶器を中心とする特産品を販売し、「正直・親切」の精神が認められ事業が拡大、其の後、1904年に日本陶器合名会社(現在の㈱ノリタケカンパニーリミテド)を設立。以降、陶業技術を活かして、衛生陶器、送電線の碍子、自動車のプラグなど、各分野に進出して現在のTOTO㈱、日本ガイシ㈱、日本特殊陶業㈱などの各社に発展しました。
晩年まで教育の重要性を説き、慶應義塾、北里大学などに継続的に寄付を続けるほか、森村学園を開校、日本銀行、第一生命、富士紡績等の設立に参画、晩年キリスト教の洗礼を受け各地で講演。1919年に80歳でその生涯を終えました。」(森村豊明会HPから、一部省略、改行などの修正を加えた)
右は、送っていただいた森村豊明会『マル木の礎 新訂版』(1996年)である。貴重な文献がいくつも掲載されているが、森村豊明会の活動を示す詳細な資料は、残念ながらあまり残されていない。

戦前の日本は、この二つをはじめとする財団が活発に活動していた。当時の日本は市場経済と市場中心型コーポレート・ガバナンスを発展させていたが、それとともにこのような企業家達の先駆的な社会事業を目的とする財団活動があったことを忘れてはならない。
私のWebsiteではこれらを順次検討しているが、このブログでもその結果を簡略に紹介して行きたい。