日経による吉田博の経歴は次の通りである。「吉田博は、風景画の名匠として、明治・大正・昭和期に活躍した。1876年(明治9年)に現在の福岡県久留米市に生まれた博は、1902年(明治35年)に発足した太平洋画会の中心画家となり、水彩、油彩、版画の風景表現に大きな足跡を残した。・・・吉田ふじをは1887年、現在の福岡市出身で、洋画家、吉田嘉三郎の三女に生まれる。養子に入った博と、米欧旅行から帰国後の1907年に結婚。子育てをしながら、画業を続け、戦後は抽象絵画も発表、99歳で亡くなる数年前まで絵を描き続けた。」(ふじをについては改めて紹介したい、なお、「」は日経からの引用)
「養沢 西の橋」は、1896年に描かれた水彩画である。「西多摩、現在の東京都あきる野市にある渓流を描く。」渓流は博の版画作品でもしばしば取り上げられるテーマであるが、この絵では渓流が中心ではなく、緑に覆われた森を背景に、ごつごつとした岩をぬって流れる渓流が描かれている。
「霧の農家」は、1903年頃の水彩画である。「霧に包まれた農村の湿潤な大気と朦朧感の描出」と日経は特徴付けている。遠くにぼんやりと輝く日の光、その淡い光を受けて木々を写す水面などすべてが朦朧となっていて、水彩画という方法を見事に生かした表現ではないかと思われる。「米国の美術関係者を驚かせたのも、こうした繊細を極めた風景表現だったろう。」
『𠮷田博 全木版画集』に掲載されている水彩画は4点のみで、初期の上記2つの作品は掲載されていない。その意味で、NIKKEI The STYLEが紹介した作品は、𠮷田博のすべての仕事を理解する上で欠かせない作品となっている。
「『吉田博 全木版画集 増補新版』刊行される」(2021年10月23日)、「『新版画ー進化系UKIYO-Eの美』に出かけました」(2021年9月16日)、「没後70年 吉田博展(2019-21)、図録の紹介」(2020年12月2日)、「『吉田博 全木版画集』」(2017年1月9日)
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