2016年6月29日水曜日

『若冲原寸美術館 100%Jakuchu!』、原寸図で若冲を楽しむ

若冲原寸美術館 100%Jakuchu(小学館、2016年)が刊行された。原寸で若冲の「動植綵絵」を安価で見ることができる画集である。若冲の作品集が続々と出版されているが、他書にはない特徴となっている。
この書籍はもうひとつ、「動植綵絵」を年代別に並べていることも特徴である。この書籍では、まず各図の全体と解説を付け、その後に特色のある原寸の部分図がいくつか掲げられている。
ここでは、興味深い5つの原寸の部分図を紹介してみたい。

まず、最も早い時期の作品である「雪中鴛鴦図」(1759年)を見てみよう。「鴛」は雄の、「鴦」は雌のおしどりである。左はその図の中央右側の図で、雄のおしどりを原寸で切り取った図である。一方、雌は身体の半分を水中に沈めている。ちなみに、ここまで図に近づくと、絹地に描かれていることがよくわかる。

「何より印象的なのは、裏彩色を効果的に活用した雪の表現。枝や地面に降り積もった雪は、部分的に胡粉の裏彩色を施し、表面からの胡粉の彩色箇所と微妙な白の明度差を出して見事なまでの表情を演出。」(23、以下ページ数)


次に、「蓮池遊魚図」(1761-65年頃)である。時代は少し下がって17番目の作品である。右の図は、最も鮮やかな左下の蓮のみを切り取った原寸の部分図である。

多くの専門家が指摘されているように、若冲の作品には仏教、禅の精神がその背景にある。作品のすべてからそのことがうかがえるが、この図は蓮を選んでいるという点で、その特色を直接的に表現していると言えるだろう。

「鮎の群れとオイカワが描かれていることから、ここは川中と想像される。しかしながら蓮は本来、流れのない池などに生息する植物であり、さらに蓮の花がまるで水中に咲いているかのように見えるところなど、なんとも不思議な空間構成の作品と言えよう。」(107)

これ以外でも若冲の図の多くは、このように現実にはあり得ない構図を採用している。やはり以下の3つの作品を含む後期の作品に属する「菊花流水図」(1765-66年頃)は、最もその特徴がよく出ていると思われる。

明和2(1765)年の9月、若沖は末弟の死をきっかけにまずは24幅を相国寺に寄進したが、その後も制作を続けて全30幅を完成させることとなる。以下は、残りの1-2年で完成した6幅のうちの作品である。

まずは動植綵絵で最も代表的な作品である、「老松白鳳図」(1765-66年頃)。左はほぼ中央に位置する鳳凰の頭部の原寸図である。

「ドレスのようともレースのような美しさとも評される鳳凰の白羽の描写は、そのほとんどの部分に胡粉と黄土、あるいはその重なりによる裏彩色が施され、表面に胡粉によって描かれた羽毛の線は、これまでの作例よりも繊細で柔和な印象がある。」(155)

原寸で見る鳳凰の白い羽根のひとつひとつが実に繊細で美しい。そして羽根から透けて見える金色は、金泥ではなく黄土によって描かれていると言う。若冲は金色の特色をよく理解し、金泥ではなくあえて黄土を使ったとみられる。さらに、肌裏紙の墨色も金色に見せる効果をもたらしている。
ところで、この書籍によると、「老松孔雀図」(1757-60年頃)では、金泥を例外的に用いていると言う。


次に、「群魚図」(1765-66年頃)である。図の左下のルリハタの原寸図が右の図である。

「ルリハタの青色からは、18世紀初めにドイツで発明された人工顔料・プルシアンプルーが検出され、これが現在知られる日本で最初の使用例となった。」(173)
「動植綵絵」では、様々な青色が使われているが、プルシアンブルーはここでしか使われていないという。とても深く濃い青色である。
この高価な顔料が使われたことは、若冲が海外からのものを含めあらゆる画材の情報を得、それを購入できる財力があったことを示している。


最後に、「紅葉小禽図」(1765-66年頃)である。全体で紅葉を描いている右上の部分の原寸図が左の図である。

「その光を受けて紅葉したカエデの葉が輝いて見える。570枚もあるカエデの葉を表裏の彩色によって微妙に描き分け、その9割近くに裏彩色を施す。」(185)

全体図でも見えるカエデの一枚一枚の微妙な違いが、この原寸図では一段と鮮明に見える。左の原寸図には含まれていないが、枯れる寸前ではないかと思われるやや黒ずんだ葉もある。
最終期に描かれたこの図では、若冲の裏彩色の技法がここに極まっていると言える。

この書籍の巻末に太田彩さんの簡明にまとめられた解説が付いているので紹介したい。
まず若冲の創作の意図について、「自身を含めた様々な生き物総ての生命は尊いという仏の教えに深く共感し、その想いを根幹として描いた《動植綵絵》は、若沖がイメージした仏の世界観を荘厳するものであったのである。」

そして、創作の特徴は以下の通りである。
「肌裏紙の墨色、その上に裏彩色、さらに織物の絵絹、そして表面の顔料と染料系の絵具による表現。これらが融合して表出された《動植綵絵》は、日本画の、絹絵の特質を熟知し、材料や技法を最大限に生かして、優れた表現力を発揮した、日本美術の代表作の一つであることに間違いはない。」

ここでは5箇所しか紹介できなかったが、ぜひとも本書を手にとっていただき、若冲による生きとし生けるものの見事な原寸での表現を見ていただきたいと思う。

私の若冲に関する他のブログ

ブログのTOPブログの目次新保博彦のホームページ

2016年5月26日木曜日

ますます重要になる第三者委員会と、それを評価する機関の役割

 日本を代表する企業のひとつである東芝で、長期にわたる広範囲な粉飾決算が行われていた。私は、論文「東芝の粉飾決算とコーポレート・ガバナンス改革」で、具体的な経緯と今後のコーポレート・ガバナンス改革について検討した。論文は、私のWebsiteでご覧いただけます。
 東芝の粉飾決算の解明にあたって、元東京高等検察庁検事長の上田廣一氏を委員長とする第三者委員会の果たした役割は非常に大きかった。
図表はクリックすると拡大できます。以下の図表も同じ
左の表はその論文に掲載した、第三者委員会の調査報告書のまとめと、その結果を受け入れた東芝の過年度決算の修正である。
 第三者委員会の調査では、2009年度から2014年度第3四半期(ただし、2009年度の有価証券報告書に記載されている比較対象年度である2008年度を含む)を対象期間とし、工事進行基準案件に係る会計処理を含む4つの課題が調査され た。
 その結果、過年度の決算の修正額は1518億円、それに固定資産の減耗を含めて2248億円の税引き前の利益の修正となった。
 その後、2015年度の決算が行われ、修正はさらに大きくなった。詳しくは上記論文を参照していただきたい。

 この調査報告書を含め8つの第三者委員会の調査報告書に対して、第三者委員会報告書格付け委員会は格付けを公表している。この委員会は、第三者委員会等の調査報告書を「格付け」して公表することにより、調査に規律をもたらし、第三者委員会及びその報告書に対する社会的信用を高めることを目的としているという。
 以下の表(上記論文に掲載)では、格付け委員会による8つの第三者委員会の調査報告書に対する評価を一覧にし、点数化した。東芝に対する評価は下から2番目に低い。主な理由は、東芝が買収したウェスチングハウスの減損問題に触れなかったこと、監査法人を調査対象にしなかったことが挙げられる。

 ところで、東芝よりもさらに大幅に低く最低であったのが、朝日新聞社第三者委員会が公表した報告書である。これは、朝日新聞が、虚偽である吉田証言などをもとに従軍慰安婦について長期にわたって報道し続けた責任と再発防止について調査報告している。この報告については、改めて詳しく検討したい。
 この報告書に対して、格付け委員会は、8名の委員のうち、5名が不合格とし、3名は合格最低点のD、C以上の評価は皆無だった。 相対的によりましな評価であるD評価の委員の意見を紹介しておこう。「本報告書については、「組織的要因に対する事実認定と原因分析」という重要な要素が大きく欠落していると言わざるを得ない。」、「事実調査と原因分析の踏み込み不足、また、体制面からの再発防止策の提言不足」、「委員構成の独立性、中立性、専門性(F)」である。D評価であっても、その報告の基本的な内容への批判となっている。

 わが国では企業やその他の組織の不祥事に対して、第三者委員会の役割と期待がますます大きくなってきている。それ故に第三者委員会が独立して活動しているかどうか、報告が専門的、包括的に作成されているかどうかを検討することもまたますます重要になってきていることを強調しておきたい。

ブログのTOPブログの目次新保博彦のホームページ

2016年4月30日土曜日

「特別展 明治有田 超絶の美、The Compelling Beauty of Arita Ceramics」に行ってきました

兵庫陶芸美術館では、特別展 明治有田 超絶の美-万国博覧会の時代-、The Compelling Beauty of Arita Ceramics in the Age of the Great International Expositionsが開かれ、その図録として、左の書が刊行されている。

図録にも書かれているように、「有田の磁器生産は1610年代の創始以来、400年の輝かしい歴史を有している。・・・17世紀末には柿右衛門様式が完成し、18世紀初頭には古伊万里金襴手様式や鍋島藩窯様式が確立した。・・・次に大きな変化が見られるのは、19世紀後半の幕末・明治である。」(同書p.6、以下括弧内は本書ページ数)

私は以前のブログ、「「IMARI/伊万里 ヨーロッパの宮殿を飾った日本磁器」を見る、IMARI/ Japanese Porcelain」で、大阪市立東洋陶磁美術館で開かれた、特別展「IMARI/伊万里 ヨーロッパの宮殿を飾った日本磁器」を紹介したが、その後の有田・伊万里の動きを知る機会として、今回の展覧会はとても貴重である。

本書は以下の4部に分かれ、208ページのほぼ全ページに多数の図版と詳しい解説が掲載されていてとても楽しく読める。
I 万国博覧会と有田、II 「香蘭社」の分離と「精磁会社」の誕生、III 華やかな明治有田のデザイン、IV 近代有田の発展である。

Iの万国博覧会と有田を代表する作品が右の「染付蒔絵富士山御所車文大花瓶」(1873(明治6)年)である。1873(明治6)年のウィーン万国博覧会は、日本政府が公式に参加した最初の万博である。そこに出展された作品である。

「明治の有田焼の花瓶の中では最大高。全面に染付で富士山や龍文を描〈が、その上からさらに蒔絵で桜、反対面に松を描く、桜と松の部分は剝離防止のため無釉地に漆塗りしているが、他の漆文様は染付釉上に施している。」(34)

高さは台まで入れると2m以上になるという。陶芸館に入ってまずその大きさと豪華さに圧倒させられる作品である。


IIの時期を代表する作品が「香蘭社 色絵有職文耳付大壺」(1875(明治8)年~1880年代)である。
1879(明治12)年、精磁会社と分離したのを機に、深川栄左衛門は香蘭合名会社を設立した。そこでの作品である。

「胴を巡るように帯状の凹凸が設けられ、段ごとに異なる文様が精緻に描き込まれる。 濃く鮮やかな青の占める面積が多〈、微細な文様の輪郭を一つずつ金彩で丁寧に囲んでいることから、金属線で象った文様に色ガラスを流し込む有線七宝のように見える。」(61)

有線七宝については、このブログでも同じ明治期の並河靖之を、「日本の工芸:七宝、並河靖之、Shippo, Yasuyuki Namikawa」で紹介したが、当時の技術の高さをともに示している。

左の図をクリックして拡大して見ていただきたい。上記の説明の通り、気の遠くなる作業によって、見事に細かく描きこまれている。陶芸館では全面を見られるので、一回りして見てみるとさらにその見事さに驚いてしまう。

同じくIIの時期の作品が、右の「精磁会社 色絵鳳凰花唐草文透彫大香炉」(1879(明治12)年~1897(明治30)年頃)である。
精磁会社は、1879(明治12)年に、手塚亀之助、辻勝蔵、深海墨之助らが香蘭社から分離独立して設立した会社である。精磁会社には、当時の有田の最高技術を持つメンバーが集結した。

「豪華絢欄な装飾が施された高さ1mに及ぶ大香炉。最新の顔料などを駆使し、窓絵の鳳凰や花喰烏などが描き込まれた綿密な吉祥文様には、当時の技術者たちの意気込みが感じられる。」(84)

なお、八代深川栄左衛門の次男、深川忠次は、・・・1894(明治27)年に独立し、深川製磁を設立。有田を代表する窯元として現在に至っている。
1911(明治44)年には企業形態を陶磁器会社としては珍しかった株式会社とし、深川製磁株式会社となる。これも当時の有田の先進的な試みとして注目したい。

最後に、IVの時期を代表する作品が、「香蘭社 染付精磁陽刻雲鶴文耳付大花瓶」(1910(明治43)年~1920年代)である。

「香蘭社に図案が存在し、製品が鍋島家に伝わる貴重な作例。全面に陽刻で雲鶴文が施され、首部に家紋である杏葉紋をあしらった唐草文の文様帯が一周する。」(179)

全体の色調が青と白になり、これまでの金色をふんだんに使ったものから一変する。先に紹介した深川製磁の製品は「フカガワブルー」と呼ばれて欧米でとても人気であったと言われるが、この香蘭社の製品にも同じ特徴が見られる。
このブルーを背景にした中央の白の鶴が際だって美しい。

以上のように、明治期の有田は、外国の技術や経営形態を積極的に取り入れ、また海外市場に大胆に進出することで、飛躍的な発展を遂げた。
この事例は、その後の日本の工業化に引き継がれただけではなく、現代の日本にも求められる課題を指し示してと思われる。

ブログのTOPブログの目次新保博彦のホームページ

2016年4月7日木曜日

2.26事件を含む『昭和天皇実録 第七』が刊行される、An Official Record of the Emperor Showa Vol. 7

「新保博彦のブログ」に英語のAbstractを付けます。過去のブログにもさかのぼる予定です。
2016年4月16日現在、最新の5つのブログに付けています。

English Abstract
Publication of "An Official Record of the Emperor Showa Vol. 7" including the 2.26 Incident 

This 908-page volume includes the important period before the Pacific War from 1936 to 1939. One of the key sections is the record related to the 2.26 Incident. According to this record, since the beginning, the Emperor Showa's intention for the 2.26 Incident to "suppress immediately" is clear and consistent. In contrast, military leaders were uneasy about the incident ringleaders' demands and action, and were unable to take unanimous action in response to the 2.26 Incident. This lack of consistent military leadership and disagreement predicts the start of war, its prolongation and the confusion at the end of the war.

『昭和天皇実録 第七』が刊行された。この巻は908ページから成り、1936年から1939年の太平洋戦争突入前の重要な時期を含んでいる。その最も重要な内容のひとつが、2.26事件に関するものである。その主な部分は、同書29ページから47ページまでである。

内容としては、『本庄日記』『木戸幸一日記』がすでに刊行されていて、予想された通りであるが、改めて事件と天皇の考えと行動を理解することができる貴重な資料となっている。価格も安いので、ぜひ多くの人が読まれることを期待したい。

以下では、昭和天皇の以下の2つの重要な発言を取り上げたい。なお、これ以外に重要な内容としては、「陸軍大臣の辞表に対する御不満」(p.34、以下括弧内数字はページ数)もあるが、ここでは省略する。

2月26日
侍従武官長拝謁、
午前七時十分、侍従武官長本庄繁に謁を賜い、事件発生につき恐懼に堪えない旨の言上を受けられる。これに対し、事件の早期終息を以て禍を転じて福となすべき旨の御言葉を述べられる。また、かつて武官長が斯様の事態に至る憂慮を言上したことにつき触れられる。以後、頻繁に武官長をお召しになり、事件の成り行きを御下問になり、事件鎮圧の督促を行われる。御格子までの間、武官長の拝謁は十四回に及ぶ。」(30、赤字は新保による)

朝日新聞東京版 1936年2月27日号外
(出所:聞蔵IIビジュアル)
クリックしてご覧ください
2月27日
股肱の老臣殺傷を御難詰
なおこの日、天皇は武官長に対し、自らが最も信頼する老臣を殺傷することは真綿にて我が首を絞めるに等しい行為である旨の御言葉を漏らされる。また、御自ら暴徒鎮定に当たる御意志を示される。翌二十八日にも同様の御意志を示される。(36)

この件について侍従武官長本庄繁は日記にこう記している。
「廿七日拝謁の折り、暴徒にして軍統帥部の命令に聴従せずば、朕自ら出動すべしと屡々繰り返され、其後二十八日も亦、朕自ら近衛師団を率ひて現地に臨まんと仰せられ、其都度左様な恐れ多きことに及ばずと御諌止申上ぐ。其当時陛下には、声涙共に下る御気色にて、早く鎮定する様伝へ呉れと仰せらる。真に断腸の想ありたり。」(『本庄日記』、235)

2月28日
陸軍大臣の時局収拾案に逆鱗
午後、侍従武官長本庄繁に謁を賜い、陸軍大臣川島義之・陸軍省軍事調査部長山下奉文より、首謀者一同は自決して罪を謝し、下士以下は原隊に復させる故、自決に際して勅使を賜わりたい旨の申し出があったことにつき、言上を受けられる。これに対し、非常な御不満を示され御叱責になる。ついで、第一師団長堀丈夫が部下の兵を以て部下の兵を討ち難いと発言している旨の言上を受けられる。これに対し、自らの責任を解さないものとして厳責され、直ちに鎮定すベく厳達するよう命じられる。」(40)

同じく『本庄日記』にはこう書かれている。
「陛下ニハ、非常ナル御不満ニテ、自殺スルナラパ勝手ニ為スベク、此ノ如キモノニ勅使杯、以テノ外ナリト仰セラレ、又、師団長ガ積極的ニ出ヅル能ハズトスルハ、自ラノ責任ヲ解セザルモノナリト、未ダ嘗テ拝セザル御気色ニテ、厳責アラセラレ、直チニ鎮定スベク厳達セヨト厳命ヲ蒙ル。」(278)

私の『昭和天皇独白録』のブログで示したように、昭和天皇は、田中内閣辞職事件以来、立憲君主制の立場を強く意識され、内閣の決定に対して反対する事は無くなった。これへの例外が、2.26事件に対する発言であり、終戦の聖断であった。

『独白録』にはこう書いてある。
「私は田中内閣の苦い経験があるので、事をなすには必ず輔弼の者の進言に俟ち又その進言に逆はぬ事にしたが、この時と終戦の時との二回丈けは積極的に自分の考を実行させた。」(38)

以上のように2.26事件に対する昭和天皇の考えは当初からきわめて明解で揺らいでいない。これに対して軍首脳は、事件首謀者達の要求と行動の前に動揺し、また首脳間で一致した行動を取れないでいた。軍首脳の見解の一貫さの無さと不一致、それは後に戦争の開始とその長期化、収拾時の混乱を予測させるものであった。
それだけではなく、事件首謀者や軍首脳が、当時の日本の経済や、国際的な環境について十分な理解があったとは言えないことについては、すでに、直前のブログ(「2.26事件を国際金融・資本関係から考える、三谷太一郎「ウォール・ストリートと極東」を読む」、「2.26事件を金融・証券市場と経済の実態から考える、「日本証券史」を読む」)で論じた通りである。

ブログのTOPブログの目次新保博彦のホームページ

2016年3月14日月曜日

細見美術館の春画展に行ってきました、SHUNGA Exhibition at Hosomi Museum

English Abstract
"Shunga Exhibition" at the Hosomi Museum in Kyoto from February 6 

The exhibition's official website explains that “Shunga refers to paintings and woodblock prints of high artistic value that combine sexual content with humor. During the Edo Period, in fact, this genre was called warai-e.” A large number of men and women of all ages visited the exhibition. The exhibition pictorial record consists of 630 pages, the image quality is very clear, and the binding style is excellent and easy to open wide for viewing. The Shunga, which made full use of excellent ukiyoe artistic techniques, becomes another indispensable world of ukiyoe. Shunga was mass-produced, many people enjoyed, Shunga was one of the symbols of the rich Edo period.

2月6日から京都の細見美術館で「春画展」が」開かれている。展覧会のHPでは、開催の趣旨を次のように説明している。
春画は江戸時代には笑い絵とも呼ばれ、性的な事柄と笑いが同居した芸術性の高い肉筆画や浮世絵版画の総称です。
特に欧米では、19世紀末ジャポニスム時代以降、高い評価を得てきました。近年では、2013年から2014年にかけて大英博物館で開催された「春画 日本美術の性とたのしみ」展が大きな話題を呼びました。
このたび、東京の永青文庫で昨年、開催された日本初の「春画展」が京都に巡回するはこびとなりました。」

この展覧会はとても注目されていたので、さっそく行ってきた。10時開館に間に合うように出かけたが、すでに長蛇の列、展覧会に対する関心の高さがうかがわれた。入館者は、私達シニア世代の男女だけではなく、若い世代の男女も多く、男女比率はほぼ半々ではないかと思われるほどだった。

この盛況では当然ゆっくりと見ることができず、上の図録(4,000円)を買うことにした。あまりに高いので一度は躊躇したが、図の通り630ページにもなる大著であるだけではなく、画質がとても鮮明で、特に綴じ方が優れていて絵が見開きでとても見やすくできている。ぜひお薦めしたいだけではなく、他の展覧会などの図録、さらには一般の画集でもぜひとも採用して欲しいと思った。
展覧会と図録は三部から構成されている。I 肉筆の名品、II 版画の傑作、III 豆判の世界である。これに小林忠氏の「春画の受容」を含め六つの解説、絵師解説、作品目録が付いている。

ちなみに図録の表紙に使われているのは、春画史を飾る名品のひとつとされる「67 袖の巻 鳥居清長 天明5年(1785)頃」(p.322-30)である。浮世絵であまり見られない横に細長い12枚組み物で、この画は身体はわずかな数の線で描かれ、紙の白さが肌の白さを強調している。

以下では、ごく一部の代表的な作品を紹介したい。ただし、「18歳未満の方の目に触れませんよう、本書のお取扱いには十分ご配慮をお願い致します。」と言うことなので、画像の選択には注意した。

まず、「40 狐忠信と初音図(春画扉風) 絵師不詳 江戸時代(19世紀)」(p.236-7)である。「一見、男女の鎧武者が組み合っているとのみ見えるが、男の草摺をめくり上げると、交合部が露わとなる。その趣向から遊廓などの調度として作られたと考えられている。」
この絵に対応する絵が図録の次のページにある。この二枚は、I 肉筆の名品の最後を飾っている。

次からの三枚は、浮世絵の巨匠達の作品である。これらはすべてII 版画の傑作に含まれる。
まず、「58 風流座敷八景 鈴木春信 明和7年(1770)」(p.286-9)である。
全部で8図から構成されているもののひとつである。「本来、風景図である八景を座敷内に見立てたものとして、巨川こと旗本の大久保忠舒(1722~77)のもとで春信が描いた「座敷八景」がある。本作はその趣向を踏襲して春画にしたもの。」
鈴木春信の最も有名な作品のひとつ「雪中相合傘」を、このブログの「「浮世絵の至宝 ボストン美術館秘蔵 スポルディング・コレクション名作選」で紹介しているので、これと対照的に見ていただいてもおもしろい。

そして、「69 歌まくら 喜多川歌麿 天明8年(1788) 浦上満氏蔵」(p.332-343)である。
「歌麿の狂歌絵本の代表作である「画本虫撰J と同年に刊行された、歌麿の枕絵を代表する画帖。全12図と序・跋で構成。」

この一枚で顔で見えるのは男性の片目のみ、身体で見えるのは二人の手を除けば、女性の尻から足の一部のみだが、それが逆に画のねらいをよく示している。
この画も、先の「「浮世絵の至宝 ボストン美術館秘蔵 スポルディング・コレクション名作選」で紹介した歌麿の技法、「娘日時計」午の刻で使った、女性が羽織った薄衣から白い肌が透けて見える技法が見事に使われている。

ここに掲載する最後は、「73 喜能会之故真通 葛飾北斎 文化11年(1814) 浦上満氏蔵」(p.363-75)である。
「北斎の艶本の代表作の一つであり、なかでも下巻第3図にあたる大蛸と小蛸が海女を襲う図(P372、373、左の画)は、北斎のみならず、浮世絵の春画全てを見渡してみても強く記憶に残るものであろう。しかしながら、・・・全体の構成は北斎によるものだが、部分的に門人が代作している可能性が指摘されている。」
この画は、自然界のあらゆるものを描き尽くした北斎でこそ着想できた蛸と女性というテーマなのだろう。画面全体が文字で埋め尽くされているが、声や音が執拗なまでに書き込まれているそうである。これも北斎のひとつのチャレンジかもしれない。

これらの版画の後に、III 豆判の世界が現れる。豆判は縦9センチほど、横13センチ弱の版型の小さな版画で、持ち運び用に作られたと言う。

浮世絵師の多様な技法を駆使した膨大な春画は、浮世絵のもうひとつの不可欠な世界となっている。それが大量に生産され多くの人々が楽しんだという事実は、豊かな江戸時代の象徴のひとつと言えるだろう。

最後に改めて、浮世絵全般を取り上げた、この展覧会の図録のような色鮮やかで見やすい図録や画集が次々と出版されることを期待したい。

ブログのTOPブログの目次新保博彦のホームページ

2016年3月7日月曜日

2.26事件を国際金融・資本関係から考える、三谷太一郎「ウォール・ストリートと極東」を読む

English Abstract
Taichiro Mitani's "Wall Street and the Far East" helps us consider the 2.26 Incident from an international finance and capital relations perspective

China in the 1930s had a huge debt. Developed countries including Britain invested vigorously in railroad construction and other enterprises. However, the Chinese international balance of payment with the silver standard grew worse with the silver price jump, and the monetary system fell into crisis. The influence also spread to Hong Kong and Britain. Britain then dispatched Leith-Ross to ask for cooperation from Japan. If Japan accepted Leith-Ross's proposal, improved the relationship between Japan and China, and promoted international cooperation, the wide-ranging profits of Japan including Manchuria's interests would probably have been protected. Mitani’s book illuminates and details the international politics of the year before the 2.26 Incident.

前回のブログに続き、2.26事件を取り巻く国際的な金融・資本関係について検討し、事件について改めて考えてみたい。

三谷太一郎氏の「ウォール・ストリートと極東」は、2.26事件前後の国際関係を考察するのにも重要な文献である。
三谷氏の同書全般の課題は、「第一次世界戦争後に成立した日本の政党制と国際金融システムとの関係について具体的に検証し、その観点から日本の政党政治が何であったかを明らかにする」ことである(序)
同書の検討のすべてが興味深いが、ここでは2.26事件前後の箇所について紹介したい。もちろん、三谷氏の方法そのものも、今日でもきわめて重要である。
三谷氏は、「7 国際金融資本とアジアの戦争」の「六 中国幣制改革と四国借款団」で、Stephen Lyon Endicott, Diplomacy and Enterprise: British China policy 1933-1937に依拠して、次のような事実をあきらかにする。

当時の中国には、イギリスを含む先進国が鉄道建設を含め積極的に投資した膨大な債務があった。ところが当時銀本位制を採用していた中国は、銀の高騰に伴って国際収支が悪化しその幣制が危機に陥っていた。その影響は香港や、イギリスにも及ぼうとしていた。そこで、イギリスは国際的な責任としてだけではなく、自国の金融上の利益を護るため、リース・ロス(下記の写真)を日中を含む各国に派遣し、事態を打開しようとした。

Diplomacy and Enterpriseから
リース・ロスの提案は次のようなものだった。
「(一)銀本位制の放棄とポンドと連結した管理通貨制への移行。
(二)1000万ポンド借款供与。但しその半分は英国政府保証、他の半分は日本もしくは日本を含む他の諸国政府保証。
(三)借款供与は形式上満州国に対して行われ、担保は満州国政府収入に設定される。そして形式上満州国政府が受け取った手取金は、中国が満州を失ったことに対する賠償金として満州国政府から中国政府に支払われる。」(p.216-7)
このような方策によって、中国が満洲国を承認し、イギリスその他の諸国も同じ動きをすれば、先に述べた課題は解決されると考えられた。

さらに、リース・ロスはもうひとつ踏み込んだ提案を行っていた。「日中平和友好条約」である。
これによれば、「中国は満州国を承認するが、これに対して日本はまずその政治的代償として長城以南の中国の政治・行政への介入を行わない保証を与える。さらにその経済的代償として一九三二年の満州国出現前に中国が負担していた内外債の相当の割合(日本側に明らかにしたところによれば、「関税収入ノ割合ヨリシテ全体ノ三割トシ年額約百万磅ノ負担」)を満州国が承継し、その金額を中国政府に支払うというものであった。」(219)

以上の記述から、イギリスが日本に対し、非常に大胆で日本にも有利な提案を行っていたことがわかる。1933年にリットン報告書が採択されたことを契機に、日本は国際連盟を脱退したが、それが直ちに日本の孤立を生み出したわけではなく、上記のような動きもしばらくは続いたのである。

しかし、このような動きに対する、日本側の反応は以下のように冷淡なものであった。
日本外交文書」の「九月十日の広田外相とリース・ロスの会談内容について」という文書によれば、外相は「又唯漫然ト「クレヂツト」ニ應スルハ考ヘモノニテ結極南京政府ノ浪費スルトコロトナルヘシ」(645)と述べた。
また、「九月十七日の重光外務次官とリース・ロスの会談内容について」という文書では、重光外務次官は、「満洲國ノ承認ノ如キハ支那ノ爲メニ利益ナルモ満洲國トシテハ之カ爲別ニ特ニ獲ル所ナカルヘシ兎ニ角本問題ハ日満支ノ間ニ必ス遠カラス交渉アルコトトナルヘキ處」(646)と述べた。
(注:三谷氏は、「日本外交年表並主要文書」から引用されているが、ここではより新しい「日本外交文書」を用いた。二つの文書にはやや異なる表現がある。その相違の理由についての説明は「日本外交文書」には無い)

日本側が、リース・ロスの提案を受け入れ、国際間の金融・資本関係を前提にした、より現実的な対応をしていれば、中国の幣制は安定し、日本以外の国々からも積極的な投資が行われ、外国投資による中国のいっそうの経済発展を可能にしただろう。そうすれば、日中間の関係を改善し、国際協調を推し進めることで、日本の幅広い利益が護られたであろうと思われる。

ここで冒頭の2.26事件の問題に帰るが、2.26事件の指導者や、その勃発に動揺した軍の首脳達のかなりの人々が、このような国際関係の現状を理解し、現政権に対する有効な対案の提起を行っていたとは思えない。その意味で、やはり彼らの構想が非現実的であったと言わざるを得ないように思われる。

ブログのTOPブログの目次新保博彦のホームページ

2.26事件を金融・証券市場と経済の実態から考える、「日本証券史」を読む

English Abstract
"A History of Japanese Securities" illuminates the actual conditions of the financial and securities market and economy in the period of the 2.26 Incident

In the 1930s, based on the development of heavy and chemical industrialization and extensive overseas investment, the Japanese economy favorably developed and financial and securities markets continued to support this development. Regarding stock prices, the index, which set July 1928 to 100, fell sharply as a result of the Great Depression that began in 1929. However, recovery began in 1932 and the rise continued after that. Neither the ringleaders of the 2.26 Incident nor the military leaders disturbed by the rebellion could understand the actual economic conditions. Both leaders were unable to develop an appropriate counterproposal for the economic policy administration.

2.26事件から80年を契機にして、事件の研究が続々と発表されている。私も事件を改めて理解したいと思い、様々な研究を参照してみた。しかし、最も注目されている筒井清忠氏の研究を含め2.26事件の主要な研究の多くが、あまりにも当事者周辺の研究に偏りすぎていているのではないかとの疑問を抱き続けている。

そこでまず、事件の背景のひとつとなる当時の国内の金融・証券市場と経済の実態について、「日本証券史」によって考えてみたい。「日本証券史」は」有沢広巳氏が監修し、そうそうたるメンバーによって編集され執筆された、コンパクトではあるが優れた文献である。

ここで注目する「第III編 昭和期-終戦まで」での、いくつか重要な論点を紹介したい。総説(上)では、新興財閥が牽引した重化学工業化、満洲への投資の急伸(140-2)、財閥の株式公開(176-81)、軍部と財閥の和解(180-1)、企業設立ブームと景気の急速な回復(181-3)、新興財閥と公開株式会社(186-91)、満洲経営と資本市場(191-5)など、どれをとっても重要な検討と結論をみることができる。私が別のデータを基礎に検討した内容と、基本的には一致している。

これらの基本的な主張とともに、興味深い研究が含まれている。それが、まず「投信の発足」である。
1941年11月、まさに太平洋戦争が開始されようとしていた時期に、野村証券が提出した投資信託承認申請書が認可された。認可にあたって大蔵省は次のように述べている。
「本制度は株式に対する新たな固定的投資家層を開拓することにより、浮動株を減じ、株価の安定に資し、株式投資の健全化に向かって一歩進むるとともに、産業資金の流通にも役立つこととなろう。また証券の民衆化、国民貯蓄の増強にも役立ち、さらに中小投資家が危険分散的に証券投資をなし、また証券投資につき専門家的知識を利用し、かつその管理を専門家に委ね得ることとなり、多大の便益があるものと考える」(217)戦争中も好調を維持し、「三年八カ月にわたって設定総額は五億二千八百五十万円にのぼった(受益者延べ人員十五万六千人)。」(218)と言う。

クリックして拡大してご覧ください

もうひとつ注目する項目が、「戦前の株価」である。
「資本主義経済は、企業の活動を中心にして動いている。その企業の成果・内容を評価する市場が株式市場であり、評価を縮約的に示すものが株価にほかならない。その意味で一国経済の動きは株価に反映される。」(240)
右の図(241)は、明治維新以降の株価指数と景気循環を一覧にしている。1930年代をみると、1930年から38年5月までは上昇局面で、株価もほぼそれと同様の動きを示している。

私の著書から引用して詳しく検討してみよう。
以下は、「日米コーポレート・ガバナンスの歴史的展開」第2章の表2.2である。
クリックして拡大してご覧ください
この表からは、いくつかの重要な事実が明らかになる。第1に、左から3つめの覧に示されているように、株式時価総額/GNPは、どの時期でもほぼ100%前後で一貫して高い。この水準は戦後よりも高く、戦前の株式市場の重要性を示している。
第2に、株価であるが、1928年7月を100とする指数が1929年に始まる世界恐慌の結果として大幅に下落する。しかし、1932年には回復を始め、その後上昇を続けているのである。「日本証券史」でのデータよりも上昇は長く続いていることが示されている。

1930年代には、日本の重化学工業化の進展と海外への活発な投資によって、経済は順調に発展し、金融・証券市場はその発展を支え続けていたのである。
これまで明らかになった資料や諸研究によって、2.26事件の指導者や、その勃発に動揺した軍の首脳達のかなりの人々が、以上の経済の実態を正確に理解できておらず、経済政策において当時の政権に対して優れた対案を用意していたとはとても言えないように思われる。

次のブログでは、「2.26事件について考える」という関心の下で、国際的な金融・資本関係における当時の日本の動きについて見ていきたい。あわせてご検討いただければ幸いです。

ブログのTOPブログの目次新保博彦のホームページ