2017年8月21日月曜日

「真の日本の友」グルー駐日大使の『滞日十年』(2)

前回に引き続き今回は、グルー駐日大使による、日米開戦回避に向けての試み、日本降伏の際の日本の立場を尊重した講和条件作成に当たっての貴重な努力を、グルーの著作を通じて紹介しておきたい。言うまでもなく、これらの努力によって、グルーは「真の日本の友」(廣部泉『グルー』の副題)としての評価を幅広く受けている。

駐日大使の国務長官宛報告
『滞日十年』には、開戦直前の1941年9月29日の、グルー駐日大使の国務長官宛報告が掲載されている。
グルーは、1941年7月に第三次内閣を組織した近衛首相との会談を通じ、近衛首相とルーズベルト大統領の会談を持つことで、日米間の緊張を解き、両国の戦争を避けられることを確信し、会談の開催をルーズベルト大統領らに直接訴えた。
「慎重に考えた結果、もし予備会談の線に添う取極めが、提唱された両国首班の会見によってなされるならば、最小限度極東の状況がこれ以上悪化することを防ぎ、恐らくは確実に建設的な成果をおさめうるかも知れぬ本質的な希望があると信じるにいたった。」(『滞日十年』下、236)
しかし、残念ながら結局ルーズベルト大統領は会談に応じず、近衛首相は退陣し、日米開戦に向けた動きが急速に強まる。

グルーの一貫した立場:「建設的な和解」
ところで、グルーは上記の文書で、外交官としての彼の立場をこう強調している。「米国はその目的にとりつくのに、経済上の抑圧を累進的に行うか、いわゆる「宥和」(appeasement)ではない積極的融和方式(constructive conciliation)をとるか、この二つの一つを選ぶ立場に直面することをつけ加える。」(236, 原語はKindle版原書による)
翌30日に、「今や私が主張するのは「宥和」(appeasement)ではなく、「建設的な協和」(constructive conciliation)である。」(246)と繰り返している。訳書では同じ用語について異なった訳語が使われているが、私はこの重要な用語conciliationを、共に和解と訳すのが適当だと思う。


第2次世界大戦終戦後の構想
日米が開戦するとグルーは帰国し、1944年には国務次官に就任した。
独日の敗戦がいよいよ確実になる過程で、大戦終了後の世界をどう統治するかについて激しい議論が連合国内部で行われるようになってきた。
独日との戦争終了後、ソビエト・ロシアとの対立と戦争が確実に起こることを予想し、1945年5月19日にグルーはこう書いた。
「サンフランシスコ会議終了後すぐに、我々の対ソ政策は全線にわたって、ただちに硬化すべきである」(TE, 1446)
戦後、事態はグルーが危惧した通りに進展し、ルーズベルト大統領が推進した米ソ協力は一転、冷戦に変わり、その対立の枠組みは今に続いている。

対日声明案(1945年5月28日)
ドイツ降伏後、日本との講和条件を決めるため、アメリカ及び連合国内で様々な議論が行われたが、グルーは対日声明案に以下の様な内容を含むべきであると、新たに就任したトルーマン大統領に進言した。
「(12)これらの目的が達成され、日本人を代表する疑いも無く平和的で責任ある政府が創設されるならすぐに、連合国の占領軍は日本から撤退する。もし、そのような政府が日本での侵略的な軍国主義の将来的な発展を不可能にする平和的な政策に従うという本当の決意を、平和愛好国が信じることができるなら、現在の皇室のもとでの立憲君主制を含むかもしれない」(TE, 1433)
結局この案は採用されなかったが、日米開戦回避の努力と共に、グル-がいかに日本の政治と社会の実情をよく理解しているかを示している。

2回のブログで紹介した、グル-の『滞日十年』は、終戦後72年のこの夏に、第2次世界大戦と現在の世界を考えるために、多くの人が読んでいただきたい書籍である。

あわせて、第2次世界大戦を見直す大著『裏切られた自由(フーバー大統領回顧録)』邦訳刊行迫る (2017.8.6)をはじめとする『裏切られた自由(フーバー大統領回顧録)』関連の私のブログを読んでいただければ幸いです。


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